p12 日常の終わり
「これ、まさか……!」
空からなった軋むような音に釣られ、顔を上げた読真は、青天に生じた歪みが黒く巨大な渦となっている様を目の当たりにして声を詰まらせる
見ていると吸い込まれてしまいそうな暗黒の渦を巻くその光景は、読真の記憶の中で見てきたものと同じだった
「そうです。読真、これは物語の完結です」
そして、そんな読真の疑問を肯定するように、譚が抑制した声を発する
「なんだなんだ!? どういうことなんだよこれ!?」
事情を把握している読真と譚とは異なり、天に生じた黒い渦を視界に映した金時は、驚愕を露にして混乱する
それもそのはず。日常の世界であるこの金太郎の世界に生じる現象として、これはあまりにも規格外だろう
金時達から見れば、今目の前で起きている光景はどんな天災よりも恐ろしい世界の終末にもみえるだろう――事実、ある意味ではその通りなのだが
「譚」
「ええ。出てきますよ――悪夢が」
世界の終わりとした思えない光景を前に困惑する金時を横目に空を睨み付けていた読真と譚は、そこから雫のように落ちてくる暗黒色の塊を見て警戒心を募らせる
空に生まれた歪みの黒渦から生じたそれは、空中で膨張すると、その形を変えていく
巨大な球体から手足が生え、菱形の腹掛けをつけた熊頭の巨人を形どる
その手に持った巨大な斧――「鉞」を担いだその熊頭の悪夢は、地面に落下して地響きを起こす
「悪夢……!」
この世界に生まれたことを証明するかのように熊頭の悪夢が上げた咆哮は、まるで産声のようだった
まるで突風に晒されているようなその音圧に踏みとどまって耐える読真は、その視線で熊頭の悪夢を睨み付ける
(なぜこんな……早すぎる!)
一方、その音圧に帽子姿のモノスが飛ばされないように抑えながら耐える譚は、悪夢の姿を見て、双眸に険な光を宿らせる
(確かに私達は最終回イベントを意図して引き起こそうとしました。ですが、今の段階ではまだ完結と呼ぶには状況が足りていないはず――)
この状況は幻想司書としては望ましいが、同時に幻想司書としての譚はこの展開に違和感を覚えていた
譚達の作戦は、最終回イベントを発生させることで物語としての完結を持たない日常系ストーリーであるこの世界――歪められた金太郎に、物語としての終わりをもたらすことだった
その結果こうして悪夢が現れたのは、その目論見が成功したことの証左といえる
だが一方で、物語としての金太郎の完結がこれでいいのかという疑問が残る
確かに、読真との戦いで金時に何らかの心情の変化が起きたことは間違いない。しかし、それだけで物語が完結するとは考えにくい
最低でも、その変わった思想で何を成すか、そして何を成し遂げるのかまでを描いてこその物語の完結であるはずだ
(偶然世界の力が尽きた? ですが、ですがもしこれが偶然でなかったとすれば――)
そう考えた時、可能性として考えられるのは偶然世界の力が尽き、いわゆる打ち切り、終了の条件を満たしたということ
しかし、同時に譚の脳裏には別の――最悪といってもいい可能性がよぎっていた
(まさか、いるというのですか? この世界に、アレが)
その瞬間、巨大な鉞を振り下ろした悪夢が巻き起こした衝撃が周囲一帯を破壊し、その爆風を叩きつける
「……っ」
「お嬢!」
突風のような衝撃によろめいた譚は、頭上から投げかけられるモノスの声に、視線を険しいものへと変える
(ですが、これ以上余計なことを考えている時間はありませんね)
「読真!」
今は余計な懸念に戸惑っている暇はないと判断した譚の声に、すでにその手に正常な異常を顕現させていた読真が答える
「ああ、任せろ」
世界の人々がその存在を認識し、走り去っていく方向とは逆――悪夢へと向けて一歩を踏み出した読真に、金時が焦燥に駆られた声を上げる
「読真、何してるんだよ! 早く逃げないと!」
「いや。逃げるわけにはいかないんだ。お前だけで逃げてくれ」
日常の世界であるが故に、悪夢の出現という非日常を前に天地がひっくり返ったような驚きに見舞われる金時の言葉に静かな声で応じた読真は、その右手に顕現した手甲に光り輝く宝珠を携えた短剣を差し込む
「俺は、あいつを倒すためにここに来たんだ」
それと同時に、短剣の宝珠から流れ込んだ光が手甲を輝かせ、一際眩い輝きと共に読真を純白の衣を纏った姿へと変化させる
正常な異常の真価ともいえる「矛盾形態」へと変化した読真は、身の丈にも及ぶ巨大な大剣を顕現させ、戦闘を前に身体をほぐすように軽く一薙ぎする
「……読真」
「いくぜ!」
矛盾形態を目の当たりにして息を呑む金時を横目に、読真は地を蹴って空中へと舞い上がる
「金時さん。こちらへ」
「あ、あぁ」
それと同時に、譚は空中へと飛翔した読真の姿を見送り、呆然と立ち尽くしている金時の手を引いて建物の影に隠れる
「御心配には及びません。あの化け物はすぐに読真が倒しますから」
「……君たちは、一体何者なんだ?」
金時に分かり易いよう、「化け物」という単語を使って悪夢を表現した譚の言葉に、この世界の主人公たる少年は、困惑した様子で呟く
その問いかけを受けた譚は、正しき歪みの力の化身と化した読真を一瞥し、金時に向けて柔らかな表情で答える
「私達は幻想司書。この世界を終わらせ、世界を救う――あなた達の友人です」
『幻想司書。――オデ達の敵』
地を蹴って軽やかに飛翔した読真を見て取った熊頭の悪夢は、明確な敵意をその双眸に宿し、巨大な鉞を振り下ろす
「オオオッ!」
自身へと迫る最上段からの熊頭の悪夢の一撃に怯むことなく、読真は大剣を振るって正面から迎撃する
高層ビルにも迫る巨躯を持つ熊頭の悪夢から見れば、今の読真は豆粒ほどの大きさ。膂力も質量も圧倒的に悪夢が上回っており、その激突は明らかに読真にとって不利なもの――で、あるはずだった
『な……っ!?』
しかし、鉞の刃と大剣がぶつかったと同時、砕け散ったのは悪夢の武器の方。
硬質な金属音と共に鉞が砕け散り、更にそれによって生じた衝撃は、熊頭の悪夢を数歩後退らせるほどの力を有していた
『オ、オデの武器が……』
砕け散った鉞の柄を見て戦慄し、そのつぶらな瞳に恐怖を浮かべた悪夢は、空中に佇む読真を見据えて声を荒げる
『なんだ、なんなんだお前は!?』
矛盾形態の圧倒的な力に脅威を覚えた熊頭の悪夢に、読真は続けて斬撃を放つ
『ウオオッ!?』
横薙ぎに振るわれた大剣の一撃を大袈裟なほど後方に跳んで回避した熊頭の悪夢は、読真を睨み付けて、歯噛みする
『痛い! 痛い! 痛い! ……よくも、よくもォ!』
それでもその斬撃が掠めたことで胸部に横一文字の傷を刻み付けられた悪夢は、その痛みに悶えながら、つぶらな双眸に怒りを宿す
その激情に任せるように砕け散った鉞の柄を投げ捨てた熊頭の悪夢は、その場で四股を踏む
「……金太郎だから、相撲なのか?」
一踏みごとに地響きを起こす悪夢の四股に、読真は独白する
そんな読真の言葉など気にもかけていない悪夢は、地面に両手をつき、相撲の立ち合いの体勢を取る
『ハッキョイ!』
自分で発した掛け声と共に地を蹴った悪夢の巨躯が飛び出し、さながら隕石のように読真へと向かっていく
そんな熊頭の悪夢の一撃に一瞬目を瞠りながらも、全く臆した様子を見せない読真は、宙に佇んだまま、手にした大剣の柄を握る手に力を込める
切先を下に向けて構えられた白い大剣に、矛盾形態となった読真から正常な歪みの力が注ぎ込まれ、刀身が淡く輝き出す
「これで終わりだ!」
力強い咆哮と共に振り抜かれた大剣が最上段から振り下ろされ、突進してきた熊頭の悪夢を一刀の元に両断する
その斬撃の力は、巨大な悪夢を両断して尚足りないとばかりに、雲はおろか、青い天を二つに斬り分けていた
自身が両断されたことに気づかず、遅れてその事実を熊頭の悪夢が認識した時には、それを合図としたかのように、切断面から白い力の奔流が生じる
正しき歪みの力が、世界を歪める力の結晶たる悪夢の黒い身体を呑み込み、白い世界へと溶かしていく
『ぐあああああああっ!』
読真に両断された熊頭の悪夢は、断末魔の叫びを上げながら、白い力の中にその身体を消滅させる
それを見届けた読真は、まるで刃に付いた露を払うように大剣を一閃し、戦闘の緊張をほぐすように息を吐き出す
「読真! まだ変身を解いてはいけません」
「?」
その時、地上から聞こえてきた譚の鋭い警告に、読真は思わず目を丸くする
どこか鬼気迫っているように聞こえた声に地上を見下ろした読真の視線など意にも介さず、譚は周囲に視線を巡らせて様子を窺う
「……」
「お嬢」
右に左に、全方位に警戒の視線を向けた譚だったが、十秒ほど経って何も起きないことを確かめると、モノスの声に応じるように肩の力を抜く
「――杞憂でしたか」
「どうした、譚?」
何も異常が起きていないのを確認して独白した譚は、傍らに降り立った読真の問いかけに、普段通りの抑揚のない声を返す
「なんでもありません。それよりもどうですか? 読真。矛盾形態の力や変身時間に変化はありませすか?」
「あぁ。多分いつもと同じくらいだな……別に、なにか変わったような気はしないぞ」
普段とは違い、二回矛盾形態に変身することができる歪みを吸収した正常な異常の効果を問われた読真は、自身の身体を見渡して答える
変身する前には分からないが、矛盾形態になれば、その発動時間や能力値を大まかにだが把握することができる
この世界で二度、譚の歪みを喰らい、今日まで一度も矛盾形態にはならなかったが、その二回分の変身時間や能力が得られるわけではないらしいことを感じ取った読真は、率直にそれを伝える
「そうですか。つまり、変身に必要な歪みの力が一度補充されれば、その後どれだけ力を吸収しても、矛盾形態の変身時間も、力の強さも、能力も変わらないということですね?」
「多分」
それを聞いた譚が確認すると、読真は確信はないながらも、ほぼその通りだと頷く
「融通の利かない力ですね」
「悪かったな」
案の定とでもいうべきか、譚の口から飛び出した辛辣な言葉に、読真は唇を尖らせる
「読真」
「金時」
その時、横から声をかけられた読真は、自分をまっすぐに見据えている金時に向かい合う
変身を解除し、普段通りの姿に戻った読真と金時は、どちらからともなく近づき、手を伸ばせば届くほどの距離で向かい合う
「お嬢」
頭上から聞こえてくるモノスの声に沈黙を以って応じた譚は、読真と金時の行く末を見届けようとするかのように、宝石のように澄んだ硬質な眼差しを向ける
そんな譚の視線の先では、読真と向かいあった金時が、何かを口にしようとしては、呑み込んでいた
悪夢の事。読真達の事。――今、金時の中では、聞きたいことが渦を巻いて、思考がまとまり切っていないことが想像できる
何から尋ねるべきか迷っているのか、しばらく口を開いては閉じてを繰り返していた金時は、十数秒ほどの逡巡をおいて、導き出した答えを述べる
「やったな。お前のお陰で助かったよ」
質問ではなく、感謝と称賛――金時が悩んだ果てに選び出した金時の答えに、読真は小さく笑みを零す
「気にすんな」
互いに笑みを浮かべた読真と金時は、拳を合わせて友情を確かめ合う
「お前はこれからどうするんだ?」
「俺達は帰るよ。次に行かなきゃいけないところがあるんだ」
しばらくそうしていた金時が、ふと思いついたように尋ねると、読真はその表情を曇らせて答える
悪夢を倒した以上、幻想司書である読真と譚は、次の物語へと向かわなければならないため、この世界を離れなければならない
そうでなくとも、悪夢の歪みによって作られたこの世界は、いずれ完全に消え去ってしまう
「そうか残念だな。これから、お前や空麻達と色んなことをしたかったのに……また会えるのか?」
詳細は語られずとも、読真のその様子から事情を察した金時は、その別れを惜しみながら答える
「どうかな……難しくなると思う」
もう会えないことを知っている読真は、その事実を胸に秘めて金時の質問に答える
そんな読真の反応を見て取った金時は、なにか感じるものがあったのか、一瞬目を伏せてから、意を決したように口を開く
「読真。なら、最後――帰る前に、少しだけ俺に時間をくれないか?」