序章
序章 『解放された魂』
けたたましいサイレンの音に導かれ、私は入院患者たちと一緒に涙目になりながらも、一階を目指して駆け降りていく。
家事?……まさか、病院で?火元はどこだろうか?
わからない。
でも、入院患者らは口をそろえて叫んでいた。まるで原因など分かりきっているじゃないかと言わんばかりの勢いでーーー。
「童子さまだ!!」
「童子さまの、祟りだ!!」
「また、みんな焼け死んじゃうんだわ!!」
「『母親祀り』をしなかったから、また出てきたんだ!!」
ここの精神科の入院患者たちは、地元の宗教に所属し、一種の悪神を崇拝しているものが多いと聞いていたけど……。
彼らの神さまは、災いを起こすことを躊躇わないようだ。
皆が本気で信じている。狂気の熱を帯びた声で、私にはとても理解しがたい言葉を叫んでいる。
童子さま、童子さま、童子さま……病んだ精神がもたらす、鋭く座った瞳のまま、彼らはその存在に対して、あまりにも真剣に信じて、疑っていないようだ。
狂信者の集団に巻き込まれている気持ちになる……患者に対して、医師が抱くべき感情ではないが、今の彼らは……おぞましさを感じるほどに怖い。
彼らはどうしたのだろうか?……ここの精神科の入院患者は、重度の症状の患者が多かった……火事なのだから、解放するしかない。
医師だから手伝わなければならない。でも、何か、大きく間違ったことをしているような気がする。
彼らを解放してもいいのだろうか?……私たちは、この患者たちを再び、どこかの病室に戻すことが出来るのだろうか?
不安になる。警備はいるはずだし、他のスタッフもいる。警察や消防だって、すぐに駆けつけてくれるハズなんだもの。
大丈夫。
大丈夫よ。
大丈夫なはずなのに……なんで、こんなに間違ったことをしている気持ちになってしまうのだろう。
自分は精神病患者に偏見があったのだろうか?……そんなこと、思ったこともなかった。自分はスペシャリストだ。
病んだ精神のスペシャリスト……だから、そんな偏見は間違っていると理解している。
病気だから行動が間違っている。
それだけのこと。だから、治療し……治療が効かなければ、入院し……自殺願望が酷ければ場合によれば色々な措置をしているだけのことで……。
……そうよ。私は、彼らに偏見なんて持っていない。心の病なんて、誰でもなる。そんなことに、偏見なんて……。
でも。どうして、彼らを外に出してはならないと感じてしまうのだろう。
わからない。
わからないけど、なんだか、今、童子さまを恐れる彼らの声に囲まれることが、統一された畏怖の感情を浴びることが、あまりにも気持ち悪い。
怖いのだ、歯をガタガタと震わせている。火事なのだから?……ちがう。きっと、家事なんかじゃない。
怖いのは、怖いのは……きっと、周りにいる入院患者たちだった。
それでも引率しなければならない。私は勤務医だ。彼らを守らなければならないもの。その義務がある。
一階まで降りて、訓練通りに避難ルートを走っていく。スプリンクラーの雨に打たれながら、みんなで走る。
ルートは分かっている。救急の処置室の隣にある廊下を走り抜ければ……っ!?
「童子さまだ!!童子さまが、御子柴を焼いているぞ!!」
御子柴。私の名字を一人の患者が叫んだことに、怯えてしまう。
私を焼いている?
何よ、それ…………わけが分からない。強烈なストレスの結果により、妄想が出ているのか。そう判断しようとしけれど。
ちがった。
彼は正しかったのだ。
御子柴は燃えていたのだから。私ではなく、この病院にもう一人だけいる、御子柴姓の人物が……。
叔父さんが燃えていた。
押し開かれた処置室のなかに、火元はあった。私の叔父が、火に包まれて燃えている。
床に横たわっていた。
スプリンクラーの放水の真下にいるというのに、まっ黒に焦げていこうとしていた。叔父さんだと分かるのは、顔だけはまだ半分ほどしか燃えていなかったからだ。
でも、もう動いてはいない。脚も背中もまっ黒になっていた。水を浴びても、その炎を消えてくれなかったらしい。
私の叔父は、もう死んでいたのだ。見開いた白く濁った瞳は、私のことを見てはおらず、それどころか誰も何も見ていなかった。
私の周りにいる入院患者たちが、叫んだ。恐怖から、畏れから。燃えていく、私の叔父の名を呼んだ。
「御子柴だ!今度は、御子柴が選ばれたんだ!!母親祀りを、するんだ!!じゃないと、また小守の町が、焼かれてしまう!!」
「御子柴だ!!」
「御子柴を、母親祀りにするんだ!!」
「そうすれば、こんがり童子さまは、またしばらくは眠ってくれるんだ!!」
叔父のことを……叔父のことを言っている。そう思いたかった。
彼らと共有できない感覚があることは分かる。私は知らないらしい、この精神病者たちが知っている何かを……。
だから、不安になる。恐ろしくなる。目の前にある、半分炭化しつつあり、ついには炎が顔まで焼き始めた叔父を見ながら……。
私は正体不明の恐怖と、過度なストレスを感じていた。間違いなく、この体験はPTSDとなって、私の心を長く苦しめるだろう。
それだけは分かったんです、叔父さん……。