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とある春の変な一日

作者: 三原 槙

 春は眠い、と私が言うと、おまえはどの季節でも良く寝てるじゃないか、と康夫は言った。それはそうだけど、でも春は特別眠いのだ。暖かな日差し、新緑の薫りを含んだやわらかい空気。そよそよと吹く風は心地良く肌を撫で、キラキラと煌めくハッピーな成分がそこら中を漂っているようで、何だか幸せな気分になってくる。そんな春の空気をひと息吸うごとに心が安らいできて、目がだんだんと細くなって、とうとう開けていられなくなる。それが春なのだ。

 分かるでしょう?

「ああ、分かるよ」と受話器の向こうで男が言った。「でもな、これを聞いたら眠気なんか吹っ飛ぶぞ。でかい仕事だ。一日で一億。おまえと相棒の二人で仕事してもらうから、ひとり五千万だ」

「……」

「どうだ、目ぇ覚めただろ」

「……はい」

 とりあえず私は返事をした。聞いたことのない声だが、どうやら私に言っているらしい。

「どう思う」

「はあ、大金ですね」

 男はため息をついた。

「おいおい、しっかりしてくれよ。おまえだから頼んでるんだぞ、ジョン。『三丁目の悪魔』の異名を持つおまえだからこそ……」

 ジョン? それを聞いて私はようやく事態が飲み込めた。

「ちょっと待って。人違いですよ。私はジョンじゃありません」

 もちろん三丁目の悪魔でもない。

「はあ? 何言ってんだ。じゃあおまえの名前は何だってんだ」

「私の名前は遠藤美咲です」

 男は大笑いした。

「しょうがねえ奴だな! まだ寝ぼけてんのか。

 よく聞けよ、いいか……

「美咲、美咲!」

 別の声がして、はっと気が付くと、私は食卓に着いて右手に食べ掛けのパンを持っていた。

「食べながら寝るんじゃありません」

 母はそう言いながら、湯気の立つコーヒーを父の前に置いた。コトリ、という音に反応して、父が新聞の陰から顔を出す。窓から差し込む朝の光の中に無数の小さな白いものが舞っている。これはハッピー成分ではなくて塵だ、と私は思った。

「それから……」と、ため息をつきながら私のほうへ向き直った母は、心底呆れたという顔をしている。「食べないんなら、バナナを離しなさい」

 私は左手にバナナを持ち、まるで受話器のように顔に当てていた。


 私は低血圧だ。朝なかなか起きられないのは日常のことで、ベッドから出てもしばらくの間は目が開いているのか開いていないのかも分からないような状態だ。朝食中も夢うつつなのはよくあることだけど……私は母の呆れ顔とバナナを思い出してぷっと笑った。今朝のはちょっとおもしろかった。

「美咲ー。遅刻しないでよ」

 階下から母が言う。

「はーい!」

 時計を見るともう八時を過ぎている。やばいやばいとつぶやきながら、私は家から徒歩十分のところにある高校の制服に急いで着替え、階段を駆け下り、鞄とお弁当を持つと靴を履きながら玄関を出た。


 学校に着くと時刻は八時十五分だった。校門でこの時間なら余裕だ。私は他の生徒たちと同じようにゆっくりと歩いて校舎へ向かった。その時、後ろからサッカーボールが転がってきた。誰かが勢い余って蹴り過ぎてしまったのだろう。ボールは私を追い越し、校舎裏へ転がっていってしまった。振り返ると、ボールを追って走ってくる持ち主らしき男子生徒はずいぶんと遠くのほうにいる。おそらく一年生と思しき、純朴そうな坊主頭の男の子が一生懸命に走ってくる。三年生のお姉さんである私はつい親切心を起こし、ボールを取ってあげようと校舎裏へ行った。

 人気のない校舎裏の、雑草が伸び放題の地面にボールは転がっていた。それを手に取り、戻ろうとすると、行く手を阻むように背の高い男が立っていた。生徒ではない。金髪にサングラス、派手な柄の半袖シャツにカーキ色のカーゴパンツ。見たことのない男だ。たぶん先生でもないだろう。

「おまえがジョンか?」

 男は、小声で私に言った。

「はい?」

「おまえがジョンかと訊いたんだ」男はイライラとした口調で言った。「俺はシャドウだ。ムーンから仕事の話を聞いているはずだ」

「仕事の話?」私は今朝の夢の電話を思い出した。「一日で一億の?」

「そうだ。あ、ひとり五千万だぞ」

 男はビシッと私を指差して言った。なんだ、と私は思った。まだ夢を見ているのか。そしてぎくっとした。

「ねえ、今何時?」

「今か?」男は腕時計を見た。「八時十五分だ」

「大変! 早く起きなきゃ遅刻しちゃう!」

 私はあたふたとあたりを見回した。校舎裏には元より誰もいないが──この得体の知れない男意外──耳を澄ましてもさっきまで共に歩いていた生徒たちの声がもう聞こえない。みんな校舎に入ってしまったのだ。困った。どうしたらいいんだろう。一体どうやったら起きられる? 夢の中で起きようとしたことがないのでどうしたら良いのか分からない。でもきっと一般的には、すごく怖い思いをするとか、痛みを感じるとかすれば……。私はとりあえず、自分の両頬を手のひらでパンパンと思い切り叩いてみた。

「おい! 何やってるんだ、やめろ!」シャドウが私の手を掴んだ。「何なんだ! 大丈夫か? おまえ」

「大丈夫じゃないわよ!」

 そう言った途端、無情にもチャイムが鳴り響いた。仕方がない。今日は遅刻だ──いや、よく考えたら、夢の中と外が同じ時間であるとは限らないのだ。それならば、この夢の続きをもう少し見てみよう。何だかおもしろそうだし。

「それで」私は落ち着きを取り戻して言った。「あなたは誰なの」

「言っただろ。俺はシャドウだ。もちろん偽名だ。おまえの相棒だ」

「そう言われても分からないわ」

 私がそう言って笑うと、シャドウは不愉快そうに顔をしかめた。

「さっきから思ってたんだけどな、おまえ何でそんな女みたいなしゃべり方なんだ。気持ち悪いんだよ、そんな野太い声で……」

「ひどい!」私は言った。声は昔からコンプレックスなのだ。「そりゃ、あんまり綺麗な声じゃないし、ちょっと低めだとは思うけど、でも、野太い声だなんて、ひどい!」

 子供の頃は男子たちからからかわれ、音楽の授業の合唱ではソプラノをやりたいのにいつもアルトに回されてしまう。私だって好きこのんで低い声になっているわけではないのに。

「ああ、悪かったよ。でもジョン、そのしゃべり方……」

「私の名前は美咲です!」

 シャドウはため息をつき、げんなりしたように言った。

「ああ……分かった。店には今度行ってやるから。どこのゲイバーだ? でも今は、ジョンとして仕事してくれ!」

 シャドウは怒ってしまったようだ。でも私は美咲なのだから仕方がない。ジョンとは一体誰なのだ。その時シャドウの携帯電話が鳴った。

「俺だ。あ、ムーンか? おまえこの野郎、妙な奴寄越しやがって! あ? ああ、うん、分かった。おい……ちくしょう! 切りやがった!」シャドウは電話をポケットに突っ込むと、私に向かって怒鳴った。「おいジョン! 行くぞ!」

「だから……」

 ジョンって誰よ?


 ジョンはしぶしぶシャドウの後を追った。高校の裏の通りに停めてあった黒のセダンに乗り込み、閑静な住宅街を抜けて大通りへ出た。要は殺人の依頼だ、と車を走らせながらシャドウは言った。ある会社の社長を殺ってくれっつう依頼なんだが、その社長の椅子を狙ってる奴からムーンに依頼があってな。それでムーンは俺とおまえにこの仕事を寄越したってわけだ。今日の午後、偽の取材の約束を取り付けてある。今からそこへ向かって、社長さんを暗殺する。俺たちは雑誌記者って設定だから……まあ服はこのままで大丈夫だろう。シャドウは自分とジョンの服を見ながら言った。窓の外の、爽やかな朝の風景に殺人という物騒な言葉はあまりにも不似合いで、まるで現実味がなかった。しかし夢の中の話なのだから現実味がないのは当たり前か、とジョンはひとりで納得した。さっきも言ってたけど、とジョンはハンドルを握るシャドウの横顔に言った。ムーンって誰なの。ムーンはおまえのボスだろうが。シャドウは呆れた声で言った。

「はい、そこまで。次、遠藤読んで」

 ボス? 私は頭の中にぼんやりと自分の声を聞いた。

「遠藤!」

「はい!」

 急に名前を呼ばれてびっくりし、私は慌てて立ち上がった。椅子が大きな音を立てて後ろにぶつかった。

「あ、ごめん」

「いいよ」

 そこにいたのは同じクラスの亜美だった。その隣に座っているのは健二で、他のクラスメイトもみんないた。気付けばここは教室なのだった。

「遠藤、次読んで」

 黒板の前で国語教師の竹中先生が言った。窓から入る眩しい日差しの中にチョークの粉がふわりふわりと舞い、四十歳独身、お嫁さん募集中の竹中先生を幻想的に見せている。

「はい?」

 首を傾げた私に、先生は顔をしかめた。

「しょうがないな、聞いてなかったのか」

「ぼんやり聞いてました」

 教室中でどっと笑いが起こり、先生はますます渋い顔になった。

「七十五ページの四行目」

 後ろから亜美が囁いた。目を落とすと、机の上に教科書とノートが広げられていた。教科書をめくると、これまでのシャドウとのやりとりがそっくり文章に書かれている。

 そうか、これを聞きながら寝ていたからあんな夢を見たんだ。私は亜美が教えてくれたページを探し、続きを読んだ。

「ボス? ジョンは訊き返した。しかしすぐに、まあボスというのならボスなのだろうと思い、誰が依頼したのかと質問を変えた。それは俺も知らない、とシャドウは言った。知らなくていいことだし、知らないほうがいい。依頼人とボス以外誰も知らない」

「はい、そこまで。次、田中読んで」

「はい」

 田中直子が立って続きを読み始めた。

「ねえ」私は身体半分後ろを向いて亜美に囁いた。「今日、私遅刻した?」

「え? 普通に来てたじゃない」

 亜美は言った。

「そっか、ありがと」

 私はまた前を向いて教科書を目で追った。

「シャドウは荒れた空き地に車を停めた。二人は車を降り、足速に歩いた」

 田中直子の声は綺麗だ。教室は珍しく静まり返り、みんなが彼女の声に聞き入っているようだった。

「ジョンはシャドウが歩くままに付いていった。そして着いた場所は駅だった。シャドウは切符を二枚買い、一枚をジョンに渡した。特急列車の切符だ」

 文字の間を小さいシャドウがウロチョロし出し、私はまたウトウトしてきた。

「二人は空いている座席に座った。シャドウはポケットからガムを出して噛み始め、窓枠に肘をのせた。車内アナウンスが流れる。ジョンはそれに耳を澄ませた。

 本日は、お忙しい中、ご乗車いただき誠にありがとうございます。どうぞお時間の許します限り、ごゆっくりとご乗車くださいませ……

「おい、ジョン」

 ウトウトしていたところへ突然声を掛けられ驚いて目を開けると、隣にシャドウが座っていた。

「今のうちに何か食っとけよ」

 また夢の中にいた。車内はかなりな人で賑わっている。通路を売り子がワゴンを押してやって来た。

「すみません」

 私は売り子を呼び止め、チョコレート菓子を買った。シャドウはコーヒーを買った。車内アナウンスは続いている。

 ご利用の列車は、東京発、終点ロンドンに止まります。停車いたします駅は、香港、シンガポール……

「約束の場所はロンドンだ」シャドウは言った。「だいぶあるから俺はちょっと寝る」

 アナウンスは世界中の都市を淡々と列挙している。

 ストックホルム、ベルリン、ローマ……

「待って、降ろして! だって私パスポートも持ってないし……」

 私はがばりと立ち上がった。足元の床が大きく揺れた。

「危ない、美咲!」

「えっ? きゃあっ!」

 まわりの景色がすごいスピードで回っていた。私はとっさに手近なものを掴んだ。それは金属のバーで、落ち着いて見ると私はコーヒーカップのアトラクションに乗っていたのだった。向かいに座っている康夫がニヤリと笑った。

「美咲、また寝てたのか?」

 ほどなくしてコーヒーカップは止まり、私たちはアトラクションから出た。

「おまえなあ、コーヒーカップで寝るなよ。いや、寝てもいいけど、寝ぼけんな。危ないだろうが」

「ごめん」

「いや分かるけどさ。良い天気だもんな」

 頭の天辺がぽかぽかと暖かい。漂う光の粒の中に、ハッピー成分が舞っているのが見える気がした。眠気を誘うような芳しい風の香り……。

「学校は終わったの?」

 歩きながら私は訊いた。まわりを見回すと、何だか寂れたような遊園地だった。全体的に色あせ、大きな置物のように動かない停止中のアトラクションや、生気のない目をしたやる気のなさそうな売店の売り子が目に入る。それでも風船を持った親子連れや若者のグループなど割合にお客は入っているようだった。きっと天気が良いせいだろう。

「今日は休みだよ、バカ」

 康夫は言った。

 私と康夫は黄緑色のパラソルの下の薄いピンク色の椅子に水色のテーブルを挟んで向かい合わせに座った。

「これ」

 康夫は鞄から赤いリボンの掛かった箱を出してテーブルに置いた。プレゼントみたいだ。

「どうして?」

「どうしてって、誕生日プレゼントだよ」

 誕生日。今日は私の誕生日だったのか──そうだっただろうか? 私は腑に落ちず、考え込んだ。

「開けてみ?」

「あ……うん」

 私は包を開けた。箱を開けると、中に入っていたのはピストルだった。刑事ドラマなどでよく見る、小型の黒いリボルバー。

 でも……何故、ピストル?

「美咲、前に欲しいって言ってただろ?」

「そうだった?」

「忘れたか? すいぶん探したんだぜ」

 私はピストルを手に取ってみた。結構重い。ずっしりしている。

「……ありがとう。素敵なピストル」

 康夫は満足そうに笑った。

「ちょっとごめん」

 私はピストルを持ったまま化粧室へ向かった。

 コンクリート打ちっぱなしの寒々とした化粧室には誰もいなかった。私は改めてピストルを眺め回した。本物だろうか。鏡に向かい、ピストルを構えてみる。鏡に映っているのは、高校の制服を着たいつも通りの私だった。

「私は遠藤美咲」鏡に向かって私は言った。「ジョンなんかじゃない」

 しばらくの間、じっと自分の顔を確認した。そのうちに馬鹿馬鹿しくなってきた。

「ん?」

 私は鏡にぐっと近付き、そこに映る自分を見つめた。

「やだ、前髪うねってる」

 少し目に掛かる長さの前髪に、不格好な癖が付いていた。水で濡らして直そうとレバーに手を伸ばした時、手洗い器の横にドライヤーが掛かっているのが目に留まった。

「ラッキー。使っちゃお」

 コンセントを差し、ドライヤーのスイッチを入れた。ゴオオと熱風を前髪に当てて手で整える。すると、ゴオオーという音の向こうに、自分の名前を呼ぶ声が聞こえる気がした。しかし私は特に気にしなかった。いつものことだから。どうせまたお母さんが、早くしなさいとか何とか……。え、お母さん? ドライヤーを切ると、

「美咲!」

 とはっきり聞こえた。振り返ると、入口のところに母が立っている。

「いつまで髪やってるの。早くごはん食べちゃいなさい」

 そう言うと母は去っていった。ドライヤーを元のところに掛けて母の後を追うと、見慣れた自宅のダイニングに出た。テーブルの上には、ほかほかと湯気を上げている焼き立てのトースト。私はトーストとカフェオレの置いてある自分の席に座った。トーストにバターを塗って齧る。前の席では父が新聞をバサリと音を立てて折り返す。調理台の前で弁当箱におかずを詰めている母。朝日が部屋の中を、神々しいような光で照らしていた。さっくりと音を立てる食パン、香ばしいバター。

 ああ、変な夢を見たんだなあ、と私は思った。

 殺人の依頼を受けて、見知らぬ男と旅をして、何故だかジョンと呼ばれていて、時々学校に戻って、康夫と遊園地に行ってピストルをプレゼントされて……。学校に行ったら、康夫にこの夢のことを話してあげよう。きっと呆れるんだろうなあ。そう思うと、クフフと笑いが込み上げてきた。私は康夫の呆れた顔が好きだ。

 テーブルの上にバナナがあったので、手に取ってみた。このバナナが奇妙な夢の始まりだったのだ。何気なく、夢の始まりの時のように、受話器みたいに顔に当ててみた。

「ジョン?」

 と、バナナの上のほうから声がした。

「げっ、シャドウ!」

 思わず私は言った。バナナを顔から離して見つめる。それはやっぱりただのバナナだった。しかし、

「何が、げっ、なんだよ。おまえ今どこにいるんだ。便所か」

 バナナはしゃべり続ける。

「違うわよ」

 私は母の様子を横目で見ながら、コソコソと話した。私がバナナとしゃべっていることに、母はまだ気が付いていない。父は新聞の陰に隠れていて、手しか見えない。

「いいから早く戻ってこい。もうロンドンに着くぞ」

「着くわけないじゃない。列車なんかで」

「はあ? 着くだろ、ロンドンくらい。特急列車って何の略だか知ってるか?」

「何?」

「特別急いで列島をも越えていく車、だ」

「そんな意味が?」

「俺はそう聞いた」

「……」

「……で、おまえ今どこだ?」

「どこって……」私はあたりを見回した。ここはどう見ても……。「家です」

「はあぁ?」

 シャドウが何事か怒鳴っている。けれど私はそれどころではなかった。母がこっちを見ている。調理台の上には弁当包みに包まれて二つ並んだお弁当。やばい。弁当を作り終えてしまったのだ!

「美咲」と母は言った。「食べないんなら、バナナを離しなさい」

「あ、大丈夫。食べる食べる」

「あ? 何を食べるって?」

 バナナの向こうからシャドウが言う。

「ちょっと黙ってて!」

 私はバナナに向かって言った。

「美咲!」

 母が怒る。

「ジョン!」

 シャドウも。

 あーもう、うるさい!

「バナナを……」

 と母。

「食べる! 食べるよ」

 私はやけになって、バナナの皮をむいた。

「ちょ……」

 とバナナから声がする。が、

 えーい、食べてしまえ。

 私はバナナを食べてしまった。

 静かになった。

 私はトーストの続きを食べ、カフェオレを飲んだ。

「今日何曜日だっけ」

 私は母に尋ねた。

「月曜日よ」

「げーっ、一限目数学」

「頑張んなさいよ、数学苦手なんだから」

「分かってるよ」

 温かいカフェオレを飲み終え、私は席を立った。

 今日もまた、代り映えのない学校生活が待っているのだろう。でも不思議と、今日の心は浮き立っていた。変な夢を見たせいだろうか。何でもない日常が恋しいのだ。まずは康夫に夢の話をしてあげなければ。えーっと、私が寝ぼけながらバナナと話をしていて……。

「美咲、お弁当」

「はーい」

 母から弁当を受け取り、あ、そうそう、と私はテーブルからピストルを取り上げた。

 これも忘れないようにしなきゃ。康夫からの誕生日プレゼント。

「行ってきます」

 ローファーを履き、玄関を出た。


 玄関を出ると、そこは荒涼としただだっ広い大地だった。

「ジョン、ジョン!」

 とシャドウが囁き声で呼んでいる。今にも崩れそうな古い掘っ建て小屋の陰にシャドウは隠れていた。

「ロンドンに着いたの?」

 呆気にとられた私は間の抜けた質問をしてしまった。乾いた風が吹いて、漫画のようにゴミの塊が転がっていく。

「ここがロンドンに見えるか? バカ。奴は場所を変更してきた。やばいな……勘付いているかもしれないぞ」

 私は鞄と弁当を枯れた草の上に置き、小屋の陰からそっとあたりを窺った。見渡す限り荒れ果てた大地だ。私とシャドウが身を隠している小屋意外に建物はなく、木々もまばらにしか生えていない。

「ねえ、ここどこ……」

「しっ! 来たぞ」

 どこからか一台のベンツが走ってきた。ベンツは少し離れた場所に停車し、三人のスーツ姿の男が降りてきた。

「真ん中がターゲットの社長だ」シャドウが言った。「行くぞ。愛想良くしろ」

 私とシャドウは親しげな笑みを浮かべつつ、ゆっくりと彼らに歩み寄った。しかし、私もシャドウも気付いていなかったのだが、その時私の手には、ピストルが握られたままだった。

 すぐに気付いた護衛のひとりが発砲し、シャドウに当たった。バン、と音がし、私のすぐ横でシャドウは──なぜそうなるのか、私にはわけが分からなかったのだが──まるで枕が破裂したように白い羽毛となってぱっと飛び散った。私はとっさにピストルを社長に向けた。しかし私は、ピストルの使い方なんか知るはずもなかったのだ。私は護衛にあっさり撃たれた。


 次の瞬間、私はすごく高いところから、自分の身体がシャドウと同じように白い羽毛となって弾け散るのを見た。羽毛は地面に落ちるそばから、まるで雪のように溶けて消えていく。シャドウのはもうすっかり消えてしまっていた。羽根が全部落ち切るのを待たずに、三人は再び車に乗り込み走り去った。


 車が見えなくなっても、私の意識はまだそこに留まっていた。暖かな日差しがぽかぽかと大地を暖め、見ようによってはのどかな風景をのどかな空気が満たしている。春の空気中に現れるハッピー成分がそこら中を飛び交い、脳をフワフワと満たしてゆき……だんだんと意識は、心地良く薄れていった。

 ああ、眠たくなってきた……あれ? 目覚まし時計が鳴ってる?

「美咲ー、美咲、起きなさい」

 母が階段を上ってくる音がする。

 うーん……あと五分…………。



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