lady~レイディ~
雨の日の朝に安心するようになったのはいつ頃からだろうか。
子供の頃は雲一つない澄んだ青空に惹かれていたが、社会人になってからというもの空一面を覆う灰色の雲からこぼれ落ちる大粒に安堵感を覚えるようになっていた。
嫌になるような日差しも、肌に張りつくような他人の目線も、滴と半透明なビニール傘が遮ってくれる。
町を歩く皆が傘をさしていて、そこにいるすべての人が平等なのだと、ちっぽけな安心感がある。
やまない雨はないというけれど、このままずっと雨がやまなければ、世界はもう少し生きやすいのではないかと、どうしても考えてしまう。
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もう冬は過ぎたというのに未だ春の温もりを感じられない3月。雨粒で冷やされた空気に手をかじかませながら、傘をさして駅に向かう。
今日もまた、わざとらしい大げさな笑みを浮かべて客に物を売るセールスマンとして、一日を過ごさなければならない。
最寄り駅の目の前には巨大な国民公園が見え、もう少し経つと桜の名所として全国から人が来る。
また鬱陶しい季節がやって来るのかと嫌になる(自分はそこの年間パスを持っていて、仕事が早上がりだった日に森林浴するのが日課なのだが、人の多いこの季節はそれを見送っているのだ)。
会社近くの駅で電車を降りる。改札口では限られたゲートに我先にというようにも譲りあって規則正しくというようにも見える列が形成され、その人混みの中を抜け会社へ向かって歩きだす。
町では皆が何かに急かされるようにせわしなく歩いている。かしこまった顔で歩く者も、スマホを片手にうつむく者も、意識高く腕時計でも見ながら電話をしている者も、今日はいない。皆が同じように傘をさして雨から身を守っている。
そんな自分を安心させてくれる光景を見ながら歩いていると、目の前からそれを踏みにじる者がやって来る。
僕は服に疎いのでよくはわからないがそれは紺の膝丈スカートに白いシャツ、その上から紺の上着を羽織っている。
何がおかしいって、それは傘をさしていない。せっかく着ている服も少し明るく染められた髪も濡れてぺしゃんこになっている。
次の瞬間には、僕は彼女を怒鳴っていた。
何を言ったかは覚えていない。何故怒鳴ったかさえわからない。ただ、目の前の彼女がただただ、呆然としているのだけを覚えている。
何を言ったかはわからない。しかし今考えるとすぐにでもその場から消えたくなる。
それはそのときの僕も同じだったらしく、そのまま脇目もふらず両手を大きくふって走り出していた。
運動不足で久しぶりに走ったせいで肺は悲鳴をあげ、大量の空気を欲していた。
駅からはさほど遠くないものの、全速力で走ったので会社まで体力がもたず最後の数百メートルはふらふらと歩きなが行った。
ようやく会社の入口に着き酸欠で震える手で鞄の中の社員証を探る。全身びしょ濡れになっていて書類が濡れていないか心配だったが、息が苦しくてそれどころではなかった。
そんな中、彼女はまたも僕の目の前に表れた。さっきよりもずぶ濡れになって。さっきの呆然とした顔ではなくはっきりとこちらを見て、一言だけ。
「傘、落としましたよ。」
ああ、恐ろしい。
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あの日から何日がたっただろう。
傘を忘れて、せっかく気合いをいれてきた服も、髪も気持ちも、もうぺしゃんこになって帰ろうとしていた時、いきなり知らない男性から怒鳴りつけられた。
別に嫌な気なんてしなかった。むしろほっとした。
いままで私は私の存在を肯定するのではなくて、私のおかしさを肯定してほしかった。
人と話すのが苦手なのに、うわべだけの笑顔で受付嬢なんてやっている私を、雨の日なのに傘もささずびしょ濡れになって自分はおかしいんだと自己満足している私を、否定して欲しかった。
彼はそんな私を初めておかしいと、気持ち悪いと、恐ろしいと、嫌いだと、言ってくれた。
初めて私を認めてくれた人は、傘を置いて走り去ってしまった。けれど私は嬉しくて、また話したくて彼の落とした傘を拾いあげてすぐに彼を追いかけた。
追い付いた頃には彼は会社の中に入っていて、こちらには目もくれず行ってしまった。
私はそのまま彼の傘を持ったまま会社を休んで家に帰った。
その日から私は彼のことを思い出すたびに彼に否定された嬉しさと、周囲に肯定される悲しみが混じりあってぐちゃぐちゃになっていた。
一度会っただけの彼に、なぜだか心が揺さぶられて、そのたびに傷ついている自分がいる。
季節は雨のまばらな4月。外へ出る気にもなれずただ傷つくだけの日々が続いた。
いつのまにか新宿の国民公園の桜が満開になっていて、テレビからは大量の花見客が押し寄せいるというニュースが流れてていた。
続いて天気予報が始まった。来週は雨が続き、桜を散らす雨になるらしい。そんな話を聞いてどうしても、ざまあみろと思ってしまう。
そうか、雨か、雨の日になら、またあの人に会えるのかな。
次の週の火曜日、予報通り東京には大雨が降った。今度は濡れるのを見越して髪はくしでとくだけにして、服もすぐ乾く薄手の物を選んだ。
4月の雨はまだ冷たかったが、それよりも緊張で熱っぽくなっている体温のほうが勝った。
時間よし、メイクよし、傘は置いた。準備は万端なはずだ。
家から駅までは5分ほど歩けばたどり着く。普段はそこから電車に乗って会社に向かっているが、今日は違う。
改札口から少し出た屋根のない道で立ち止まる。やがて電車がホームに入ってくる。
大きな駅なので改札からはおびただしい数の人間が出てくる。このなかに彼がいる保証はどこにもない。それでもただひたすらに彼を探した。
雨粒が地面に叩きつけられるたびにそこにはノイズが発生し、人々が傘を広げるとそのたびにまたノイズが増えていく。
大量のノイズで霞んでいく世界の中に、ぽつんとそれとは違うノイズを発生させているものが二人いる。
一人は私、そしてもう一人は、彼。
まるで自分を変人だと誇張するかのように傘をささず、濃紺のスーツは雨で濡れている。
彼は雨に濡れて、すこしだけ私の目を見ていた。
「風邪をひくから、うちの会社で暖まって行きませんか?」
一言だけ返事をする。「はい。」と
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彼女の着替えと傘を会社から借りて、そんなに濡れていては仕事には行かせられないと有給を貰った。
二人で別々の傘をさして、駅に戻る。僕は改札に、彼女は家に向かう。
地元の駅に着いて改札を出るころには、もう雨は小降りになっていた。あれだけ濡れていたシャツも乾きはじめている。
ホームから発車する電車が、もう戻って来ないように見えて、花見客でにぎわう国民公園が、もうこの世界には僕の居場所はないと告げているように感じた。
ホームから発車する電車を追いかけるように改札へ戻る。突然振り返った男に驚く周囲を無視して走る。
次の電車までは6分。間に合うかはわからない。いやおそらく間に合わないだろう。でもこのまま家に帰ったら一生後悔する気がしたのだ。そんなはずはないのに。
やがて新宿方面の電車がやってくる。平日の昼といえど東京の電車には多くの人が乗っている。当然電車の回転も早い。
駅には大量の人間がいる。さきほど彼女と別れた場所へ向かう。
白いヒール、紺のスカート、白いシャツ。
人違い。人違い。人違い、人違い人違い。
彼女がいるはずもなかった。
それに気が付いた途端、ふたたび雨が激しくなる。
彼女のにおいを、存在を、記憶を消すように。どしゃ降りでもずぶ濡れでも傘をささなかった彼女は、さっきほどの雨では折り畳みの傘すらささないだろう。
でもこの雨ならわからない。
連絡先は交換したものの、電話ではなんの意味もない気がして。
あのとき傘を届ける彼女の「いかないで」は僕の心に届かなかった。
今、僕が思っている「いかないで」が彼女に届くことはない。
そう考えると二人の関係が、初めて会ったときからなにも変わっていないことに気付く。
僕から君が消えてく。いかないで、いかないで。
雨音に誘われて、
彼女が、消えていく。
連載中の作品に行き詰まったので気分転換で書きました。
同時に初めての賞投稿。やり方が合ってるか不安です。
この話には元となった歌がありまして、わかるかたには即バレだと思うのですが、興味のあるかたは探してみてはいかがでしょう。
ここまで読んでくださったかた、感謝いたします。よければついでに批評でもなんでも感想など書いていただけるとこれからの励みになります。