p3 日常の世界
足柄市の中にある一般的なマンション――その一室こそが、この世界における読真と譚の拠点だ
基本的に家事をしない譚に代わって朝食を用意した読真は、トーストと少々不格好な目玉焼きをテーブルに乗せて口を開く
「なあ譚、この世界に来てから三日も経ったのになんも動きがないよな。まだこの世界では物語が始まっていないってことなのか?」
「いえ、その可能性も考えましたが、いくら何でも話が動かなすぎます。歪められた物語のプロローグだとしても、あまりにも変化がなさすぎます」
朝食の最中に切り出された仕事の話に、自分の分だけ紅茶をちゃっかりと淹れていた譚は、カップに一口つけてから読真の問いかけに答える
物語の世界は、物語として構築されている。つまり、仮に物語の本筋が始まる前のプロローグ段階で世界に来たとしても、それが助長に――まるで日常生活のように繰り返されることはない
例えばこの物語が敵性宇宙人が襲来する話だったならその兆しがなくてはならないし、異能力ものだったなら、何らかの事件に巻き込まれていなければならない――つまり、この世界の物語は動かな過ぎた。
「じゃあ、どういうことなんだ?」
そんな譚の説明を聞いた読真が怪訝な顔で訊ねると、テーブルの上に鎮座していた耳付帽子――「モノス」が口を開く
「これは、お嬢の悪い予感が的中したかもしれへんな」
「悪い予感?」
モノスから告げられたその不吉な響きを帯びた言葉に息を呑んだ読真が視線を向けると、ティーカップから口を離した譚が神妙な面持ちで切り出す
「良いですか、読真。この世界は私達幻想司書にとって、最も相性の悪い世界である可能性があります」
「相性が悪い?」
紅茶で湿った唇から紡がれる重苦しい気配を乗せた言葉に、読真に緊張が走る
相性が悪いということは、一言で言えば物語を完結に導くのが難しいと言うことを意味することくらいは分かっている読真は、譚の次の言葉を待って顔を強張らせる
「ええ、この世界は〝ノンストーリー系〟の世界である可能性が極めて高いです。――日常系と言い換えてもいいかもしれません」
「日常系? それが相性悪いのか? のんびりしてていいだろ?」
譚が告げた話の内容から受ける軽い印象に、緊張感を以て待ち構えていた読真は、肩に張っていた力を抜いて尋ねる
日常系と言えば平和な安心設計の世界。読真も何作品か見た経験はあるが、命のやり取りをする戦闘がないということは安全な世界であるという印象が強い
「やれやれ」
しかし、そんな読真の意見に対し、譚は辟易としたため息を零して思慮の浅さに呆れ果てた様子を見せる
「なんだよ!?」
「幻想司書の言うところのノンストーリー系――これは、主軸となる物語線が存在しない話の総称です」
自身を小馬鹿にするようなため息に不満を顔に浮かべた読真に、譚はその認識の認識を正すべく口を開く
「?」
「読真にも分かり易い例を挙げると、ちび〇る子ちゃん、サザ〇さん、ク〇ヨンし〇ちゃん、こ〇亀のような話ということです」
「……はぁ?」
「これらの共通点はなんですか?」
譚に問いかけられた読真は、先に提示された無数の著名作品を想像し、連想して自分なりの答えを見出す
「……ご長寿番組?」
「それもありますが、いわば物語を牽引するストーリー――つまり、こうなれば完結するという目標が提示されていないことです」
「あぁ、確かに」
普段なら間違ったことを指摘して冷ややかな言葉の一つでも飛んで来るものだが、それを肯定した上で話を続ける譚に意外感を覚えつつ、読真はその説明に納得する
「一般的な話は、何らかの目標、最終目的を決め、その間に小さなストーリーを挟むことで一本の物語とするものです
たとえば、同じ長編でも、見た目は子供、頭脳は大人な名探偵、一繋ぎの秘宝を探す海賊の物語などは明確にゴールが提示されています
ですが、日常系はそのキャラたちが織りなす日常や何気ない風景を綴った小さな話を積み重ねていくことで物語とする種類であるが故に、終わりがありません」
譚が例として挙げた作品の共通点は、主人公に「~をする」という明確なゴールが用意されていない点にある
その日常を一つ一つ積み重ねることで作られるストーリーは、その日々が続く限り終わることがない
「あ」
譚の言葉でその深刻さを理解した読真の顔から感情が抜け落ちる
ようやくこの物語が持つ問題の意味を理解した読真に、譚は畳みかけるようにして現実を突きつけていく
「この種の話の終わりは、人気低迷、ネタ切れによる打ち切り、何らかの機を測っての円満終了、作者死亡によって続きが刊行できなくなるというような方法しかありません
そして、これらの話はほぼ例外なく、同じ一年を永続的に繰り返す、いわゆる漫画時空が搭載されています。――つまり、この物語は出口のない迷路と同じなのですよ」
「それって、ヤバいじゃん! この物語を終わらせる方法がないってことだろ!? どうするんだよ!?」
譚の宣告を受けた読真は、青褪めた表情で声を上げる
日常系を脱する一つの手段は、学年など環境が切り替わること。しかし、創作物の一年は許される限り永遠に同じ一年を繰り返す
いわゆる漫画時空と称されるそれは、先に譚が提示したご長寿番組全てに共通する事象だ
「落ち着きなさい読真。こういった物語に対する対処法も幻想司書には存在するのです」
物語を終わらせなければ、悪夢が出現せず、歪んだ世界を終わらせることはできない。故にいつまでもこの物語の世界から脱出できないという事実に混乱する読真を、譚は静かな声で制する
一般的に悪夢は物語の世界を滅ぼすことを存在意義としている。故に、悪夢によって歪められた世界は完結のある物語になるのだが、何ごとにも例外は存在する
そして、幻想司書にはこれまでに積み重ねられてきたノウハウが存在し、日常系ストーリーに対する対処方が存在する
「この場合、私達が取る対処法は三つです」
読真に三本の指を見せつけるように示した譚は、その内の一つを折って説明する
「一つは物語が終わるのを待つこと」
「?」
「同じ一年を繰り返すいうても、それは円やなくて螺旋や。同じ一年、同じ行事でも毎年違う行事をこなすやろ? それと同じで世界は一年を繰り返さへん
つまり、この物語の世界は螺旋を描くように徐々に縮小し、やがて世界を構成する力とでもいうべきものが尽きて消滅するんや」
終わらない世界が終わるのを待つという譚の説明に、意味が分からないと眉をひそめた読真に対してモノスが補足を加える
完結のない物語は永遠に続くわけではない。何十年も続く話の時節ネタ――例えばクリスマスなどは一年目と二年目、三年目と違うように
あくまで物語である以上、漫画時空を採用していても変わらない一年はいつか尽きる。このまま待っていれば、いずれ世界が力尽きて消滅することは間違いない
「なるほど……で、具体的にはどれくらいなんだ?」
「さあ? もうすぐなのか、あと一年なのか、数十年、数百年なのか、それは私達には分かりません」
だが、この世界がいつか終わることはわかっても、いつ終わるのかは誰にも分からない。それこそ何十年と続く話があるように、一年を何十、何百と繰り返す可能性が否定できないのが現状だ
「…………」
いつ終わるか分からないという説明に呆然と立ち尽くす読真に対し、譚は二本目の指を折ると共に口を開く
「二つ目は梃入れです」
「てこいれ? ……ってあれだろ? ギャグ漫画とかラブコメがバトル漫画になるみたいな」
それを聞いた読真が、自身の知識と照らし合わせて確認するように尋ねると、譚は小さく首肯して答える
「そうです。読真、あなたにも覚えがあるでしょう? 私達幻想司書は物語に干渉してストーリーに変化をもたらすことができます。
それを利用し、物語の世界に干渉して完結のある物語へと書き換えるのです」
真剣な面持ちで言う譚の言葉に、読真は前回の世界で体験した現象を思い返して息を呑む
幻想司書は歪んだ物語の影響を受けない。だが物語の世界で起こした行動は、物語に影響を与えることができる
使い方を誤れば危険な諸刃の剣ではあるが、それをうまく利用することで物語に完結を作り出すことができるのだ
「この世界観なら、『部活もの』か『恋愛もの』が無難でしょう。高校生の部活の物語なら、目標は全国、途中で敗退しても青春的なイベントさえこなしておけば物語として完結しますし、恋愛ものならそれこそ意中の相手とくっつけてしまえばいいだけですからね」
「なるほど」
世界観が現代であるなら、その二つが最も容易に完結のあるストーリーへと変化させやすいものであるという譚の説明には、読真も同意する
「――で、三つめは?」
ここまでの話を聞いて思案を巡らせた読真は、一向に話を切り出す様子のない譚に最後の一つとなる手段を尋ねる
見れば、最初に三本掲げ、二本まで折っていた指は全て折りたたまれており、譚からはこれ以上の話を続けようという意志が感じられなかった
「……ありません。対処法はこの二つです」
「え? いや、でもお前さっき三つって――」
「先ほど、部活ものと恋愛ものに分けるという話をしたではありませんか。これで三つですよ」
その言葉に疑問を覚える読真に対し、譚は「時間経過」、「部活ものへの梃入れ」、「恋愛ものへの梃入れ」という三つがその方法だと告げる
「嘘つけ。お前がそういうの間違えるはずが――」
「読真」
最初三つだと言った手段を二つで止めた譚に違和感を覚え、追究しようとした読真だったが、鋭さを持つ強い語気がこれ以上の言葉を発することを躊躇わせる
声を荒げたわけではないが、厳しい声音と弧の張りで読真にそれ以上質問することを禁じた譚は、緊張した空気をほぐすように一つ息を吐くと、おもむろに口を開く
「とりあえず、この中でどの方法を取りたいかあなたの意見を聞きましょうか?」
◆◆◆
「……迂闊でした」
「お嬢」
登校時間となり、読真を送り出した譚が小さく独白すると、机の上からその様子を見ていたモノスが声をかける
「つい、素直に三つの方法があることを話してしまうなんて」
「まあ、しゃあない。坊も分かってくれとるやろ」
自身の知識の通り、三つの方法を告げようとして最後の一つを意図的に言わなかった譚の選択に、モノスも一定の理解を示す
「随分と読真を信頼しているのですね」
「そうか? お嬢もそう思っとるんやないか?」
それを聞いた譚が淡泊な声で言うと、モノスは訳知り顔で語りかける
まるで自分の心を見透かしたかのように不敵な笑みが含ませられたモノスの口調が気に障ったのか、わずかに眉根を寄せた譚は無言のまま距離を詰めると、白い帽子をむんずと掴み上げる
「行きますよ。読真一人では心配ですから」
「はいよ」
耳の付いた帽子の姿をしたモノスを八つ当たり気味に被り、幻想司書としての姿になった譚は、先に行った読真を追って部屋を出る
(いずれにせよ、必要に迫られたなら……私も決断を下す必要があるのかもしれません)
人形のように整った無機質な美貌をわずかに強張らせる譚は、心の中で最悪の可能性を論じながら幻想司書として、の物語の世界へと挑むべく歩を進めるのだった