第26話:魔族領
魔族領、それは見渡す限りの不毛の大地である。
地表には草木一つ生えず、至る所から溶岩が噴き出している。
空は不気味な薄紫色で薄暗く、常に霧が立ち込めており視界は悪い。
常夜の世界に太陽の光は差さず、呪われた真紅の月が魔の者を祝福するように輝いている。
か弱い草食動物は生存を許されず、狂暴な肉食動物や強力な魔物達が徘徊する。
弱い人族では入ったが最後生きて帰ることは叶わない恐ろしい場所──
「──と聞いてたんですが」
「誰ですか、そんな出鱈目を吹き込んだのは?
まぁ、大体予想が付きますが」
魔族領に入ってから数刻、周囲を見渡しながら玲治が放った言葉に、オーレインは頭痛を堪えるように頭に手を当てながら呆れた。
「アンリさんです」
「アンリ様……レオノーラさんに怒られますよ」
「カァー」
案の定の玲治の回答に、今度は御者台の真ん中で手綱を握っていたテナが手綱を持ったまま頭を抱えた。
その呟きに、テナの左肩に停まっている鴉は、さり気なく明後日の方向に目を逸らした。
「まぁ、嘘っぽいとは思ってたけどな。
魔族領がそんな危険な場所なら、テナがそこに行くことをあの人が認める筈ないから」
「あはは……」
玲治の言う通り、過保護気味なところがあるアンリがテナをそんな危険な場所に送り込むようなことは絶対しないと言える。
実際に魔族領に来れば一目で嘘だと分かるような内容であることから、悪意のある嘘というよりは軽い冗談だったのだろう。
彼ら三人と一羽の目の前に広がっている実際の魔族領は、アンリが玲治に吹き込んだような異界ではない。
辺りには青々とした草原が広がっており、空は清々しいばかりに蒼く澄み渡り太陽の光が照らしている。
勿論、霧などが立ち込めているようなこともないし、溶岩が噴き出してもいない。
要するに、人族領と何も変わりはしない。
「そもそも人族領と地続きですから、突然そんな世界が変わったりしないですよ」
「まぁ、そうだよな」
もっともなテナの言葉に、玲治は納得しながら苦笑した。
玲治も八割方は嘘であると見抜いていたのだが、実際に魔族領に来るまで「もしかしたら」という気持ちが無かったと言えば嘘になる。その理由は概ね、魔族領について語ったアンリの態度が、あまりにも自然体で淡々と語っていたため、とても嘘を言っているようには見えなかったからである。
「それで、このまま街道を行けば魔王城まで行けるんですか?」
「取り敢えず、人族領に一番近い街に着くのは確かです。
しかし、そこから先にはこれまで人族が立ち入ったことが殆ど無いので……」
玲治の問い掛けに、答えを持ち合わせていないオーレインは悩む表情を見せる。
元々敵対関係にあった人族領と魔族領。
最近になって国境付近に魔族側と敵対しない神聖アンリ教国が建国されて交易が始まったが、あくまで交易のためなのでお互いに必要以上に奥地に立ち入るようなことはしていない。
人族が訪れるのは魔族領の中で最も人族領に近い街までであるし、逆に魔族が訪れるのは神聖アンリ教国のアンリニアまでで他の国には立ち入らない。
それ故に、一行が向かう先にある街まではまだ道が分かるが、それより奥地のことは情報が無い状態だ。
なお、例外として、魔王討伐を目論む勇者パーティーが魔族領の奥地まで潜入したことがあったりするのだが、彼らはそれを知らない。
「そう言えば、オーレインさん。
アンリ様から地図を貰ってたんじゃなかったですか?」
「あ、そう言えばそうですね。
ちょっと見てみましょう」
もう一つの例外として、アンリのことが挙げられる。
現魔王であるレオノーラに友人として招かれて、アンリはかつて魔王城を訪れたことがあるのだ。
有史以来人族が訪れたことなど殆どない魔王城に訪れたことがあるというのは、貴重な情報源となり得るだろう。
そう思って、アンリから預かった地図を広げたオーレインは、次の瞬間硬直することとなった。
「?」
「どうしたんですか?」
「カァー?」
地図を見るなり固まったオーレインに、玲治とテナと鴉が不思議そうな目を向ける。
オーレインはそんな二人に、手に持っていた地図を裏返し、掲げるように見せた。
情報と言うのは、多ければ多い程良いと言うものではない。
勿論、詳しい情報と言うのはそれは一つのメリットになり得るものであるが、それがメリットとなり得るのはきちんと整理がされている場合の話だ。
雑多な情報が整理されないまま提示されるよりは、必要最低限の重要な事項だけがあった方が役に立つと言う場合も多々ある。
シンプル・イズ・ベストとは言い過ぎではあるが、ベターな場面があるのは間違いない。
しかし、それも必要最低限の重要な事項が載っていればの話。
オーレインが掲げた地図には縦に一本線があり、その右側に三つの丸とそれぞれ「黒薔薇邸」「アンリニア」「リーメル」の付記、そして左側に一つの丸と「魔王城」の付記があった。
あとは、僅かな補記だけで道も何も記されていない。
シンプル過ぎだった。
「ええと……『魔王城まで二刻くらい』?
そんなに近いんですか?」
掲げられた地図にテナの肩越しに顔を寄せた玲治が、「アンリニア」と「魔王城」の間に書かれた小さな補記を読み上げて疑問の声を上げる。
「いえ、そんな筈は……。
大体、もしそれが本当ならもう着いている筈ですよね?」
「……確かに」
魔族領に入ってから、それくらいは悠に経っている。にも拘らずまだ魔王城など影も形も見えないのだから、この補記が正しいとはとても思えない。
「そう言えば、アンリ様……魔王城に行った時はヴニさんに乗って行ったって仰ってたような……」
「ヴニさんって……あの黒龍ですか。
確かにそれなら随分と速いのも頷けます」
「そうすると、ここに書かれている所要時間は黒龍が飛んだ場合のものか。
馬車だとどれくらい掛かるかは……」
「分かりませんね」
どうやら、この地図は方角以外役に立ちそうにないと、三人揃って溜息を吐いた。
◆ ◆ ◆
「──────ッ!」
魔王城の場所については街に着いたら聞き込みをすることにして、取り敢えず馬車を進めることにした一向だが、しばらく進んだところで突然オーレインが表情を緊張させた。
「オーレインさん?」
「馬車を停めてください」
彼女の様子に気付いて疑問の声を掛けるテナにそれだけ告げると、オーレインは背に背負っていた聖弓を構えた。
テナが手綱を操って馬車を停めると、オーレインは周囲を警戒したまま身動きの取り難い御者台から飛び降りる。
「魔物ですか?」
「はい、何処かからこちらを狙って……上です!」
御者台の右側で万歳をしていた玲治が彼女と反対側に降り立って剣を抜きながら問い掛けると、オーレインはそれに答えようとしたが、途中で急遽上を向いて引き絞った聖弓から光の矢を放った。
光の矢は真っ直ぐに上空へと向かうと、一向の馬車を目掛けて急降下してきていた大きな何かに突き刺さる。
矢で射られた相手はそのまま力無く落下して地面へと叩き付けられ絶命するが、それは四羽居る内の一羽でしかない。残りの三羽は仲間がやられたことを受けて警戒するように、急降下を中断して中空を旋回し始めた。
「鳥型の魔物?」
「はい! グループで上空から襲い掛かって鋭い爪で攻撃してくる魔物……シャープ・イーグルです!
馬が狙われると厄介なので、レージさんは馬を守ってください!
テナさんは魔法で撃ち落とすのを手伝ってください!」
「はい!」
「分かりました!」
一向を空から狙ってきたのは、鷹のような姿をした魔物だった。
しかし、玲治が知るそれよりも二回り以上大きな体格をしており、羽根の色も緑色をしている。
オーレインの的確な指示に従って玲治は馬の近くに駆け寄り、テナは杖を掲げて上空へと魔法を撃ち始めた。
残った三羽の内の二羽は地表から放たれる攻撃を旋回しながらかわしつつ、オーレインやテナの隙を窺っている。
そして、彼女達の注意を逸らしながら、最後の一羽がギラリと尖る鋭利な爪を広げながら、馬車を引く馬へと襲い掛かってきた。
「させるか!」
玲治は急降下してきた魔物に横合いから剣で斬り掛かる。
その攻撃によってシャープ・イーグルは馬への攻撃を中断し、回避に移った。
玲治がそこに追撃を仕掛けようとするが、それより早くシャープ・イーグルは羽ばたいて上空へと戻ってしまい、玲治は手が出せなくなる。
上空に戻った敵はしばらく旋回して隙を見付けると、同じように馬を狙ってくる。
「攻撃は防げるけど、このままじゃ仕留められないな」
このまま同じ攻防を繰り返していても拉致が明かないと判断した玲治は、攻め手を変えることにする。
「喰らえ!」
相手の急降下に合わせて、剣撃ではなく光魔法を放ったのだ。と言っても、攻撃力の無いただ強い光を放つだけの魔法である。
「──────ッ!?」
しかし、シャープ・イーグルの眼前で突然起こった発光は相手の目を潰し、前が見えなくなった敵は混乱したまま地面へと落下する。
「今だ!」
玲治は地面に落ちたシャープ・イーグルに駆け寄って、剣を振り下ろしてトドメを刺した。
「はぁ……倒したか」
一息吐いてからテナ達の方を見ると、そちらの方も決着が着いたらしく二人とも武器を仕舞っているところだった。
最初にオーレインが倒したもの以外には一羽しか死骸が見当たらないところを見ると、一羽は逃げ去ったのだろう。
「レージさん、無事ですか?」
「あ、はい。こっちは倒しました」
オーレインから問い掛けられた言葉に仕留めたシャープ・イーグルの死骸を指し示しながら答える。
「それにしても、人族領の魔物よりも強くないですか?
いや、あのダンジョンの魔物は別ですけど」
戦った感触で感じたことを、玲治がオーレインへと尋ねる。
彼が人族領において見掛けたフォレストウルフやジャイアント・ホーンボアと比べると、今回遭遇したシャープ・イーグルは遥かに対処が厄介に感じたためだ。
「そうですね。アンリさんの魔族領の話は殆ど法螺ばかりでしたけど、
人族領よりも強い魔物が居るというところだけは真実です。
一説によると、魔族領の方が空気に強い魔力が満ちていて、魔物が強く育ちやすいと言われています」
「そうですか、それじゃあ気を引き締めて先に進まないといけませんね」
「はい」
脅威を再確認した玲治達は、周囲への警戒を強めながらも馬車を進めるのだった。
<登場人物から一言>
アンリ「折角書いた地図なのに……」




