邪馬台国の比定地を探る魏志倭人伝に載っている答え①②
邪馬台国、論争というのがあって。
邪馬台国は、どこか?って比定地を決める論争。よく言われることだが、土の中から金印でも出てこない限り、決着はつかない、とか。
ただ、ここに「魏志倭人伝」という書物があって、その中に、答えは載っている。と言われながら、あまりにわかりづらい書き方してるので、あーだこーだ、いろんな読み方をして自分にとって都合のいい説を唱えることができるからややこしい。
実は、答えは、本当に載っている。
実は、答えは、本当に載っていて。
《帯方郡から女王国(邪馬台国)までの里数》という距離が明記されているのだ。
《自郡至女王國、萬二千餘里》これは漢文。
訳すと
《帯方郡から女王国までは一万二千里》
だからその帯方郡て所から、一万二千里の所で探して比定してしまえばいい。
まず、これが第一の答え。
次に、《到》という漢字の使い方が答え。
ほかの地名にはすべて《至》という文字を使っているのに、伊都国にだけ唯一《到》という文字を使っている。これは、その国へ到着した、という終着地点という意味の漢字の使い方。
だから、伊都国以降の国へは、伊都国にとどまった形で、伊都国を起点にしての距離、行程が書かれている。それを明記しているのが《到》という文字。
これが第二の答え。
こっから先は、答えではない。
ただ、伊都国から、南へ水行二十日で着く投馬国は、さつま、の国ではなく、宮崎県。投馬国は、魏志倭人伝の中で邪馬台国に次ぐ大きさの国であり、しかも天孫降臨の場であるから。
神武東征後、大和朝廷のふるさととして残されてきた国である。
人口の多さで考えると、トップ3が、下から、
奴国が、二万戸で、約十万人(一家五人計算)の国。
投馬国が、五万戸で、約二十五万人の国。
邪馬台国が、七万戸で、約三十五万人の国。
この北九州の奴国がおそらく有名な「漢委奴国王」の金印の奴国だろうから、百年以上前の過去にはなるが、邪馬台国より前に大いに勢力を振るった大国だろう?
それより倍以上大きい国だから、投馬国は神武東征後の後のヤマト朝廷のふるさと、という話になる(ならない?)。
で、話は魏志倭人伝に戻るが、先ほども言った通り(答え2の方)伊都国を起点に宮崎へ向かうと、おそらく水行二十日くらいになる。
で、ラスト、伊都国を起点に今度は西に水行十日すると、長崎湾の中に入っていて、おお、そこには《山門》という地名が。
ここなら、水行十日(もかかるのかなぁ?まぁ、昔のことだから)で着くし、陸行なら二十日(もかかるのかなぁ?まぁ、昔のことだから)で着く抜群の距離感。
だいたい、先に述べた「答え」以外の宮崎や山門は当然その比定地の答えじゃないよ、私が納得できる場所というだけで。
ただ、宮崎が二番目に大きい国の投馬国なら、それは神武東征以後の国であることは間違いなく、神武東征は卑弥呼の時代にははるかな過去であり、それこそ、邪馬台国の時代(何天皇の時代かは知らないが)は近畿で邪馬台国よりも大きな国となっている(?はず?)
ただ、出身地も含めての九州や大国の魏との関わりを持とうとしていないだけで。
さっきから、なに?神武東征って?神武って実在したの?いや、していまい。
などとお考え中のあなた。
ただの受け売りですが(まぁ、今までのもすべていろんな人の受け売りですが)、神武は実在し、神武東征は行われたということですよ?
奈良、生駒山から大阪、河内平野へかけての地形が、少なくとも紀元前五十年以上昔の地形(河内平野が河内潟であった時代、平野には船で入れないが、そこまで船で入ったという記述がある)じゃなければ、その地名の場所まで船で入ったとは書けない場所まで船で入っているという記述。
それを書き残しているということは、そういう伝承があったということで、少なくとも神武東征の大阪から奈良へ入るときの描写は、その地形の時代(河内潟を体験できる)じゃないと、想像さえつかない馬鹿みたいな、陸地に船で来た、みたいなおかしな話になるでしょう?
だから、古事記、日本書紀で「神武は、浪速を越えて河内潟を上って白肩の津に着いた」と描けるということは、少なくとも、その時代に神武とその一団が、紀元前五十年を超えると次第に平野になっていく白肩がまた津だったころ、そこに着いたということ。
少なくとも、古事記、日本書紀編纂の頃には完全な平野になっていた白肩まで、船で入ったと描けるということは、過去の現実を知る伝承があったということでしょう?
だから、神武東征は、あったのです。
で、そのあと畿内でヤマト朝廷は発展していく、と。
それとは別に、九州にヤマト朝廷のふるさとが投馬国としてヤマト朝廷とはもう全く別の国になっているが、まだ九州二番目の大国として残っている、という状況。
ヤマト朝廷を生み出したほどの国だから、まだ大きな勢力を誇っていて当然、だから、投馬国は、宮崎。
山門は、帯方郡から一万二千里、伊都国より水行ならば二十日、陸行ならば十日、という距離に比定される土地としては、最適だし、名前もそうだし。
第一、魏志倭人伝に載ってる卑弥呼の墓とほぼ同規模の円墳があるし。
どだい、邪馬台国のいろんな意見を読んでみて、奈良説賛同者が七割で、理由が「箸墓古墳」らしいけど、いいえ、「箸墓古墳」が《前方後円墳》では、ダメなんじゃない?
魏志倭人伝には、しっかりと《円墳》という「答え」が書いてあるのに。しかも、直径五十歩と。
箸墓古墳じゃ大きすぎる、明らかに。
まぁ、私自身近畿在住(ま、奈良ではないですけど)ですので、近畿説に一票入れたい心情はあるのですよ?
奈良には親戚がいて、子供の頃からよく遊びに行きましたし。
でも、《帯方郡から女王国までは一万二千里》。
これ、たぶん、だれか「《邪馬台国》と《女王国》は、べつの国である」とか言い出してるんだろうな。
でも、女王、という言葉の使い方と文脈から考えたら、どう考えても《邪馬台国は、女王の統べるところ》だし、《べつの国の女王は登場していない》のだから、両国は、同じ国。
ハハ、
面白い!
なんか勝手にいろんな反論想像して、自分の説を推してみようとしている。
あ、でも、私の投馬国=宮崎、邪馬台国=山門、なんかはネットで読んで、一番納得いく考え方してるのでここに書いてるだけです。
神武東征、の話も一緒に読んでいて、その部分は論理矛盾はなく、なるほどなぁ、と。ちょっとここに書いてみただけです。
ただ、一番最初に書いたように、《帯方郡から女王国までは一万二千里》と、《「到」と、「至」の漢字の使い方の差の話》は、これは、二つとも正しい答えだろうと思っています。
近畿には、ヤマト朝廷があるし、福井は、水行二十日や水行十日陸行二十日、を考えてだろうけど、いくらなんでもどんな地図が存在していても、東と南を間違えるって厳しいと思うし、第一帯方郡から遠過ぎる。
でも、一万二千里って答えが載ってるのに、なぜそこより遠いところへ行こうとするのか、それが全くわからない。
実は一万二千里の土地で比定されうるほかの九州の候補他は、ほぼほぼ、読んでない、短時間でわかるところだけわかればいいいう読み方をしたもので。
でも、その中になら、山門ではなく、より私の納得できる邪馬台国、宮崎ではない投馬国があるかもしれない。
私にとっては全く新しい邪馬台国、投馬国を、教えてもらいたい気もする。