第一話 『消えた患者』 その七
黒い血の手形を、まじまじと見つめる。どうして、こんなところに手形が?
「……咲先生、これは……血なんですか?」
「……血は、外気に触れて凝固すると黒くなるけど……でも、こんな場所に付着するなんておかしい」
「そりゃ、そうですけど」
「しかも、手の形に見えるし……イタズラなんじゃないかしら」
「看護師が?」
「……水沢さんがしたのかもしれない。うちのスタッフはしないでしょ、こんなこと」
「水沢さんが、何のために……」
「……スタッフがするよりは、可能性はあると思うわ。とにかく、こんなものに気を取られてる場合じゃない!」
「そ、そうですね!……水沢さんを見つけないと!……でも、どこに……」
「もう一度、ナースステーションのパソコンで、映像を確認しましょう」
「は、はい!」
ナースステーションに戻り、セキュリティ・カメラの映像を確認する……見間違いや見落としを期待していた。
でも、期待は裏切られる。やはり、水沢さんはあのトイレに入り、出てきてはいないのだ。
……その後も水沢さんを探したのだが、どこにも彼を見つけることは出来ずに、二時間が経過した。
通常なら、水沢さんの家族に連絡を入れなければならない事態だ。
でも、水沢さんには家族はいない。若い頃に、この病院に入院してから30年以上は経っている。
結婚もしていなかったため、両親は死に、孤独になった……親族は彼との連絡を拒絶。
精神病の患者は、家族とトラブルを起こしやすい。周囲との人間関係を破壊することは、少なくない。
偏見もあるが、病的な精神状態の患者の接することは、心が折られる作業でもある。
水沢さんは、孤独な立場であるのだ。そんな患者は、ここでは珍しくもない。
……看護師長と相談し、警察を頼ることにした。
かつては、病院を脱走した精神病患者を保護するために、警察を頼ることはよくあったそうだ。
日に何度も警察を病院に呼ぶことになるなんて……叔父さんがいたら、たるんでる!と一喝されそう。
でも。これは仕方がない。
警察がやって来る。若い警官とベテランの警官だった。
私と師長が対応することになる。事の経緯を説明したあとで、水沢さんがトイレに入っていなくなる映像を見せる。
「……では、あの小さなトイレで消えたと?」
「映像を見る限り、そう見えます。その、困っているんです。知恵を貸してもらえませんか?」
「ふむ……」
警官は渋い顔だ。こんな深夜に呼んでしまったことは失礼だったかもしれない。
でも、本当に手がかりがないし、私たちではお手上げだ。
「外に出てる可能性は少ないと思いますが……でも、何とも言えない状況です」
「わかりました。とりあえず、パトカーで病院の周辺を捜索してみましょう。それと」
「この映像のコピーですね?……あの、DVDにコピーしたんですけど、これでもいいでしょうか?」
「はい。とりあえずは。捜索して見つからなければ、署の警官が明日以降にまた来ますから、そのときに。一応、保管しておいてください」
「わかりました……」
「大丈夫ですよ、先生。昔は、こんなことが、小守の病院では、よく起こっていた」
五十代に見えるベテラン警官は、微笑みながら語りかけてきた。
「……そうなんですか?」
「ああ、ここは昔からの精神病院だ。昔は今ほど、セキュリティなんて発達してなかったし、管理も雑だった。よく、患者さんが逃げ出していたよ。でも、ほとんどは生きて見つかる」
「ほとんどって……生きて見つからなかったこともあるんですか?」
「……車にはねられることもあったよ」
ベテランの警官はそんな言葉を使い、私を落ち込ませた。彼は私の落ち込む様子を見て、あわててしまう。
「ご、ごめんねえ、先生……まあ、そんなこと、フツーは起きないから……」
「……でも。管理が行き届いていなかった、病院側の責任です……」
「院長先生の事件もあったし……しょうがないよ」
「それとこれとは……」
「関係はあるよ。たぶん、院長先生も……童子さまに狙われたんだから」
「え?……童子、さま?」
警官は口をすべらせてしまった、という顔をする。手のひらでその口を覆い隠していた。