第一話 『消えた患者』 その五
スタッフ用のトイレに向かいながら考える。あそこは個室になっている。つまり、一般家庭にあるようなサイズのトイレ……なんなら、むしろ小さいぐらいよね。
そんなところに隠れる場所なんて、あるかしら?……無さそうだけど。
でも、あそこから出てはいないはずなんだから……あのトイレのなかにいる。いないとおかしいもの。
……考えている間にトイレの前にたどり着く。ノックするが、無音だ。誰もいないのかのしれない。
そうよ。そもそも二回もスタッフが調べているんだし……?
じゃあ、水沢さんはどこに?……見つからないように、隠れていられるのかしら……。
たとえば。
たとえば、フツーじゃ絶対無理な狭い場所に入り込んでいるとか。メンテナンスのために、天井裏に入るための場所とか……。
「咲先生……開けないんですか?」
「……うん。開けないとね」
ドアノブに手をかけて、ゆっくりと回した。
……そこにあったのは、見慣れた光景だけ。
清潔さの保たれた、スタッフ用のシャワートイレだ。
定期的にプロの手により清掃されているから、汚れ一つない場所。芳香剤のフローラルな香りがして、心が落ち着くほどだ。
そして。やはり、水沢さんはいない。
普段は落ち着く狭さだけど、今は謎を広げてしまう狭さだった。
幅なんて、130センチぐらいのものかしら。奥行きなんて、200センチ……も無いわよね。
一瞬あれば全てを見渡せる。それなのに、水沢さんはいないのだ。
「咲先生。いませんね、水沢さん……」
「……でも、映像を信じれば、ここに……」
頭によぎったのは、さっきの発想。天井裏。
私は頭を上に向ける。天井は、白くて……小さな換気扇が回っている。予想していた天井裏につながるメンテナンス・ハッチは見当たらない。
穴はある。外に繋がる風の通り道はあるのだ。唯一の、外への道。換気扇の排気用のそれがある。
でも、これは……キッチン用のものに比べて、二回りは小さい。
そもそもキッチン用の換気扇だって、人が通り抜けられるとは思えない。小さな子供……というか、新生児なら可能性があるかもしれないが。
水沢さんは、170センチはある。細身だけど、この換気扇を外したところで、入れるはずが……っ?
「……換気扇の、ネジが外れてない?」
「え。ほんとですね……あ。床に、小さなネジが落ちてます」
足元を見ると、たしかに小さなネジがある。2センチの長さもなさそうな、貧弱なそれだ……。
「ここを開けたのかしら、水沢さん」
「開けたって、まさか先生。水沢さんが換気扇に入った……みたいなことですか?」
「……ありえないと思うけど。ネジが外れてるなんて、おかしいもの」
「で、でも、換気扇動いてますよ?」
「スタッフが明かりをつけるときに、いつもの癖で換気扇のスイッチも押したとか?」
「な、なるほど……って。狭さが。腕ぐらいしか、通りませんよ……っ。関節とか外せたりするよーな、蛇人間ならともかく」
蛇人間って、何だろう?……狭い穴を無理やり通れるようなサーカス芸人?
「蛇かどうかはともかく。シルク・ドゥ・ソレイユのアーティストは、背骨が折れそうなぐらいは曲げられる」
「軟体芸……出来るんですか、水沢さん。頭も通らないし、だいたい、換気扇の中に入っても、換気扇を」
「閉じられないわよね」
「はい」
「でも、他に外につながる場所はない。何より、何故かネジが外れているもの」
「そう、ですよね……で、でも、こんな小さな穴に、人なんて詰まっていたら、そ、それ、死んじゃいますよ……」
「……そうね。だから、確かめないと」
……便器のフタを閉じれば、足場の完成だ。
私は便器に乗る。壁に手を当てて、自分の体を支えながら。
「換気扇のスイッチ切って」
「は、はい!」
目の前で換気扇が動かなくなる……改めてみると、小さい。頭も入らないかも。でも、精神を病んだ人間の行動は、想像を超えることもある。
どんな厳重な監獄からも、脱獄する人がいたりするわけだもの……。
それこそ病的なまでの精神力をもってすれば、この穴を人が這い出るなんてこともあるのかしら……。
いや、もしかしたら、この換気扇を外せば、メンテナンス用の空間を開けられるとか?
天井の一部が、外れるのかも。それなら、蛇のように、そこを通れるのかも……でも、狭くて、無理やりに体をねじ込めば、手足や肋骨の骨が折れてしまう……。
夏だし、熱中症にもなるかも。
私は、ぐちゃぐちゃに全身の骨が折れ曲がって、狭い通路いっぱいに詰まった人間の姿を想像する。
そんな状態だと、間違いなく死ぬ…………想像した惨状に、体が怯む。指が屈曲し、拳を作っていた。
でも。もしも、そんな怪現象が起きていたりすれば、救助しないと。まだ、一時間。そんな状態に人が陥っていたとしても、しんでいない可能性はある……。