【Ep1 聖なる魔女と黒い悪魔】1-1 純白の証
無数のろうそくの明かりが夕闇のような空間を作り出して、白昼の外界から時間を切り離していた。壁の中で仄かに照らされた聖像はゆらゆらとした影の中にひっそりと佇み、蝋の匂い漂うそこに睨みを利かせる。
厳かな雰囲気。息をするのも憚られる、重く切ない影のゆらめき。今日は朝から体調が悪かったはずなのに、それらがもたらす緊張は私に病人の振る舞いを許さず、不安定な期待が頬を高潮させる。
最後までここにいたい、けれど早く終えて休みたい――相反する気持ちが私の中で静かにいがみ合う。どこか夢見心地のまま前を見れば、まるで救いを与えるかのように光り輝く場所が見えた。
黄金の装飾を施された大きな祭壇に、ステンドグラスの幾筋もの光の帯が降り注ぐ。空気を揺らすのは美しく優しい賛美歌の旋律。祭壇を取り囲むように並んだ聖職者達が、己の喉で天上の神を崇め称える。穢れなき魂と、穢れなき信仰を声に乗せて。
どうか私を見て。この肉体の内側に宿る魂は誰よりも白く、私こそがあなたの愛を受けるに相応しい。
苦しい身体に鞭打ち、より美しい歌声を届けようと息を吸い込む。私もまた祭壇を彩る駒として、他の聖職者達と横並びになってこの場の空気を震わせていた。
賛美歌の中盤、祭壇に女性が上がる。純白のベールの上の冠は教皇である証。
教皇が聖書を読み上げる声はさながら歌のようだった。賛美歌をコーラスとして、一つの音楽を作り上げる。
そうして曲が最高潮に達した時、一瞬だけろうそくの火が不自然に揺れた。
同時にステンドグラスの光は弱まって、祭壇の真上の天井から柔らかな光が降りてきた。それは教皇を照らし、彼女の胸元を彩るクロスへと吸い込まれていく。
「御加護を」
教皇が一言発すれば、溜め込んだものを吐き出すようにクロスの中心の宝石から光が放たれた。始めは燃え上がるように宝石を包み込み、しかし次第に無数の線へと形を変える。その線は祭壇を囲む聖職者一人ひとりの胸を刺し、けれど突然ふっと立ち消えた。たった一本だけの光の線だけを残して。
「シェルビー・ハート、あなたは神に選ばれた」
その瞬間、私の心の底から歓喜が湧き上がった。この胸に刺さった光が身体の中へと吸い込まれていく。そこから広がる温かさは私の全身を包み込んで、穢れのない魂を優しく覆う。
そのはずだったのに。
「――ッ!?」
魂がきつく締め付けられる。まるで罪人を痛めつけるロープのように、ぎりぎりとその形を歪めそうなほど強く食い込んでいく。魂の苦しみは私の身体を硬直させ、額からは一気に脂汗が吹き出した。
私は神に選ばれたのに。選ばれた私に与えられたのは、その加護のはずなのに。
痛い。苦しい。怖い。加護は私を守るためのものではないのか。それが何故私に苦しみを与えるのか。神はこんなことをお望みなのだろうか。
――この苦しみは、知られてはいけない。
「ッ……御国に召し上げられるまで」
見知らぬ声に従って、私は深々と頭を下げた。
§ § §
聖ハリエット大聖堂――神聖ガエリア帝国の誇る歴史ある教会。その大聖堂を北へしばらく歩くと街を囲む城壁に出る。そこにある城門をくぐり、更に進めば川が姿を現す。幅は五メートルほどで、ふくらはぎまでの深さしかない穏やかな川だ。
大聖堂で行われていたお祈りを終えた私は、逃げるようにしてこの場所まで来ていた。
いつもだったら怒られるはずなのに、直前に加護を授かった私を咎める者はいなかった。灰色のベールを濡らす汗を見ても周りは感慨深そうに頷くばかり。何を呑気なと憤ったのは一瞬のこと、私はこれ幸いとばかりに「少し気を静めたい」と言って一人ここまで駆けてきた。
大聖堂から離れるごとに身体の苦しみが和らいでいく。魂の拘束が緩み、ずっと重かった呼吸が軽くなる。
一体何故、どうして……私は神に選ばれたのに、その加護を受けて苦しむだなんてあっていいはずがない。
――川を越えろ。
「ッ……また……!」
知らない声が、頭の中に響く。急に聞こえるようになったこれは神の声なのだろうか。だが本当に神なら、私に苦しみを隠せと仰せになるだろうか。
分からない。知るのが怖い。
それなのに私の脚は躊躇うことなく川の中を進んで、じゃぶじゃぶと音を立てながら向こう岸へとこの身を運んでいった。
秋口の水の冷たさが心臓をすくみ上がらせる。足首まであるスカートが両足に絡みついて、入り込んだ水がブーツを川底に縫い付けようとする。
それなのに私の脚は止まらなかった。止めようとも思わなかった。
岸に足をかければ濃灰のスカートから水が滴り落ちる。足に力を込めればブーツから水が溢れ出す。
けれどぐしょぐしょの足元の不快さが気にならない。まるで何かに導かれるように、私の身体は一心不乱にその先の森へと歩を進めた。
「早くッ……!!」
魂が金切り声を上げる。加護の暴力を気にも留めず、欠けた何かを探すかのように。
返せ、返せと幾度も。邪悪に満ちたその声は本当に私のものなのだろうか。神に認められた純白の魂が、そんな声を出せるのだろうか。
いつの間にか森の闇が私を包み込んでいた。真上にあるはずの太陽は木々に隠れてどこにも見えない。
冷たい風が私を足元から凍えさせる。ぶるりと震えて全身に鳥肌が立つ。同時に逆だった産毛が、これはただの寒さではないと訴えかける。
何かが、いる。
「――おかえり、シェルビー。我が契約主よ」
「ッ誰!?」
急に自分を呼んだ声にそちらを見ると、闇から黒髪の男が姿を現した。
長い黒髪に、真っ赤な瞳。けだるげな目元は他者を見下すかのような愉悦を滲ませ、しかし薄い唇は冷たく閉じられている。端麗という言葉はこの男のためにあるのかもしれない――そんな馬鹿げたことを思ってしまうくらい蠱惑的な何かが、上等なマントを羽織る彼からは溢れ出ていた。
この男が、〝何か〟の正体。その直感はあるのに、私は何故か逃げようとしなかった。
「無事神は欺けたようだな、聖女殿。偽りの純白は白き者を好む奴らにとってはさぞ美しかったろう」
「何を言ってるの!? 神を欺く……!?」
「穢れを返そう、愛しの魔女。憎しみに塗れたお前に純真は似合わない」
トン、と男の指が私の胸に触れる。加護の繭の内側がじりじりと疼き出す。
これは魔だ。聖とは真逆の、地獄の気配。
加護がぴりりと反応する。あらゆる魔を跳ね除ける神の加護は、この男の存在を決して許さない。何をされようとも私の身を守って全てを跳ね返す。それなのに――
憎しみ、悲しみ、怒り。たくさんの負の感情が押し寄せる。
諦めと希望、光り輝く水晶に覆われた部屋。両親への恨み言、悪魔の甘言。
『神を欺きたいならその魂の穢れは邪魔だ。恨みと共に俺が一時預かってやろう』
今朝のやり取りが鮮明に蘇る。
差し出したのは己の穢れ。そのすべてが魂の底から溢れ出してくる。
こんなの加護でも跳ね返せない。跳ね返しようがない。だってこれは外から与えられたものではなくて、ずっとずっと私の中にあったものだから。
私は聖女。神に仕えしシェルビー・ハート。……いや、違う。
「私はシェルビー……シェルビー・スターフィールド。この国から追放された、怨嗟の魔女」
口にした途端、頭をがつんと殴られた気がした。そこからぱあっと記憶が飛び出して、私を、シェルビー・スターフィールドを形作っていく。
そうだ、私は魔女だ。かつて私を裏切った人々とこの国に復讐するために、魔女から聖女になることにしたのだ。
聖女の条件は、神聖魔法の適正と神の加護を持つこと。神聖魔法は転生して手に入れた。残る神の加護に必要だった純白の魂は、契約している悪魔と取引をして偽装してもらった。
そして今日、加護のお祈りでその結果が出たのだ。偽りの白さで神の加護を獲得した今の私は間違いなく聖女。加護も馴染んできたのか、さっきまでこの身を苛んでいた苦痛はだいぶ弱まっている。
私は神に認められた。魔女として三十二年、生まれ変わってからは十七年。約五十年の歳月をかけて、やっと目的への第一歩を果たしたのだ。
「――ぃやったぁあああああ!!」
両の拳を天へと掲げる。魂の穢れを隠すために記憶まで一時的に失うのはどうかと思ったけれど、結果としてうまいこと聖女になることができたのだからこの際どうでもいい。
「ていうか加護があんな苦しいなんて聞いてないよ! もう本当死ぬかと思った! でも生きててよかった!」
神の加護は魂を外側から包み込んで、その内に入ろうとするあらゆる魔を払いのける。外側なら大丈夫だと思っていたけれど、それでも無垢なふりをしている内側の魂にまで干渉してきたのだからやはり神の加護は侮れない。いや、あれくらいで済んでよかったと思うべきだろう。聖職者である以前に魔女でもある私は、そもそも教会という聖なる場所にいるだけでも体調が優れないのだから。
「死んだら俺が無理矢理繋ぎ止めていたさ。ここまでしたのに簡単に死なれたら割に合わない」
緩く微笑みながら男が言う。優しげとも取れるその表情に、珍しいこともあるものだと心が跳ねた。
「そんなこと言ってぇ! サリってば私に死なれたら悲しいんじゃないの? ん?」
サリというのはこの黒髪の美丈夫の名だ。彼のこともばっちり思い出した。この男は私の契約している悪魔だ。
何も知らないで見ると恐ろしいほどの美しさだけれど、中身の性悪さを理解している今では腹立たしいくらいの美しさに収まっている。……収まってるのか? まあいいや。
「記憶がなかった方が可愛げがあったな……相変わらず鬱陶しい奴だ」
「じゃあなんで五十年も一緒にいるの? 鬱陶しいって言っても情が湧いたんでしょ」
「湧いたのは情じゃなくて貸しだ。転生に神聖魔法の獲得、更に今回の魂の偽装――他の細かいものもすべてシェルビーの魂を代償にすることになっているが、今のお前の魂じゃ半分も払えんぞ」
「え……そんなに……? 嘘じゃん、サリってば私の恨みが凄いから全部の願い叶えられるよって言ったじゃん」
サッと頭が冷えていく。悪魔との契約は怖い。シビアだ。普段のサリのことは今更怖いとは思わないけれど、魂を差し出してすら契約の代償を払えないのは流石に笑えない。
「悪魔の言葉を信じるなよ。当時ですら転生分の価値しかなかったのに」
何それ聞いてない。私に支払い能力がないって分かってたのに高額商品のローン組ませてきたの? やばくない?
「ッ詐欺だ!」
「ああ、詐欺だな。だがお前も調子に乗ってどんどん俺に要望を追加してきたが?」
「うッ……」
心当たりが有りすぎてぐうの音も出ない。悪魔の甘言を信じるのは愚かだと昔から分かりきっている。契約時は内容をきちんと確認しましょうということだって、人間同士ですら忘れちゃいけない。
サリの微笑みが私の胸に突き立てられる。鋭利なその切っ先はじわじわと私の肌を押し込んで、痛みはあるのに傷ができないギリギリのところで止められる。
「よし分かったこうしよう。ちょっとずつ何かしら別のもので払う。だから全額返済には猶予を! 復讐が終わった時に足りるようにするから勝手に持っていかないで!」
そう、悪魔の代償はこれが怖い。契約内容に見合うものだと判断されれば、こちらが渡していないものまで持っていかれる可能性がある。それでまた新たな願いをしなければならなくなったら地獄だ。このリボ払いは永遠に終わらない。
「言っておくが利子もあるからな」
「は!? 聞いてない!」
悪魔との契約って利子あるの? そんなの初耳だ。五十年も一緒にいたのに何故教えてくれないのか。これじゃあまるでわざと利子を増やそうとしていたみたいじゃないか――ふと浮かんだ考えに、まさかなと思いながらサリを見る。すると綺麗な笑顔でこちらを見ている悪魔と目が合った。
「悪魔に誠実さを求めるな」
気が遠くなったのは、きっと加護やら何やらで無理をしていたせいだ。