第一話 『消えた患者』 その六
変死体を見ることになるかもしれない嫌な予感と、医師としての職業倫理を同時に感じながら、私はその換気扇に指をかける。
下に引っ張ると、換気扇はあっさりと抜け落ちた。換気扇だけじゃなく、周囲の天井まで一部が剥がれた。
メンテナンス用のフタと、一体化していたみたいだ。照明の裏側や、配線も見える。変なとこに触ると感電するかも。
「天井、外れましたね」
「ええ。これなら、頭ぐらいなら入りそうだわ。これ、もってて」
看護師に外れた天井の一部を手渡して、私は次の作業に入る。
狭い空間が見える。むき出しになった換気扇のファンと、暗がりが見えた。
……思っていたより、せまい。それに高さがある。
こんな場所に、長期の入院で筋肉も落ちている細身の人物が、這い上がれるものかしら?
いや、常識は捨てる。爪先立ちまですれば、どうにか目線は入りそうかな……?
頭をその暗がり入れる。ファンが頭に触れそうだ。風の流れる音が鼓膜と耳小骨を揺さぶる。狭いけど、ちゃんと外につながっているのね……当然か。
暗がりを照らすために、私は自前のスマホをライト代わりに使う。
狭く、埃っぽい空間が照らされる。
普段は見ることのない空間が、光に照らされた。
建築の裏側は、美しさが排除されて、冷たさを感じるほどに機械的だった。
そして、見たくもなかった変死体は、そこに無いことも理解する。
救助すべき不明者を発見できなかったことは、残念に思うが。
「いないわ、水沢さんは、いない」
「ですよね。上半身は入るかもしれませんけど、人がそこを這い上がるのは……無理ゲーですよ」
「……たしかにね。こんなとこ、這いずり上がれはしないわよ」
ムダな時間を過ごした。でも、あのネジは一体、何だったのか?……水沢さんは、これを外して、外に出ようとして、無理だと判断し、もとに戻そうと換気扇の表面をはめ込んだ?
……じゃあ、どこに行ったのよ?
頭痛くなる。叔父が怪死した日の夜に、こんなことしたい人なんて、きっといないのに。
世界で一番の不幸女だとは思わないけど、県下一、不幸な夜を過ごしてる精神科医にはエントリーしても良さそうだった。
便器から降りて床を踏む。安定は心も落ち着かせる。
「……見当たらないわね」
「そうですね……他を、探してみましょうか?カメラの映像も、チェックしなおすと、発見があるかも?」
「そうね。見間違いをしている可能性の方が、現実的だわ」
「先生、手、ホコリまみれですよ」
「ん。そうね、換気扇の内側って、ホコリが多いみたい」
きっと、いつもホコリを吸い込んでくれているから、たまりやすいんでしょうね。
医療に携わる者として、清潔は大事だ。私はこのトイレの壁にはめ込むように作られている、手洗い用のユニットに近づく。
センサー式だから便利。消毒入りのソープ液が出て、それを泡立てて、手を所定の位置に差し込むと水が出て……。
「…………え?」
壁に取り付けられている小さな鏡……そこに映っていたのは、私ではなくーーー叔父の顔だった。
「……っ!?」
「咲先生!?」
跳ねるように、その場を飛び退いた私を看護師が心配してくれる。
私は、駆け寄る彼女を濡れた手で制止た。
「大丈夫。ちょっと、見間違えて……ストレスが原因ね……」
鏡のなかには、私がちゃんと映っている。この分では、あのカメラの映像も見間違えているだけで…………。
「さ、咲先生……こ、ここ!この鏡、な、なにか……ついてます!」
そうだった。その鏡の右下のあたり。そこには、小さな黒い手形があった。
水沢さんのものじゃない。あまりにも小さいから。でも、五つの指が確認できる。
それは、新生児の……赤ちゃんの手のひら。そう見える。ただし、焦げたように黒い何か粘着質の液体が、その手形を残している。
何だろうか?
理解しがたい。でも、この質感は……どこか血に似ているような気がする。
何なのだろうか、これは……。