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ファム・ファタールの断罪  作者: 丹㑚仁戻
最終章 ファム・ファタールの断罪
106/111

【Ep16 聖なる魔女と帝国の悪女】16-7 剥がれ落ちる魔性

 全身を痛みが蝕む。魔女の魔法で無理に動かしたせいだ。その痛みと魔力切れの怠さに襲われて、光が収まる前に私の身体は立っている力を失った。


「シェルビー!」


 倒れる私を支えたのは黒い人影。サリだ。「無茶なことを……」、苦しげにサリが言う。その姿に嬉しいと感じてしまったのはこの状況のせいだろう。この光の中で彼が動けるということは、私の目論見がうまくいったということだから。

 そのことに安堵して頬が緩む。その時だった。


「嫌ぁあぁぁぁああぁあああああ!!」


 甲高い、けれどしわがれた悲鳴が響いた。その声に掻き消されるかのように加護の光が収束する。辺りが通常の明るさに戻った時、悲鳴の出どころにいたのは一人の老婆だった。


「痛いッ! 痛いぃぃ……――ッ!? 手が……! 私の手!!」


 自分の両肩を抱いていた老婆は自分の手の異変に気が付くと、しわくちゃの両手を震わせながら顔の前まで上げた。


「何よこれ……どうして……!」

「それがあなたの正体ってことでしょ、トリスアラナ」


 サリに支えられたまま老婆に告げる。……そう、この老婆はトリスアラナだ。若さを保つ力を失った、本来の姿。


「どういうことよ! 私は、私の美貌は……!」

「悪魔との取引で得たものだったんでしょう? ならそうなって当然。今の加護の光は私を守るもの。それであなたの肉体にあった悪魔の力が浄化されたんだよ」

「そんなッ……でもあなたは若いままじゃない!!」

「だって私のこの身体は本当に若いんだもん。あなたの若作りとは違ってね」


 私の言葉にトリスアラナが目を見開く。何を言っているのか理解できないという顔で、ただただ私を見つめてくる。


「私のこの肉体はシェルビー・スターフィールドのものとは違うの。正真正銘、十代の肉体。勿論魔女だから浄化されたら痛くてしょうがないけど、この肉体の若さと悪魔の力は関係がない。でもあなたは違う。あなたの肉体は生きた分の年齢を重ねてる。老いをただ悪魔の力で誤魔化していただけ。浄化された結果が異なるのは当たり前のことだと思わない?」


 さっきサリと話したのはこれを確認するためだ。もっと端的に尋ねてしまいたかったけれど、それでトリスアラナが私の目的に気付いたら困る。だから彼女が喜びそうな、私にとっては辛い話題も混ぜながら会話をした。サリの返答で私の表情が曇れば、トリスアラナはそちらに食いつくと思ったから。


 そして、その思惑はうまくいった。トリスアラナは私が自分の加護を発動しようとしているだなんて考えもしなかった。だから油断した。これまでの神聖魔法による攻撃で私の加護は何もしなかったから、今度も何も起こらないと。それは単にサリが私を庇ったお陰で私の命が脅かされなかったからというだけなのに、神聖魔法での攻撃では神の加護は聖女を守らないと勘違いしたのだろう。

 ……まあ、そこは私も実際にこうなるまでは確信がなかったけれど。だけど神の加護は聖女の命を守るものだから、いくら神聖魔法でも例外にはならないはずだと思ったのだ。


 私の話を理解できたのか、トリスアラナは「そんな……」と愕然とした面持ちで呟いた。それまでの美しく、自信と余裕に満ちた姿はどこへ行ったのか。若さを失った彼女の薄い肩は小刻みに震え、皺の刻まれた顔には悲壮が漂っている。

 実年齢よりも随分と老けて見える気がするのはそのせいだろう。表情と、それから若い外見の時のままの服装と。己の状況を受け入れきれていないことを示すそれらが、トリスアラナの姿を見窄らしく見せる。


「あれだけみっともなく叫んだってことは相当痛かったんだろうね。つまりそれだけあなたの身体には悪魔の力が深く濃く染み込んでいた。魔女でもないのにそうなってたってことは、今までかなりの数の命を代価に払って若作りしてたってことでしょ?」

「ッ、若作り若作りうるさい!」


 哀れな老婆の顔が般若のように変わる。この怒りの瞬発力の高さはトリスアラナそのものだ。そのことに妙に感心していると、絶望が怒りに変わったトリスアラナは声を荒らげて話し始めた。


「私だって老いのない肉体が欲しかった! そのためなら魔女にだってなれた! でもそこの悪魔が言ったのよ! 『魔女にするほど興味はない』って!! だから妥協したのに、なんであなたがその悪魔の魔女として現れるのよ!!」


 ぐしゃぐしゃと頭を掻き毟る。憤怒に支配されたその姿はまるで鬼婆のよう。艶の失われた白髪だらけ髪はそれだけでボサボサになって、より一層トリスアラナの姿を醜悪にした。


「昔からあなたが目障りだった、シェルビー・スターフィールド! レスタニア王家の血を引き継いだ私じゃなくて、なんであなたが皇太子の妻に選ばれるの!? 私はあなたと違って神聖魔法だって使えたのに、なんで皇帝は私の存在に気付かないのよ!!」

「レスタニアのことはあなたの妄想でしょ?」

「黙れ黙れ黙れ!!」


 ほとんど叫んでいるような声だった。けれど衰えた喉はあまり大声を出せず、掠れた叫び声だけがその場に響く。


「教会ではみんな私が聖女になるって言ってくれたわ。でも私が聖女に選ばれる前にあなたが皇太子を攫っていこうとした。だから悪魔に願ったのよ! 聖女になって、あなたをその場所から引き摺り下ろしてやりたいって! でも願ったのはそれだけよ? あなたに魔女の疑いがかかった後、私が選ばれたのは実力なの。他の聖女よりも私がいいって、先帝が言ってくださったのよ!!」


 トリスアラナはそう声高に言うけれど、正直なところ、当時の状況からして彼女の実力は関係なかったように思う。元の婚約者に犯罪の疑いがかかったのならば、新しい婚約者は罪とは無縁の者でなければならない。誰の目から見ても清廉潔白な者――それが聖女だ。婚約者の不始末で落ちた皇族の信用を取り戻すには、聖女を娶ってしまうことが一番の方法。

 そしてあの頃、トリスアラナ以外に適齢の聖女はいなかった。だから私の婚約はあの時まで続いていた。トリスアラナがどこまで意図していたかは分からない。だけど本当に自分の実力だけで選ばれたと思っているのなら、その程度の計画しかしていなかったのなら、彼女の今の立場は運で得たようなものだ。


 そんなお粗末な計画で私は全てを奪われた。それまでの努力をなかったことにされ、他でもないトリスアラナの罪を着せられて、潔白だった私は悪魔に縋った者として断罪された。

 その事実を思うと、胸の奥で沸々と怒りがその温度を上げていくと同時に、言いようのない虚しさを感じた。


「やっと私の思ったとおりになった! だから悪魔の無礼も忘れられていたのに……それなのに!!」


 気持ち良さそうに私を嘲笑っていたトリスアラナは、その声と同時にサリを睨みつけた。


「裏切り者の悪魔め! よりにもよってこの女に手を貸すだなんて!!」

「その場限りの契約だ。裏切りも何もない」

「黙りなさい!!」


 怒り狂うトリスアラナを見ながら、当時のサリが彼女を魔女にしなかった理由が分かった気がした。


 浅いのだ、トリスアラナという人間は。それが魂の影響なのかは分からないけれど、私を蹴落とすための稚拙な計画も、この性格も、彼女の器の小ささが現れているかのよう。

 そういえば、キーランが言っていた。今この国の各地で起こっている問題の原因となった様々な政策、その発案者はトリスアラナなのだと。彼はトリスアラナが悪意を持って国を貶めようとしているのではと疑っていたようだけど、これはきっとそうじゃない。

 彼女はただ何も考えていなかっただけだ。自分の欲しいものを望んでいただけ。トリスアラナにその先を考える力があるとは思えない。


 知れば知るほど虚しくなってくる。こんな人間に私は人生を奪われたのかと笑いたくなってくる。


 だけど、かえって良かったのかもしれない。トリスアラナに何か同情できる理由があったわけではないと分かったから。ただただ彼女が己の欲を通そうとした結果、私が不幸になったのだと分かったから。


 そんな人間相手なら、躊躇うことは何もない。


「黙るのはあなただよ、トリスアラナ。五十年前に私にしたことも、ここで私の大切な人達にしたことも、全部償わせる」


 声に怒りが乗る。その声と共に、私の中の憎悪が顔を出す。


「償う? 私が? 悪いのはあなたじゃない!」

「……まずはあなたに罪を自覚させてあげなきゃね」


 ローウェンにしたように、私の苦痛の記憶をトリスアラナに見せよう。それで彼ほどこの女が苦しんでくれるとは思わないけれど、せめて自分が何をしたのかは自覚しておいてもらわないと、その後に何をしたってこの心は晴れない。


「サリ、いい?」


 尋ねたのは、今の私にはもう自力で魔法を使う力は残っていないからだ。だから代価を払ってサリにやってもらわなければならないけれど、そのサリも浄化を受けたせいで疲弊しているはず。

 そう思って尋ねれば、サリが「自分でやらなくていいのか?」と問いかけてきた。


「俺がやったらお前があまり復讐を実感できないだろう。どうせこの女はもう逃げられない。少し休んでから続けた方がいいのでは?」

「……もう早く終わらせたいの。そうしたら、あなたとも縁が切れる」


 復讐相手が絞られた今、もしかしたらトリスアラナ一人に手をかけたらこの命は終わるのかもしれない。他の人をどうこうする間もなく、契約完了と見做されて魂を回収されてしまうのかもしれない。だけどもうこれ以上、サリの言動が嘘かもしれないだなんていちいち疑いたくなかった。


 私の言葉にサリが僅かに目を見開く。彼がどこまで私の意図を理解したかは分からない。だけど、サリはそう時間をかけることなく「……そうか」と頷いた。


「お前が望むなら、今この場でいくらでも力を貸そう」


 私を支えるサリの腕に力が入る。その腕に支えられながら、それまでよりも自分の足に力を込める。どうにか自分の力だけ立ってサリの腕から身体が離れた時、トリスアラナが「……勝手に決めないでよ」と呪詛のように低い声で唸った。


「あなたなんかが私が死ぬ時を勝手に決めないで!」

「決めるよ。だって私はあなたに復讐したいんだもの、トリスアラナ」

「大人しくやられるとでも?」

「ろくに動けないでしょ? お婆ちゃん」

「ッ、このクソ女! お前が私を見下すな!!」


 その瞬間、トリスアラナがドレスの装飾を外して私の前に突き出した。魔道具だ――そう気付いた時にはもう遅く、唸る炎が私に向かって放たれた。


 けれどそれは、サリの手で簡単に防がれた。


「そんなものに意味は、」

「《立ち上がりなさい、剣を取りなさい。邪悪を払うためにその手はある》!」

「ッ――!!」


 まばゆい光がその場を覆う。これまでよりもその規模はずっと小さかったけれど、威力は変わらない。神の言葉と共に放たれた時点でその光は魔を浄化する力を持つのだ。

 まずい、と思った。これ以上浄化の力に晒されれば、私は今度こそ動けなくなる。


 だけど光が収まっても私の身に新たな痛みはなかった。また、サリが私を庇ったから。


「サリ……!」


 彼に庇われるのはもう何度目だろう。なんて、そんな呑気なことは考えていられなかった。何故なら彼の様子が明らかに今までと違ったからだ。

 全身から黒い靄のようなものが出て、その口からは吐息のような呻き声が零れ落ちる。傷口の向こう側にはドロリとした黒い塊。明らかに人の姿を保つことが難しくなっていると分かるその姿に、私の顔から血の気が引く。


 咄嗟にサリの顔に手を伸ばした時、視界の端でトリスアラナが逃げようとするのが見えた。サリが動く。手を上げて、彼女に何かしようとそこに魔力を集める。だけど私は、そんな彼を止めた。


「もういい! もういいから! 今は自分の身を守ることを考えて……!!」

「逃げてもいいのか?」

「後で追いかければいい! どうせ遠くになんて行けない!」


 サリが死んでしまうかもしれない――目の前にした状況に、他のことが考えられなくなる。


 私のせいだ。私が早く終わらせたいと願ったからサリはこんな目に遭ってしまっている。彼の言うとおり一旦休んでいれば良かった。そうしたらトリスアラナが魔道具を隠し持っていたことにも気付けただろうし、それを囮に神聖魔法を撃ってくるということも予測できたかもしれない。

 私が、怖気づいたから。サリとこれ以上一緒にいて、また嘘を吐かれるかもしれないと怯えることに耐えられなかったから。だから無理に全部今終わらせようとしたから、その皺寄せが全て彼に行ってしまっている。


「早く終わらせたいんだろう? だったら俺の都合は考えるな」

「でも! それであなたが死んじゃうのは違う!!」


 口から出たのは本心だった。サリと一緒にいて、また傷つくのは怖い。だけどそれ以上に、サリが死んでしまうのは嫌だった。怪我をするのも嫌だ。それも、私を庇ったからだなんて。

 私を守るのは契約のためだと分かっているのに。私を信用させるための罠かもしれないと忘れないようにしているのに。


 それなのに私は、彼の死は見たくない。


 他に何も考えられないままサリを見つめれば、彼は厳しい目を私に向けてきた。


「自分を裏切った奴を守ろうとするな。復讐を遂げるためだけに俺を使え」

「ッ、だからそれが違うって言ってるの!!」


 悲鳴のような声が出た。その声の大きさが、必死さが、私の中にあるのがただの我儘なのだと物語る。


「サリの言ってることは確かに正しい! あなたは私を五十年間騙してきたし、私だってもうあなたを信じることはできない。だから魔女としてあなたの力だけを利用するべきだって私でも思う。そうしてやろうとも思ってる……だけど! それをあなたが言うのはおかしい! あなたは悪魔で、私はあなたの魔女でしょ? 道具なのは私の方でしょ? なのになんであなたが命を投げ出すの……!?」


 涙で視界が滲んで、サリがどんな顔をしているのかよく分からなかった。強く瞬きをして涙を追い払いたいのに、一度流してしまえばもう止まらなくなる気がするからただ耐えることしかできない。


 泣きたくない。泣いて同情を誘う愚かな女になんてなりたくない。それにこの涙を流せば、私はもう自分の気持ちから目を逸らせなくなる。


「サリはどうせ私を気遣うふりをして私を騙したいだけなんでしょ? でも無理だよ。だってこんなのサリじゃないもん。私が契約した悪魔は! 強くて凄くて、なんでもできて! 代わりに私を奈落の底に引き摺り込む人なの! 私がどれだけ泣こうが苦しもうが結果として魂が穢れれば満足する人なの! そんな人が私を庇うなんて有り得ないでしょ!!」


 それは挑発か、それとも現実の拒絶か。どちらでもいい。とにかくサリが私より自分の命を優先してくれればそれでいい。


 これでも受け入れてもらえなかったら、どうやって説得すればいいのか――考えて目元の熱を逃がそうとしていると、少し離れたところから「茶番は終わったかしら?」というトリスアラナの声が聞こえてきた。


「盛り上がってるところ悪いけれど、私がお前達如きから逃げるわけがないでしょう!!」


 そう言ってこちらに鋭い視線を向けるトリスアラナの足元には文様が描かれていた。土をつま先で削ったような、乱雑なものだ。

 だけどその形を見て、私は嫌な予感がした。ここからでは全容は見えないけれど、でも確かにトリスアラナを中心として円になっているのが分かったから。


「最初からこうすれば良かった! そいつよりも強い悪魔を喚べば良かったのよ!!」

「ッ、まさか……!」


 その瞬間、少し前の記憶が私の脳裏を過った。


『――それでも足りなかったから悪魔を喚んだの。悪魔を喚ぶために必要な人間の心臓を何個もくり抜いて、代価を払うために生きた人間だって用意した!』


 トリスアラナは()()()()()()。たとえ正式な手順は知らずとも、彼女の方法は、彼女自身は、あちら側の悪魔の気を引けるのだ。


「さあ、来なさい! 代価ならいくらでも払うから、あの腹立たしい連中を殺しに来て!!」


 トリスアラナが叫んだ直後だった。彼女の足元で、ただの土が一瞬にして黒く染まった。

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