p13 新たなる日常の始まり
足柄市の一角にある小さなカフェ「OE」。――金時のアルバイト先でもあるその店では、店主である女性が外の様子を窺っていた
「……収まった?」
(あれは、何だったの?)
軋むような音と共に空に生じた歪み。そして、そこから生まれ落ちた黒い異形
その全てのこの場所から見ていた店主――「天酒瞳子」は、先程前の喧騒が嘘のように感じられる静寂に、恐る恐る外を窺う
異変を感じると同時、逃げようとしていた矢先に何事もなかったかのように静まり返った状況に、瞳子は何が起きたのか理解できずに困惑していた
先程の異常事態を目の当たりにしてしまった所為で静寂が逆に恐怖を煽り、言いようのない不安に襲われるが、周囲には瞳子が話しかけられるような人は誰もいない
「姉さん」
その時、不意に声をかけられた瞳子は、その声の主を見て息を呑む
「……金ちゃん」
金時の姿を見止めるなり、安心感から思わず涙が出そうになるが、年長者としてそんな姿は見せられないと瞳子は、崩れそうになる表情を引き締めて、普段取りの柔和な笑みを浮かべる
「どうしたの?」
ゆっくりと近づいてくる金時を見ていた瞳子は、その顔が険しさを帯びていることに気づいて息を詰まらせる
先程の異常事態も手伝って、何か良くないことがあったのではないかという考えが不意に浮かび、不安が漠然と脳裏を巡るが、うまく言葉として出てこない
「姉さんに、話さないといけないことができたんだ」
そんな瞳子の心中など知る由もなく、互いの距離を十分に詰めた金時は、意を決したような表情で言う
その真剣で、それこそ険しい表情に思わず瞳子は息を呑み、次の言葉が発せられるまでのほんの短い時間が、長く感じられる
「実は、両親が買った宝くじが当たって、借金が無くなったんです」
「そうなの? おめでとう」
数秒が何分にも感じられる、焦れるような間を置いて発せられた金時の言葉に、思わず肩透かしを受けてしまった瞳子は、自分でも気づかない内に気の抜けた声を発していた
想定したあらゆるものと違う話に、きょとんとした表情で目を丸くしている瞳子をまっすぐ見つめ、金時は、自分の中の迷いを振り払うようにして話を切り出す
「それで、もうバイトもしなくていいって言われました。俺の好きなことをしてもいいって」
「そう……うん。残念だけど、金ちゃんはまだ学生なんだし、今までたくさん苦労してきたんだから、一杯楽しいことを見つけないと」
気まずそうに言葉を並べる金時に、瞳子は本心からその幸せを願って優しく微笑みかける
金時は高校生。大人になってきたとはいえ、まだまだ友人と遊んだり恋などもしたい年頃のはずだ。
それらを押し殺し、両親の借金を返済するために苦労してきた金時が自由になったことは、瞳子としては素直に祝福すべきことだ
「でも、たまには店に元気な顔を見せに来てね」
寂しさはあるが、未練がないゆにと微笑む瞳子の言葉を聞いた金時は、覚悟を決めた様子で口を開く
「でも、まだここに来ていいですか?」
「え?」
先程までよりも力強く、張りのある声で言われた瞳子は、一瞬それがどういう意味なのかを理解しあぐねて目を丸くする
虚を突かれ、戸惑う瞳子に対し、金時は畳みかけるように更なる言葉を投げかける
「俺は、まだここで働きたくて……いや――」
そう言う金時の顔はわずかに朱を帯びており、拙いながらも懸命に一途な想いを見る者に伝える力があった
「姉さんと……瞳子さんと一緒にいたくて」
「……!」
金時から告げられた言葉に、思わず息を詰まらせた瞳子は、わずかに顔を赤らめながら視線を彷徨わせる
「それって……」
「ダメ、かな?」
落ち着かない心中を鎮めようとするかのように、髪を弄る瞳子が答えを言い澱んでいると、金時が念を押すように口を開く
赤い顔を隠すこともなく、まっすぐに自分を見つめてくる金時の姿に、真摯な想いを感じ取った瞳子は、観念したように肩を竦め、気恥ずかしさを秘めた笑みを浮かべる
「そんなこと、いきなり言うなんて、金ちゃんはダメね――女性を必要以上に急かすのは感心しません」
「っ」
それを聞いた金時がたじろぐのを見て取った瞳子は、悪戯めいた笑みを浮かべてから優しく微笑む
「でも、金ちゃんの頑張りしだいでは、そのお願いを聞いてあげなくもありません」
「!」
どこか蠱惑的な印象を受ける瞳子の言葉の意味を正しく読み取った金時は、目を輝かせて安堵と期待に彩られた表情を浮かべる
そんな分かり易く素直な金時の反応に、慈しむように目を細めた瞳子は、その額に軽く指で触れて微笑む
「これからも、しっかり働いてね」
「うっす」
ひとまず前向きな保留という形になった告白の成果に、力強く頷く金時に満足気に頷き、その身を翻した瞳子は、ふと思い出したように足を止めて振り向く
「あと、私へのご機嫌とりも忘れずにね」
「もちろん」
唇に人差し指を当て、誘惑するように微笑んだ瞳子の言葉に、金時は喜んで応じる
「じゃあ、俺はまだ行かなきゃいけないところがあるからまた来るよ。あの化け物はもういないから安心してくれ。ひ――姉さんは一人で大丈夫?」
「ええ。おかげさまで」
その言葉に目を細めた瞳子が答えると、金時は安心したように頷いて走り去っていく
弟のように思っていた少年から告白を受け、その後ろ姿を見送った瞳子は、少し前まで自分の中にあった恐怖や不安といった感情が消えていることに気づいて、軽く空を仰ぐ
「まあ、年下の彼っていうのも悪くないかな」
瞳子の口から微笑に混じって零れた小さな言葉は、晴れ間を取り戻した世界の空に吸い込まれ、誰の耳にも届くことなく消えていった
「読真!」
瞳子の元を走り去った金時は、その足で目的地へと向かっていく
そこは、金時にとってかけがえのない友人達と偶然にも出会った思い出の場所――なんの変哲もない、市内の道路だった
そこで適当な電柱にもたれかかるようにして待っていた人物――読真は、金時の声に気付いて身体を起こす
その気ならば、もっと近づくことができるというのに、一メートル以上の距離を置いて立ち止まった金時は、肩で息をしながら読真を見据え、親指を立てて突き出す
「またな! お前も頑張れよ!」
これから、自分が歩いていく新たなる日常に、ひとまず一条の希望が得られたことを伝える金時の言葉に、読真は安堵した様子で応じる
この世界を離れる前に、金時の未来を見届けることができた読真は、それを祝福するように、同じように親指を立てた拳を突き出す
「ああ」
自分の望む日常を手に入れた金時に応援された読真は、その激励に応える
多くを語らずとも、二人の間には今日までの日々で培われた友情があり、不思議と互いの思いを結び付けていた
「じゃあな」
それだけの言葉を交わし、読真と金時は互いに背を向けて離れていく
これから異なる道を歩んで生きていく互いを思いながら、そして、叶うならば、その道がいつかまた交差することを願いながら――
◆◆◆
「この金太郎の世界では、坂田金時と酒呑童子が恋をするようですよ」
その頃、譚は人気のない足柄市の片隅で、空を見上げていた
読真が聞けば、目を丸くしたであろう穏やかな声で語る譚の言葉に、その頭上にいるモノスは、耳のような装飾を軽く揺らす
「ええやないか。ワイはそういうの大好きやで」
人の色恋にときめく帽子の言葉に、肩を竦めた譚は、空を見つめる瞳で遠い過去を思い返す
「――思えば、最初から金時さんは、自覚していないだけで彼女に気があったのかもしれないですね。彼女の店で働いていたのも、金太郎の出典と深い関わりがあったということでしょう」
以前、カフェOEで働いていた金時と瞳子の姿を思い返し、感慨深い声音で独白した譚は、人形のように整った美貌に、一抹の反省の色を浮かべる
その脳裏によぎるのは、恋心を利用する形になってしまった鈴鹿と、自分の目的のために振り回してしまった金時と瞳子のこと。
「彼女には悪いことをしてしまいました。それと、他の方々にも」
この日常の世界を恋愛の世界へと改変しようとしていた当時のことを思い返した譚の言葉に、モノスは耳のような手を組んで小さく頷く
「お嬢に恋心を理解するのはまだまだ早いってことやな――って、すんまへん!」
思わず本心を口にしてしまったモノスは、眼下から向けられる譚の冷たい刃のような視線に、身を竦ませる
そんなモノスの反応に嘆息した譚は、隠れていた建物の影からわずかに顔を出し、読真に背を向けて去っていく金時の後ろ姿を見る
「できることなら、幻想司書や悪夢が関わらない世界で、彼らがどんな日常を過ごすのか見てみたかったですね」
「――せやな」
悪夢に歪められたからこそ生まれたこの世界で言うことは矛盾していると分かっているが、そう願わずにはいられない譚の気持ちに、モノスも同意を示す
それを聞きながら、歩を進めた譚は、次の瞬間には先程まで浮かべていた柔らかな表情を、普段の無機質なものに変え、素知らぬ顔で読真を出迎える
「遅かったですね、読真」
「悪い」
「咎めているわけではありません。――しっかりとお別れはできましたか?」
読真を出迎えた譚は、淡々としているが、どこか柔らかな響きを帯びた声で問いかける
自分に対しては中々に辛辣だというのに、物語の登場人物が絡むと、途端に優しくなる譚に一抹の不満を覚えながらも、もはやそれを受け流す程度の耐性を身に着けている読真は、晴れやかな表情で一つ頷く
「ああ。また、会う約束をしたんだ」
悪夢が消えた以上、歪められたこの世界はやがて消えてしまう
それが分かっていながら、もう二度と再会することのできない友人と別れを交わし、決して消えない友情を胸に宿した読真に、譚は一瞬だけその美貌に影を落とす
「そうですか」
読真には気付くことのできないほどの刹那の時間表情を変えた譚は、普段通りの無機質な声で答える
「なら、帰りまっか、お嬢」
「そうですね」
そのやり取りを見ていたモノスは、譚からの許可を得て、世界を繋ぐ「扉」を開く
「じゃあな」
空中に出現した穴のような光の扉をくぐる譚に続き、読真は別れの言葉を残してこの世界に別れを告げるのだった
扉をくぐると、読真の眼前に広がるのは、宇宙を思わせる無数の光を内包した空間
それらを結ぶ天の川を思わせる繋がりこそが、物語同士――無限に広がり連なる全ての人々の心と意識を結ぶ「知識の道」だ
幻想図書館へ帰還するための知識の道に運ばれる読真は、名残りを惜しむように背後――先程まで滞在していた金太郎の世界を見る
「?」
その時、読真の視界に映ったのは、知識の道の上に佇み、こちらを見送っている黒いローブを纏った人物の姿だった
その姿に目を丸くした読真の瞬きと同時に、その黒いローブの人物は影も形もなく消え去っていた
「どうしました? 読真」
その時、譚に声をかけられた読真は、先程見た黒いローブを纏った人物がいた方向に視線を向け、しばし逡巡してから答えを返す
「なんでもない」
知識の道と共に、読真と譚が幻想図書館へと帰っていくのを、上空から見下ろしている一つの影があった
足元までを隠す黒いローブでその身を覆ったその人物は、知識の道を外れた暗黒の空間に足を着けて佇んでいる
「――……」
読真と譚が消え去った方向へと視線を向けていたローブの人物は、そこから覗く口を釣り上げて不敵な笑みを浮かべる
そして、一言も発することなくその身を翻し、本の世界――知識の道の存在しない暗黒へと姿を消していったのだった