交渉 18
「その辺りにお前は大部と大変だったがな」
鬼怒川先生は余計な事を言った。
「何かあったのかい?」
鍛冶さんは柔らかく尋ねてきた。
「……」
「言い方を変えよう。何があったんだい?」
何も言葉を発しなかったオレに対し、鍛冶さんは少し言葉を強めた。
「別に、もう片付いた話と思っていただければ結構です」
オレが答える気がないといったように返すと、鍛冶さんは鬼怒川先生の方を向いた。
「何があったのか教えていただけますか?」
「まあ、西雲の言うように終わった話ではあるんですよ」
「それでも伺いたいのですが、教えられないような事なのでしょうか?」
人に言えないような事があったのかと言われると、それは少し違う気もしなくはない。
オレは溜め息を吐いてから、仕方なく口を開いた。
「鍛冶君はオレが過去に話していた時にその場にいたので知ってると思いますよ」
前置きとして言うと、鍛冶君は小さく「あっ」っと声を漏らした。
「説明願っても?」
鍛冶さんは話してくれるんだろう? といったように聞いてきた。
「発表を聞いていた大学教授の中に一人、オレの事を甚く気に入った方がいたんです」
「えっ、は?」
鍛冶さんは行き成りの事に呆けた声を出した。
「そして、その方が養子にならないかといった話を一ヶ月近く言ってきただけです」
「えっ、大学教授の養子? それって、かなり色々保障されると思うけど……」
「立場とか身分で見たらそうかもしれませんね。けど、オレは今の家族と別れる気はないですよ」
別の親なんて絶対に御免だ。両親以外を親と呼べる気はしない。
それが伝わったのか、鍛冶さんは困ったような顔をした。
「それは断れたのかい? かなり難しかったんじゃないのかい?」
「まあ、難しかったですよ。三日と空けずに学校に訪ねてきては、養子にならないかと言ってきて、来られない日は養子縁組の書類に向こうの情報が全て記載されたものを長文の手紙付きで学校に郵送される日々でしたからね」
思い出すだけで気が遠くなりそうだ。
「しかも、論文を急かされてたから、そっちでも追われてたもんな」
鬼怒川先生の補足に周囲は「ああ」と声を漏らした。
「本当に大変でしたよ。夜遅くまで色々とやらないといけない事に追われる日々でしたし、日中にその方が来られていたので、かなり疲れ果ててましたからね。
その所為で家に帰ってから夕食時に親に心配されましたよ」
「ああ、お前の親は知ってたのか」
鬼怒川先生はその辺りの事は詳しく知らないらしい。
「親にぼやいたんですよ。
そしたら、その翌日だったと思いますが、その教授は引っ越されたんですよね」
そう言うと一瞬沈黙が流れた。
「それってさぁ、君のご両親が――」
鍛冶さんがそう言うのを片手で制した。
「みなまで言わないでください。なんとなくと言うか、薄々勘付いてはいたんですが、信じたくもないとの、確認するのが怖いので、気付かないふりをずっとしてきたんです」
そう。見ないふりをしてきたんだ。今更確認なんてしたくない。
「……まあ、そうだろうけど、引っ越しただけ?」
「……かなり遠くに飛ばされたというのは風の便りで聞いたような気もします」
「つまり左遷だね」
それに対してオレは目を逸らして答えなかった。
「君のお父さんも色んな人と知り合いのようだし、君のお母さんも間違いなく影響力はあるだろう。
まあ、一日も経たずな気はしなくはないが、その間にそんな事ができるって事なんだろうね」
その言葉をはっきりと聞きたくなくて、オレは耳を手で塞いだ。
「……それしても聞こえてるでしょ?」
鍛冶さんの言葉に渋々手を退けた。
「聞こえてますけど、聞こえないふりくらいさせてください」
「君のご両親の情報を多少なりと知った時点で私だって思う事なんだから、息子である君は容易に想像が付くだろう?」
「まあ、そう、ですけど……」
「なら聞こえないふりは意味がないよ」
「そうなんですけど……」
「ただの『一般人』と信じたかったのかもしれないけど、確実に違うと思うよ」
オレはそれに対して黙った。
「まあ、そのお陰で他の人の養子にならなくて済んだのなら、君の希望通りなんだし、いいんじゃないかい?」
「それはそうですけど……」
「君の言う通り済んだ事でもあるんだろうし、その教授の事に関してはもうなかった事にしておいていいと思うよ。左遷された人はほとんど立場がないようなものだからね」
「まあ、そうですね」
「何かあったのかい?」
オレの声が通常のものに戻っていない事に気付いたのか、鍛冶さんがそう尋ねてきた。
「いえ、その教授が引っ越した際に最後に手紙を送られてこられたんですよ」
「はあ」
「そこには毎度おなじみ養父の欄に記入済みの養子縁組の書類と今までで一番長い手紙が入っていました」
「えっ、こわっ」
鍛冶さんは想像したのか、自分を掻き抱いた
「取り敢えず目は通しましたが、その後すぐに燃やしましたよ」
「それはある意味正解だと思うよ」
「ある種、二度としたくない経験でしたよ」
「まあ、滅多にある事じゃないと思うけど……」
鍛冶さんがそう言うと、鬼怒川先生は「あ~……」と言った。
「……何かあるんですか?」
鍛冶さんが恐る恐る尋ねると、鬼怒川先生は気まずそうに口を開いた。
「西雲は色んな所から気に入られてるんで……」
鬼怒川先生の言葉に、あちらこちらから納得の声が漏れた。
「オレ、そんなに気に入られてましたか?」
正直そんな覚えがないと言いたい。だが、あの名刺達の存在がちらつく。
「言わずもがな、如月には気に入られているだろう。じゃなきゃ、ここには入学してないだろう」
「まあ、それを言われたら否定は難しいですけど……」
「あと、冬雪先生にも気に入られてるだろうが」
「オレは誰に対しても優しい方だと信じて疑っていませんでした」
「お前の前では異常に優しいお爺さんって感じだったからな。
だが、あの人は元々、子供は嫌いだし、大人に対しても厳しいし、氷の男って言われていたくらいに冷たい人なんだよ」
「想像が付かないんですよ」
「お前は甘やかされていたからな」
つい先日話題に上がった事を思い出してしまって、オレはより何も言えなくなった。
「えっと、その『冬雪先生』という方は、もしかしなくとも、冬の家のあの冬雪家の方ですよね? しかも、氷の男と呼ばれていたという事は、冬雪家の前当主……?」
鍛冶さんは青ざめながらそう尋ねてきた。
「ええ、そうですよ」
鬼怒川先生がサラリと答えると、鍛冶さんはふらりと倒れそうになった。
「えっ、あの歴代一厳しいと言われていたあの冬雪家前当主のお気に入り?」
鍛冶さんは茫然としながらそう呟いた。
「ええ、そうですよ。西雲が入学して早々に気に入ってから、職員室の自分のデスクのところに呼び出して茶菓子と手ずから淹れたお茶でもてなして、時には自分の膝の上に乗せてましたよ。
そんな事は自分の孫にもしなかったはずの方が、そんな事をしていたんで、職員全員が驚きましたとも」
鬼怒川先生としても信じられない光景だったんだろう。どこか遠い目をしていた。
「えっ、膝の上に乗せていたんですか?」
鍛冶さんは驚きながらオレを見た。
「小学一年生の頃ですよ。かなり体が小さかった時の事です」
「いや、まあ、そうだとしても、冬の家で一番権力を持つ冬雪家の前当主が血縁でもない子供を膝の上に乗せて、お茶とお茶菓子でもてなすって意味が分からないよ」
「そう言われましても、オレは呼び出されて、話に付き合って欲しいと言われてから、ただただ出されたお茶とお菓子をつまみながら、先生の話を頷いて聞いていただけなんですけどね。
時折、オレを抱きかかえて自分の膝に乗せて、頭を撫でてくる事はありましたよ。
あとは『じぃじと呼んでも構わんよ』とは言われましたけど、流石にそうは呼びませんでしたね」
「じぃじ……。恐れ多すぎる」
鍛冶さんは本当に信じられないといった顔でそう言った。
「当時は身分だとかを今以上に知らなかったので、どのくらいの身分の方かも知らずに話し相手になっていたんですけどね」
「知らないからこそできた対応かもしれないけど、余計な事を言ってないかい?」
「オレは身分のある方々の独特な言い回しをよく知らないんで、失言していても気付いていない可能性が高いんです」
今になって怖くなるが、細かい話の内容とかは正直覚えていない。
「え~、こっわ」
鍛冶さんにそう言われるが、当事者のオレが一番恐怖を覚えてる気がする。
「まあ、冬雪先生はお前の事を実の孫以上に可愛がっていたし、実際に孫にしたかったみたいだがな。孫が無理ならひ孫でもって言ってたくらいだしな」
鬼怒川先生から淡々と言われ、背筋に嫌な汗が流れた。
「そんな事おっしゃってたんですか?」
「お前、言われただろう?」
一瞬何をだと思ったが、思い出してしまった。
「もしかして、本当の祖父と思ってくれても構わないって、そういう意味ですか?」
「ああ、今の今まで気付いてなかったのか?」
「当り前でしょう⁉ そんな言われ方されて分かりませんよ!
しかも何故そう言ってくるのかも分からなかったから『祖父はいませんよ?』なんて返してしまったんですけど⁉」
「まあ、冬雪先生は気にせず分かっていただろう? しかもその後、『ああ、知っておるよ。だからこそ、祖父と思ってくれても構わんよ』って言われただろう?
あれは、お前の両親を養子にして、お前の祖父になろうかと思うって話だ。
結局、それはならなかったがな」
「えっ、もう色々信じられないんですけど」
「そりゃこっちの台詞だ。あの冬雪家の前当主がお前の親を養子に取ろうとしてるっていうのも驚きだし、お前に対する気に入り方がガチ過ぎて恐ろしかったよ」
「知らない事実を今この場で聞かされたオレの身にもなってくださいよ」
「まあ、実現しなかった事だから、こうやって話せるんだ。よかったじゃないか」
「よかった、のか?」
素直によかったで終わらせていいのか悩んでしまう。
「冬雪先生の考えが実現していなくとも、お前は未だに冬雪先生に気に入られているのは事実なんだし、敢えて言うのなら、お前が冬雪先生に孫になりたいと言ったら、確実になれるってだけだ」
「なる気なんてありませんよ」
「まあ、そうだろうな。
それに孫にならんでも、あの御仁はお前に何かあればすぐに手を貸そうとするだろうよ。
実際にお前が魔力枯渇したあの戦いの時だって、瀬野家に命じてベッドの空きを作らせたんだからな」
「えっ、そうだったんですか?」
てっきり会長が動いたんだと思っていた。
「あの時にはもう冬雪先生は体がいう事を聞かんと言って、出勤が減り始めていたのもあって、あの戦いの時は自宅にいらしただろう?
その間、ずっと戦況報告しろって五月蠅かったし、お前が魔力枯渇で倒れたって聞いたら、すぐさま瀬野の方に連絡したらしく、病院を指定してきたからな。
そのお陰で、小浜も治療してもらえたんだがな」
「そうだったんですね。知らなかったです」
「まあ、お前は三日間意識なかったし、仕方ないだろう。
学校に戻ってきてからも、すぐに河口の告別式だったし、その後もバタバタしてたからな」
それを仕方がないと言ってしまっていいのかは疑問だが、当時は余裕がなかったのは事実だ。
今度お会いする事があったら、改めてお礼を言おう。




