絶望の脈動
本の世界。――数多の想いによって紡がれた無数の物語が連なった世界の片隅に広がるとある場所。
闇を塗り付けたような黒い城の中で、喪服を思わせる黒いドレスに身を包み、ヴェールで顔を隠した女が息を呑む。
「――っ!」
ヴェールに隠れていない赤い唇を強張らせ、翼のようになった髪を揺らして頭部から伸びる蛇を揺らしたその女――絶望の一人である「ヴィマレーナ」の動きに、骸骨の頭部を持った男が視線を向ける。
「どうした? ヴィマレーナ」
絶望達のリーダー格である黒い骸骨の男――「エンデ」の言葉に、ヴィマレーナはそのお思い口を開く。
「……間もなく覚醒を迎えようとしていた同胞が滅ぼされたわ」
「なんだと? そこまで成長していたならば、並みの幻想司書では手に負えないはずだが……幻想図書館の副館長辺りが出張ってきたか」
その言葉に眼下の光を爛々と輝かせたエンデが名残惜しそうに呟く。
覚醒していれば、絶望の仲間が一人増えていたのだからその反応は至極当然のものだろう。
「いいえ。見たこともない奴よ」
しかし、そんなエンデの言葉をヴィマレーナは抑制の効いた声で否定する。
「何?」
「これを見て」
その言葉と共にヴィマレーナの頭部から生えた蛇の目から光が放たれ、空中に巨大な画面を作り出す。
そこに映し出されたのは、白い姿となって竜の姿をした悪夢を打ち滅ぼす一人の幻想司書の姿だった。
「これは――まさか、新たな司書長級能力者か?」
その言葉に室内にいた絶望の一人が口端を吊り上げて獰猛で好戦的な笑みを浮かべる。
金色の双眸を輝かせ、鬣のような髪をなびかせた獣然とした男――「バベル」の言葉が室内に響くと、ヴィマレーナは、沈黙を以てそれを肯定する。
「それだけではないわ」
硬質さを孕んだその言葉と共に画面が移動し、その世界の別の画面――金色の髪をなびかせた美女の姿を映し出す。
「こいつは――っ!」
その言葉に誰からともなく声が零れる。
そこに映し出されていたのは、まぎれもなく幻想図書館副館長の一人、幻想司書「謡」だった。
「馬鹿な! その女は俺が滅ぼしてやったはずだ! 俺の炎で存在ごと焼き尽くしてやったんだ!」
それに最も困惑して声を荒げたのは、鬼火のような燃える瞳を持つ骨と皮だけしかないのではないかと思われるほどの痩身の絶望――「グラファロ」だった。
グラファロにとって、謡はかつて自分が討ち取ったはずの人物。
自身の誉れの証そのものだ。そんな人物が生きているとなれば、グラファロ自身の尊厳にすら関わってくることだった。
「だが、現にこうして生きている」
そんなグラファロを低く抑制された声で紡いだ一言で鎮めたエンデは、画面に映し出された白い幻想司書を眼窩の双眸に捉えたまま言葉を続ける。
「それよりも、問題はこの新しい幻想司書だ」
地の底から響くような声で告げられたエンデの言葉に、その場にいた全ての絶望達が意識を向ける。
「司書長級能力はこの本の世界が我らを滅ぼすために幻想司書に使わす〝力〟。だが、それは逆説的に我等の力が増していることの証明でもある。
我らの元に阿頼耶が生まれたように、奴らも新しい力を得た。――ならば、我等がすることは変わらない。この世界を滅ぼすために行動し続けるのだ」
幻想司書が行使する本の世界の力と、悪夢や絶望が使用する歪みの力は互いに相関関係を持ち、均衡を保っている。
新たな司書長級能力が生まれたということは、増大した歪みの力に対抗するべく本の世界が自衛反応を起こしたのだと推察できる。
幻想図書館の副館長の一角が落ち、多くの幻想司書が滅ぼされたが故に生まれた四番目の司書長級能力。
それはすなわち、かつてないほど力の均衡が大きく歪みの側に傾いてきているということの逆説的な証明でもあった。
「面白ぇ。その白いのは、俺に殺らせろ」
エンデの言葉に、バベルは牙を剥き出しにした獰猛な笑みを浮かべ、戦いの高揚に筋骨隆々とした巨躯を滾らせる。
「いや、俺がやる。もう一度――今度こそ、幻想図書館の副館長ごと、この世界から塵一つ残さず消し去ってやる!」
しかし、そんなバベルの言葉を自分が倒したはずの謡が生きていたことでそのプライドが傷つけられたグラファロが遮る。
「ハッ! テメェは引っ込んでろ! お前が仕留め損ねた女もろとも、俺がぶっ殺してきてやるからよ」
「アァン!? 幻想司書より先にお前を消し炭にしてやってもいいんだぜ?」
獰猛な闘気を迸らせるバベルと紅蓮の炎を纏うグラファロが至近距離で睨み合い、威嚇し合う。
「やってみろよ、蝋燭野郎!」
「後悔するなよ、脳筋馬鹿!」
「やめろ二人とも。お前たちが争い合っても意味はない」
いつ戦いが始まってもおかしくない一触即発の空気を奔らせるバベルとグラファロを、エンデが抑制された声で止める。
「ふふ、お馬鹿な子達」
その様子を見てヴィマレーナが、二人を嘲笑する。
「――チッ」
まだエンデの制止が効く程度には冷静だったバベルとグラファロが苛立ち交じりに舌打ちし、互いに視線を逸らす。
「――……」
しかし、そんなやり取りになど興味がないと言わんばかりに、絶望の一人――「阿頼耶」は、画面に映し出されている白い幻想司書の姿を見て、わずかに口端を吊り上げる。
その心の内が読めない阿頼耶の表情を眼窩の双眸で一瞥したエンデは、漆黒の光沢を持つ骸骨の口をゆっくりと開き、今後の指針となる己の考えを口にするのだった。