公爵令息をストーカーしている者ですわ
前作短編「どうやら王太子殿下にストーカーされていたようです」の別カップルの話になります。
続きとかではないですが、前作を読んでからの方が分かりやすいかと思います。
上の「ストーカーシリーズ」からどうぞ。
〜プロローグ〜
イシス・クレハラッド様。
わたくしの最愛の人にして、至高なる存在。
彼との出会いは10歳の時、クレハラッド公爵家主催の茶会の席でのことです。
その頃のわたくしは今よりも少し⋯⋯かなり驕っておりました。
わたくしは所謂天才肌なのでしょう。勉強も、刺繍も、社交もやれば簡単に出来ました。努力というものをあまりしたことがありませんでした。必要なかったのです。
わたくしには妹がいます。妹は何をやっても不出来で、わたくしと違って努力家でしたが、その成果はあまり出ていないように見えました。何故こんな簡単なことが出来ないのだろうと不思議に思っていたものです。
その日の茶会は、天気も良かったので庭で行われました。茶会と言っても堅苦しいものではなく、各々気が合うものと談笑したり、駆け回って遊ぶ元気のいい者もおりました。
わたくしは仲の良いお友達と、数名の男性方と談笑しておりました。一歩下がった所には人見知りの妹がビクビクと縮こまっていましたが、いつものことなので皆さま気にされていないようでした。
わたくしは妹の内向的な性格を直して、皆さまと仲良く出来るといいと思ってこの茶会に連れて来たのですが、そう上手くはいかないようです。
心の中でため息をついた時、庭を駆け回っていた者がテーブルの脚につまずき、こちらに倒れ込んできたのです。
わたくしと、わたくしの後ろにいた妹は一緒に尻もちをつきました。
皆さま口々にわたくしを心配して手を差し伸べてくださり、わたくしはそれに笑顔で応えました。
そういえば妹には声がかかっていないと思い、妹を起こそうと振り向いた時です。
「大丈夫か、ロゼリア嬢」
まるで物語の王子様のように、妹に手を差し伸べるイシス様がいらっしゃいました。
深い青色の髪は太陽の光で輪っかが見えるほど輝き、金色の目は吸い込まれそうな程に透き通っておりました。少し目じりがつり上がっていてキツめのお顔立ちですが、その声も態度も妹を心配する優しさが滲み出ておりました。
その瞳にわたくしが映っていないことがとても残念に感じました。
妹は羞恥で顔を真っ赤にし、混乱しながらもイシス様の手を取りました。
「怪我はないか? ⋯⋯あちらに我が家のシェフが腕を奮ったスイーツがあるのだが、一緒に行かないか?」
頷くだけで意思の疎通が取れる質問の仕方をしてくれるイシス様は、妹の扱い方を心得ているようです。
そのまま二人は歩いていきましたが、わたくしはイシス様の後ろ姿から目が離せませんでした。
なんて美しい方なのでしょう。
わたくしも親や周囲から『可愛い』『綺麗だ』と言われてきましたが、イシス様には敵いません。
仕草も立ち姿も全てが洗練されていて、わたくしなど足もとにも及ばないでしょう。
あんな素敵な方の隣に立てるようになりたい。
そう思ったのが始まりでした。
――――これはそんな彼を日々見つめて書き連ねた観察日記です。
◆
ルペリオ暦628年5月4日
イシス様は今日もやって来ました。中庭の端にある小さなウサギ小屋の前です。
そんなにキョロキョロ周りを見渡さなくても、わたくし以外は誰も見ておりませんので大丈夫ですよと言ってあげたいですが、そうもいきませんね。
別に飼育員ではないイシス様ですが、飼育員と仲良くなり、こうしてウサギたちにご飯をあげる係を買ってでているのです。
いつもクールなイシス様ですが、実はもふもふな生き物が大好きなのです。
顔を緩ませてウサギたちにご飯をあげてモフる姿は、普段の彼を知っている人が見たら驚愕することでしょう。
「クロ、シロ、チャイ! お前らは今日も元気だな〜。マダラはどうした? おーい、マダラー!」
ただ、名付けのセンスは無いようなので、後々子どもが出来たら名付けはわたくしが行いましょう。
天気の良い今日は中庭を訪れる人が他にもいましたので、本日のイシス様のモフモフタイムは短かったです。
人が来たら一瞬で切り替えて真面目な表情を作るイシス様も素敵です。
◆
ルペリオ暦628年5月5日
イシス様はウサギによって対応を変えられます。
マダラには自分から近づいてくれるのをじっと待ちますし、チャイは背中から撫でます。
シロには頭をよく撫でますし、クロはもう全身ぐりぐりと撫で回します。
一番イシス様に懐いているのがクロでしょうか。イシス様の周りを飛び回り、手の下に頭を入れ、撫でろとせがむなんて⋯⋯羨ましい! わたくしもイシス様に撫でられたいのに!
どろどろに蕩けた笑顔で
「も〜お前は本当にかわいいなぁ〜」
とか言われてみたいのに!
もしも来世というものがあるななら、わたくしはウサギになろうと決意しました。
◆
ルペリオ暦628年6月14日
今日のイシス様は校舎うらで野良猫と戯れておりました。
「なぁ、ディートハルト殿下が『生徒会長を辞めて図書委員になる』とか言い出したんだが⋯⋯。生徒会に何か不満があるのだろうか。この間会計が予算の計算ミスをしていたからか⋯⋯?」
イシス様が何やら悩んでおられました。ぼんやりしながら肉球をぷにぷにする彼も素敵ですが、イシス様を悩ませるなんて言語道断。これは原因を究明しなくては。
◆
ルペリオ暦628年7月23日
ここ一ヶ月ほどイシス様の観察を休止し、ディートハルト殿下の観察を行いました。
殿下はこの国の王太子で、わたくしと同い歳の17歳。
あまり表情を変えられず、言葉数も少ない方なので少し時間がかかりましたが、殿下が生徒会長を辞めて図書委員になりたいと言ったくだらない理由が判明いたしました。
どうやら殿下はわたくしの妹――――ロゼリアのストーカーをしているようなのです。
いつもほんの少し離れた場所から隠れてロゼリアを観察しています。
図書委員になりたいと言ったのも、ロゼリアがよく図書室を訪れるからでしょう。
ロゼリアの害になるのなら注意しようと思いましたが、殿下はただ見ているだけでしたので、そのまま放置することにしました。
明日からはまたイシス様の観察に戻りましょう。あ、その前にイシス様に『殿下は生徒会に不満があるわけではない』と一筆入れておきましょう。
◆
ルペリオ暦628年9月17日
今日は記念日です。素晴らしい日です。もう毎年この日を盛大にお祝いしたいくらい素晴らしいことがありました。
なんと、なんと!
イシス様がわたくしに話しかけてくださったのです!!
「シュタッフェル侯爵令嬢、ちょっといいか?」
「来年度の生徒会に書記としてメンバーに加わってくれないか?」
「君の優秀さは聞いている。殿下も是非君にと仰っているんだ」
すごくないですか?
あのイシス様の美しい金色の瞳にわたくしが映ったのですよ?
わたくしに向かってよく通る低めの声で話してくださったのですよ?
生徒会の件は当然二つ返事で了承いたしました。
その後、
「ああ、ありがとう」
とふんわり笑って頂けたのですよ!
もうわたくし今日死ぬんじゃないかというくらい心臓が早く鼓動いたしました。
イシス様の前ではなんとか淑女の振る舞いが出来たと思いますが、大丈夫だったでしょうか。
生徒会書記にわたくしを選んでくれた殿下には感謝ですね。ストーカーの変態と心の中で呼んでいたのは撤回してあげてもいいです。
◆
ルペリオ暦628年10月1日
待ちに待った新生徒会の顔合わせの日です。わたくしを選んでくださった生徒会長のディートハルト殿下には一言お礼申し上げようと思っていたのですが、わたくしが生徒会室に入ると何故かとても落胆した顔をされていました。
普段あまり表情を変えない方なのに珍しいです。これはもしや、殿下はわたくしではなく、ストーカー中のロゼリアの方を生徒会に入れたかったのでしょうか。
伝え方に齟齬があって、間違ってわたくしに声がかかってしまった感じでしょうか。
⋯⋯まぁ、いいでしょう。わたくしは愛しのイシス様と過ごせるこの機会を逃すつもりはございません。
殿下には申し訳ないですが、わたくしが精一杯、生徒会書記を務めさせて頂きましょう。
◆
ルペリオ暦628年10月6日
今日はイシス様が学食に顔を出されました。あ、殿下も一緒に。
お二人は王族専用ラウンジで昼食をとられることが多いのですが、たまには学食も美味しいですよ、とのイシス様のお優しい計らいなのです。
この日の為に彼はいろんな生徒や教員から学食メニューのオススメを聞いてまわっていたことをわたくしは知っています。
最近気落ちしている殿下の為にそこまでされるなんて⋯⋯。お優し過ぎて涙が出そうです。
でも肝心の殿下はわたくしの向かいのロゼリアを観察することで頭がいっぱいのようですが、ちゃんとイシス様オススメメニューを味わったのでしょうか?
あ、わたくしはちゃんとイシス様オススメメニューを味わいましたよ。ヒレステーキが口の中でとろけて果実のソースと絡み合い絶妙な美味しさでした。
イシス様も美味しそうにヒレステーキを食べておりました。同じメニューを食べるなんて、まるで家族のようではないですか。ちょっぴり照れてしまいますね。
◆
ルペリオ暦628年10月21日
今日もイシス様と殿下は学食でした。
殿下は学食に来る度ロゼリアをガン見しているのですが、ロゼリアはよくこのうるさい視線に気づかないものですね。
それはそうと、どうやらイシス様はトマトがお嫌いなご様子。
殿下がロゼリアを見ているうちに俊敏な動作で殿下のお皿にトマトを乗せています。しかし、殿下にはすぐにバレてしまい、僅かに苦笑しながら殿下はそのトマトを食べていました。
殿下め⋯⋯。イシス様と常に行動を共にし、気を遣われるだけでは飽き足らず、イシス様のトマトを食べられるなんて! ズルいです!
こうなったら⋯⋯殿下が大好きなロゼリアとわたくしもイチャイチャしてやりますからね!
◆
ルペリオ暦628年11月11日
ロゼリアに婚約の話が出たそうです。今度顔合わせがあるのだとか。
臆病で人見知りな子だけど大丈夫かしら。上手くフォローしてあげないと。
そういえば、殿下にロゼリアの話を聞かせて嫉妬させる嫌がらせはあまり功を奏していません。あの方、ロゼリアのことならば何でも瞳を輝かせて話を聞きたがります。
どうやら異性として好きだという自覚はないようです。面白いので少し煽ってみましょうか。
ロゼリアが憧れている告白シチュエーションの花も教えてあげましょう。
◆
ルペリオ暦628年12月12日
なんてこと、なんてこと、なんてことなの!
まさか⋯⋯ロゼリアの婚約話の相手がイシス様だったなんて!
顔合わせの場にはわたくしも同行していましたが、上手く笑えていたでしょうか。
二人で庭の散策に行くからと、ロゼリアの手を取るイシス様を笑顔で見送れたでしょうか。
何故⋯⋯わたくしではなくロゼリアなのでしょうか。わたくしは初めてイシス様に出会った日から、彼の隣に立つに相応しい女性になろうと努力してきたのです。それは確かに身を結んで、周囲からは高い評価を得られているはずなのに。
そういえば、7年前もイシス様はロゼリアに手を差し出しましたね。
わたくしは、彼の視界にも入れないのでしょうか。彼を観察するだけでなく、同じ生徒会で一緒に仕事をして、少しわたくしを見てもらえたような気になっていましたが、ただの気のせいだったのでしょうか。
わたくしは生まれて初めて、不出来な妹を羨みました。
◆
ルペリオ暦628年12月15日
やってしまいました!
最近、ディートハルト殿下がわたくしを想っているなんてバカげた噂が広まっておりました。
殿下はどう見てもロゼリア大好きなのに何を言っているのかと流しておりましたが、イシス様とロゼリアの婚約話の件で苛立っていたのでしょう。
イシス様まで
「殿下が最近気落ちしているんだ。コリンナ嬢、よかったら殿下を慰めてあげてくれないか?」
と言ってくるものですから、わたくしの中で何かが切れた音がいたしました。
わたくしがイシス様に言った言葉はうろ覚えです。
何故わたくしが妹のストーカーを慰めなければならないのか。
殿下はどう見てもロゼリアが好きなのに皆の目は節穴か。
何故ずっと見てきたわたくしのことは見てくれないのか。
わたくしは誰よりもイシス様を好いているのに⋯⋯イシス様だけには勘違いしないで欲しかった。
そんな言葉をイシス様にぶつけたのでしょう。
怒って怒って、そして泣きました。
イシス様の反応も覚えていません。
イシス様がわたくしにかけてくださった言葉を忘れるなど、初めてでした。
イシス様の前では完璧な淑女でいたいのに⋯⋯上手くいきませんね。
もう、イシス様にも誰にも会いたくありません。
◆
ルペリオ暦628年12月20日
あの日からわたくしは学園を休んでいます。
ロゼリアが毎日わたくしの部屋の扉を叩きますが、いつも追い返しています。
だからですね、ロゼリアだと思ったのです。夕方のノックの音に「放っておいて」なんて。イシス様に言った言葉ではなかったのです。
「また明日も来るから」
そんなに落ち込ませるつもりじゃなかったのです。ごめんなさい。
ロゼリアも、優しい貴女に当たり散らしてしまってごめんなさい。わたくしは、何も悪くない貴女を羨んで、当たって⋯⋯不出来なのはわたくしの方ですね。
ロゼリアはわたくしがどんなに酷い言葉で遠ざけようとしても、めげずに優しく声をかけてくれる強い心を持っているのに。
不出来な姉で、ごめんなさい。
◆
ルペリオ暦628年12月21日
今日、わたくしは部屋を出て学園に行きました。イシス様がわたくしを気にされているのに、そのまま引きこもるわけにはいきません。
元気な姿を見せて、この間の暴言を謝罪して、それからイシス様とロゼリアを応援すると言って、殿下のお慰め役も引き受けましょう。
そう、思っていたのですが⋯⋯。
「すまなかった。事実を確かめもせずに、君を傷付けた」
イシス様の方から謝ってくださりました。わたくしも慌てて謝罪して、この話は終わり⋯⋯かと思いきや、イシス様はこう続けられました。
「ロゼリア嬢との婚約は白紙にさせてもらうことに決まった。それで⋯⋯もし、よかったら⋯⋯君に、婚約を申し込んでもいいだろうか⋯⋯?」
イシス様の照れ顔ヤバいです。
何故わたくしは今日画家を連れて歩いていなかったのでしょう。あのイシス様を保存できなかったなんて、世界の損失ではありませんか。
それに対してわたくしはなんと答えたんですっけ?
「はい」とか「かしこまりました」とか「もちろん」とか「承知」とかだったような気がします。
イシス様が言うには、イシス様は本当はわたくしを想ってくださっていたのだとか。
『シュタッフェル侯爵令嬢との婚約話』と聞いて、相手がわたくしだと思っていたのだとか。
殿下と仲の良いわたくしを見て、想いを断ち切らねばならないと思っていたのだとか。
⋯⋯今書いてて思いましたが、これ全部わたくしの妄想じゃないですか?
わたくしに都合がいいことばかり起きすぎじゃないですか?
わたくしはここ最近のストレスで白昼夢を見ていたに一票ですわね。
今日は早めに寝ましょう。おやすみなさい。
◆
ルペリオ暦628年12月22日
どうしましょう。夢じゃなかったんですが。
今日学園に行ったら「おはよう」と眩い笑顔で挨拶をされ、「コリンナ嬢、今日は一緒に昼食を食べないか?」と照れ顔で誘われ、「また明日」とほんのり寂しそうに手を振られる。
現実でした。どうしましょう。
わたくしの妄想以上にイシス様が素敵過ぎるんですが、どうしましょう。
これはもしや⋯⋯俗に言う『両想い』?
わたくしはイシス様の恋人⋯⋯なのでしょうか?
あのずっと見ているだけだったイシス様と? わたくしが?
頭がふわふわして現実感が湧きませんね。
戸惑っているわたくしに、ロゼリアは笑顔で「おめでとうございます」と言ってくれました。
◆
ルペリオ暦629年1月7日
イシス様はわたくしへの贈り物を考えてくれているようです。
正式なプロポーズの時に指輪の他にも何か喜ぶものを渡したいと、ロゼリアに相談している姿を発見しました。
「内緒で驚かせたい」
なんて可愛らしいことを考えるのでしょう。
世間一般のイシス様のイメージは、真面目で堅物、常に冷静で落ち着いているそうですが、わたくしは長年の観察により、そのイメージがまるで違うことを知っています。
皆さまにもこの可愛らしいイシス様を知って欲しいですね。
あ、婚約者の座は渡しませんけれど。
最近、少しずつイシス様と両想いになれた事実を実感しております。ロゼリアと話すあの嬉しそうなイシス様は、頭の中わたくしのことでいっぱいなのですよ? すごくないですか?
◆
ルペリオ暦629年2月5日
「コリンナ嬢、ずっと慕っていたんだ。俺と結婚してくれないか」
今日、イシス様からプロポーズを受けました。返事は当然「はい」です。
婚約指輪の他に、薔薇の花束、イシス様の瞳の色のブローチをくださったのはロゼリアの入れ知恵でしょう。
あの子はロマンス小説のような演出が好きですから。でも、それをしっかり実行してくださるイシス様の真面目な所もわたくしは大好きです。
プロポーズのセリフも、本番で噛まないように何度も練習していたんですよ。イシス様、緊張しいなんですよね。愛おしいです。
プロポーズも嬉しかったのですが、当人のわたくしよりも嬉しそうなロゼリアを見て、ここ最近忘れていた殿下の存在を思い出しました。
そういえば、殿下は最近ロゼリアをストーカーしておりませんね。
わたくし、殿下ならばロゼリアを大切にしてくださると思うので、是非頑張って頂きたいのですが⋯⋯。
◆
ルペリオ暦629年3月12日
今日はイシス様とわたくしの婚約披露会でした。
正装に身を包んだイシス様⋯⋯かっこいいです。ただ、イシス様は殿下の様子が気がかりなようです。
ディートハルト殿下は、イシス様とわたくしの婚約が決まってから何故か落ち込んでおられます。おそらく、ロゼリアがイシス様と婚約したと勘違いをしているのだと思います。
何度かその勘違いを正そうとしましたが、殿下は『聞きたくない』とでも言うように婚約の話題を変えてしまわれるので、今日までもつれ込んでしまったのです。
イシス様とわたくしの姿を見た殿下は目を丸くしておりました。そしてようやく合点がいったように、「おめでとう」と言われました。
⋯⋯まったく。手のかかる方ですね。
◆
ルペリオ暦629年3月15日
「コ、コリンナ、これは⋯⋯?」
とか言いながら頬を赤く染めるイシス様。最高です。
今日は天気も良いので昼食の後にお散歩を提案いたしました。
わたくしをエスコートしようと手を差し出してくださる紳士なイシス様も素敵ですが、公的な場ではないので、ちょっと違う形で手を握ってみました。
軽く手を重ねるんじゃなくて、指と指を絡ませる所謂『恋人繋ぎ』と言うやつです。密着度高いやつです。
イシス様って、予想外の出来事に弱いんですよね。手の繋ぎ方を変えただけなのに、あんなに真っ赤になって狼狽えてくれるなんて。
でもって、表情を取り繕って冷静なフリをしようとなさるのです。真っ赤なお顔で。
いやもう、すっごく可愛いんですけど。なんですか、あれは?
わたくしの婚約者ですか?
愛おしすぎるんですが?
イシス様が愛おしすぎていつもの微笑みが少し緩んだ笑みになってしまったかもしれません。最近、イシス様の前では気が緩んで素の表情が出てしまいますね。
わたくしを『貴族令嬢の鑑』なんて呼んでいる方々が見たら落胆されることでしょう。
でも、わたくしにつられたのかイシス様も笑ってくれたので良しとしましょう。わたくしにとってはイシス様が何よりも優先すべきものですもの。
イシス様。
わたくし長年貴方を観察してきましたが、まだまだわたくしの知らない貴方がいたのだと、驚く毎日なのです。
一緒に食事をすれば、トマトお嫌いなはずなのに頑張って食べていますね。そんな強がりな面も素敵です。でも眉を寄せながら咀嚼するのであんまり隠せていませんよ。
家に招待した時に、こっそりとうちの犬を撫で回していましたね。あまりにも可愛がるものですから、わたくしちょっぴり嫉妬してしまいました。
その後、イシス様の手をわたくしの頭に乗せてみましたが、不思議そうな顔で手を下ろした鈍感なイシス様。
もう全部大好きなのです。貴方に飽きる日なんて来ないと断言出来ます。
だから、この日記にエピローグはありません。何冊でも続いていきます。
これからもずっと、貴方の一番近くにいさせてください。
愛しております。イシス様――――
◇◇◇
――――バンッ!
勢いよく扉を開いたので大きな音がしたがそれに構っている余裕は今のイシスにはなかった。
顔を真っ赤に染め上げたイシスは、ソファーに座りゆったりとお茶を飲んでいたコリンナを見つけると、目の前に一冊の本を置いた。
コリンナはその本を見ると少し残念そうな顔をする。
「⋯⋯コリンナ、これは?」
イシスは先程、ディートハルトの執務室に呼ばれた。何か急ぎの案件があったかと不思議に思いながら出向くと、いつもの感情の読みにくい顔をしたディートハルトからこの本を手渡されたのだ。
『文官が持っていてな。⋯⋯一応、渡しておく』
それだけ言って。
本の内容を確認したイシスは、すぐさま妻であるコリンナの元にやって来た。
「わたくしの日記ですわね」
「⋯⋯これを何故うちの文官が持っていたんだ?」
「落としたのを拾ってくださったんですね」
「⋯⋯本当は?」
「イシス様のお可愛らしさを布教しようと思いまして」
「⋯⋯っ」
「勘弁してくれ!」とイシスは叫んだ。
最近、イシスの周りが少しずつ変化していた。
イシスは顔立ちもキツめでハッキリとした物言いをするからか言葉じりもキツく捉えられる。身分も上なので、他人から恐れられることが多いのだ。
いつの間にかついた二つ名が『氷の貴公子』らしい。
イシスもそれは仕方のないことだと思ってきたし、今までそうだったのだから、ずっとそうなのだと半ば諦めていた。
しかしここ最近、これまでイシスを恐れてきた者たちが少しずつ寛容な態度を見せ始めていたのだ。
よく分からないが、恐れられずに親しく話せるのはいい傾向だと思っていたが、どうやらコリンナが一枚かんでいたらしい。
コリンナは『貴族令嬢の鑑』と言われるほど、淑女としての教養や立ち居振る舞いも素晴らしい。美しいその容姿もあり、一目見て惹き付けられたのを覚えている。
ただ、『彼女と話すとか絶対緊張する』と思ったイシスは、あまり彼女を視界に入れないようにしていたのだが。
そのコリンナが自分を想ってくれていて、妻になってくれただなんて奇跡だと思っていたのだが、何故か彼女はイシスの観察日記をつけていたらしい。そしてその内容に驚愕した。
小動物をモフるのが好きなことや、トマトが嫌いなこと、コリンナへのプレゼントで悩んでいたことまで、何故知っているのかと思うことばかりだ。
そういえば、昔からイシスが悩んでいた時に匿名で励ましやアドバイスの手紙が届いていた。普段は厳しい父からの小さな応援かと思っていたが、まさかコリンナからだとは思わなかった。
「とにかく、これは門外不出で頼む」
「⋯⋯門の中だったらいいですか?」
「⋯⋯どういうことだ?」
コリンナは既に『イシス様を愛でる会』というものを発足し、そこで布教活動を始めていると言った。
「手始めに、クレハラッド公爵家の公爵様、公爵夫人、イリーナ嬢、それから数名の使用人に貸し出して回し読みして頂きましたの」
「⋯⋯」
そういえば、最近公爵邸内での皆の視線が温かかったり、いつも厳格な父に「犬でも⋯⋯飼うか?」と気遣われたり、妹のイリーナに食事中「お兄様、好き嫌いはダメですよ」と注意されたりしていたが⋯⋯この日記のせいか?
また、ぶわわと顔に熱が上がってきたイシスは、「⋯⋯勘弁してくれ」と小さく呟いた。
もうこれを誰にも見せないようにと窘めると、コリンナは分かりやすくむくれた。
「むぅ⋯⋯。だって、イシス様はこんなにもかっこよくて、可愛くて、優しくって、神々しいほど魅力がたくさんあるのに、皆さま分かってくださらないのですもの。もうこれはわたくし自ら布教するしかないと思いましたのよ」
イシスは最近、コリンナの表情が変わるとときめくという事実に気づいた。
いつも淑女らしく穏やかに微笑む彼女が、今みたいに拗ねたり、蕩けたような顔で笑ったり。
ロゼリアとの婚約話が出ていた時の、『イシス様が好きなんですー!』と怒って泣いた顔なんて心臓を掴まれたみたいに苦しくなって、コリンナの顔が頭から離れなかった。堪らなく愛おしかった。
拗ねる彼女も可愛らしくて、思わず許しそうになるのだから、惚れた弱みというのは怖いものだ。
「えっと、俺はコリンナだけが俺のことを知ってくれていればそれでいいから⋯⋯」
「そんなのダメです! だってイシス様、『皆俺のこと何があっても冷静な奴だって誤解してるんだ⋯⋯。表情に出ないだけで心の中は大荒れなんだけどな⋯⋯』と悲しそうにしてらっしゃったではありませんか! わたくしはそういった誤解を無くしたいのです」
「何で知っているんだ!」
本当に、コリンナはずっとイシスのことを見ていたらしい。完全に周囲に人がいないと思っていたシーンまで把握されている。かなり恥ずかしい。
恥ずかしいが⋯⋯不快だと言う思いはなかった。むしろ人に伝わりにくい自分の心の内が一番大切な人に正確に伝わっていることに僅かに安堵を感じる。
こんなものを作るほどコリンナはイシスを想ってくれている事実に喜びを感じる。
⋯⋯しかし、布教は阻止だ。断固阻止。
「なので今は『イシス様を愛でる会』代表として、イシス様の姿絵、イシス様の呟き語録、イシス様の心の本音、この3点を制作中ですの。⋯⋯どれなら世に出してもいいですか?」
「全部やめてくれ。そしてその愛でる会も潰してくれ」
呟き語録に心の本音⋯⋯何が書かれているのかは分からないが、絶対にイシスが恥ずか死ぬやつである。
「そんなわけにはまいりません。『イシス様を愛でる会』の会員ナンバー1番にして最大の出資者はクレハラッド公爵ですのよ?」
「知りたくなかった事実!」
公爵家当主として厳格で堅物、雑談すら緊張する父親が、まさかコリンナ側について妙な会を広げようとしているとは。
「⋯⋯分かった。ではこうしよう。コリンナが前から言っていた、俺たちのデートに画家を同行させ、逐一描かせることを許可する。その代わり、その会は稼働させないでくれ。絵はコリンナだけで楽しんでくれ」
「まぁ! 許可頂けるのですか!」
パッと花が咲き誇るように笑顔になったコリンナ。
なんだか肉を切らせて骨を断ったような気分だが、コリンナが喜んで、妙な会を鎮められるならいいだろう。
「イシス様、イシス様! ありがとうございます! 最高のデートにいたしましょうね!」
「――――っ!」
喜び余ったのか、コリンナがイシスに抱きついて来たのでなんとか受け止める。
結婚してしばらく経つが、イシスは未だこういった夫婦の触れ合いに慣れていない。
顔は真っ赤だし、心臓の鼓動はかなり早い。
コリンナには余裕の態度を見せているつもりだったが、心臓の音を聞くようにイシスの胸に頭を寄せるコリンナにはバレているのかもしれない。
――――ぽん。
ふいに、イシスの手を掴んだコリンナが自分の頭にイシスの手を乗せた。
コリンナがたまにする動作で、今まで何を求められているのか分からずそのまま下ろしていたが――――今なら分かる。
ゆっくりとコリンナの頭を撫でる。
サラサラしたシルバーの髪が指に通る。
ほぅ⋯⋯と幸せそうなため息をついたコリンナ。うっとりとイシスを見上げるその表情に、胸が締めつけられた。
思わず喉が鳴ってしまったのも、コリンナには気づかれただろうか。
「イシス様、愛しています」
「⋯⋯俺も、あ、愛している⋯⋯」
視線を彷徨わせて返答するイシスを見つめるコリンナの微笑みが、なんだか小悪魔の微笑みに見えた。
でも、そんな小悪魔に翻弄されるのも悪くない、むしろこの小悪魔が可愛すぎて堪らないなんて、自分はもうかなり精神を侵食されているに違いない。
その後、夫の魅力を世に広めたい妻と、妻の目論見を阻止したい夫との攻防戦が長きに渡り繰り広げられるのだが、当人以外にはただの仲の良い夫婦の戯れに見えるので、おしどり夫婦として名を馳せることになるのだった。
「聞いて、ロゼリア! この前イシス様が照れ顔を描かせてくださったのよ。最高級の額縁に入れて部屋に飾っているのだけれど⋯⋯偶然部屋に入った人が目にするのは許容範囲よね?」
「⋯⋯おそらく。イシス様はなんだかんだお姉様に甘いですから、困った顔をしながらも許してくださるのではないでしょうか。⋯⋯わたくしもディートハルト様の絵を飾ってもいいでしょうか⋯⋯」
◇◆◇◆
お読みいただきありがとうございました!