p5 幻想司書への誘い
幻想司書は、世界の意識そのものであるこの本の世界を守護する存在。――故に、その長を務める者は、本の世界を司る者であり、この幻想図書館の主でもある
(この人が、幻想司書の……)
幻想の楽園を体現したかのようなライムグリーンの髪を揺らし、微笑む幻想図書館館長――「神話」を前に、その神々しいまでの存在感に呑まれてしまっている読真は、息を呑んでその姿に心を奪われる
窓から差し込む陽光を受けてまるで輝いているかのような存在感を放つ神話は、可憐で慎ましやかな笑みを浮かべると、その花のような唇から清流のように澄んだ声で言葉を紡ぎ出す
「とりあえず、ここにいるメンバーを紹介させてもらいますね。そちらのクマさんは私の秘書の『ファブラ』さん。それと――」
視線で巨大なクマのぬいぐるみ――ファブラを示した神話は、次いで読真の意識を引きつけながら、この机に置かれたもう一つの机に座っている黒髪の男性に向ける
巨大なクマと神話の美しさに気を取られて気づかなかったが、この部屋には館長が座っている机を上座にして、「コ」の字になるようにあと二つの机が置かれている。
一つの机は空席だが、もう一つの机には端正な顔立ちに鋭い視線を備えた侍のような雰囲気を感じさせる三十代ほどの男性が座っていた
「幻想図書館副館長『御伽』さんです」
「……御伽だ」
(なんか、とっつきづらそうな人……)
厳格、孤高という印象を受ける幻想図書館副館長――御伽は、見た目だけで言えば、最年長と見紛うばかりの雰囲気を纏って悠然と座しており、読真は内心で一歩距離を取りながら頭を下げる
「突然のことで驚いておられるでしょう?」
読真の言葉に、御伽が無言のまま黙礼を返したのを見届けた神話は、椅子に腰をおろして優しい声音で語りかける
「えっと、まあ……」
女神のような微笑みを浮かべる神話の言葉に、読真は顔を赤らめながら応じる
(なんか、この人見てると胸がドキドキする……)
自分の意に反して高鳴る鼓動を感じながら、懸命に平静を装う読真とは裏腹に、その微笑を崩す事無く神話は穏やかなく口調で語りかける
「譚ちゃんからはどのくらい話を聞いていますか?」
「え、えっと、この世界の事とか、俺を幻想司書にするとかくらい、です……」
ここに来る前に譚から聞いた説明を思い出しながら応じた読真の言葉に、神話は静かに微笑んでその視線を小さな幻想司書の少女に移す
「そうですか、基本的な事はちゃんと教えてくださっているようで安心しました。譚ちゃんの事ですから、何も言わずにここに連れて来たのではないかと心配していたのですよ
もっとも、入口のところでなにやら話し込んでいたようですので、多少は説明してくれているとは思っていましたが」
語りを見て微笑む神話の言葉に、読真は心の中で小さく独白する
(お見通しってわけか)
実際、譚の頭に乗っている喋る帽子――モノスが説明してくれなければ、何も知らないままここまで連れてこられたであろう事が想像に難くない読真は内心でしみじみとそれを感じながら、勝ち誇ったような視線を小さな幻想司書の少女に向ける
「館長、私はこれで……」
「だめです」
そんな読真の視線に気づいたのか、その場で身を翻そうとした譚を神話の静かな声が引きとめる
「……何故ですか?」
自分の用事はすみましたとばかりの雰囲気を発して怪訝そうに問いかける譚に、神話は満面の笑みを浮かべる
「読真さんには、あなたとコンビを組んでいただくからですよ」
「はい?」
楽しそうに断言した神話に、読真と譚の声の困惑と動揺の声が重なる
「聞いていないのですが?」
「だって、それを言ったら、譚ちゃんは彼を連れてこなかったでしょうから。一応『モノリス』には言ってありますよ」
不満をありありと示しながらも、上司相手だからなのか棘の小さい譚の言葉に、神話は悪びれた様子もなく微笑んで応じる
「モノス……」
「堪忍な、お嬢」
譚が鋭い声を向けると、その頭上に鎮座している帽子はとりあえず謝罪の言葉を述べるが、その声音には普段のうっぷんを晴らせたらしい清々しさが宿っていることを読真はうっすらと気づいていた
「……まあ、いいでしょう。ところで館長。何故私が、これとコンビを組まなければいけないのですか?」
これ以上の言い争いは無駄だと判断したのか、譚はその場で小さく嘆息してから、満面の笑みを浮かべている神話に視線を向ける
「彼は何もわからない新人ですよ? 教育係は必要です」
「何を当たり前のことを?」と言わんばかりの神話の言葉に、譚はわずかに眉をひそめ、その無機質な表情に小さな苛立ちを浮かべて問いかける
「ですから、何故それが私なのですか、とお尋ねしています」
「幻想司書は二人から三人のチームで行動するのが基本ですよ? 今は譚ちゃんは余ってしまっているではありませんか」
(へぇ、そうなんだ……)
淑やかな笑みを浮かべる神話と不満を露にする譚のやり取りを横目に、読真は内心で感嘆の声を漏らす
「それに……」
静かに言葉を区切って譚を見つめた神話は、その目元を優しく綻ばせて花のような笑みを浮かべる
「今のあなたには、見習いでも戦力が必要ですから」
「……っ!」
にこやかな口調で話しながらも、有無を言わさない神話の言葉に、譚はその瞳に剣呑な色を浮かべて押し黙る
「?」
二人の会話の意図を正確には理解できずとも、あれだけ辛辣な言葉を自分に向けていた譚が沈黙していることに内心で驚きを禁じ得ない読真は、同時に二人の間に一瞬流れた険悪な雰囲気に首を傾げる
「異論はありませんね?」
「拒否権は?」
「ありません」
神話の確認の言葉に、譚が問いかけると、それを受けた幻想司書を束ねる長である絶世の美女は淑やかな笑みを返す
「……なら、承諾せざるをえません」
神話の言葉に、不満を滲ませながらも渋々承認した譚を横目に、読真は内心で辟易としたため息をついてその様子を観察する
(なんか、色々ありそうだな……)
「さて、では本題に入らせていただきまね」
微塵もその微笑を崩さず、そう言って場を仕切り直した神話は読真へと向き直ってその絶世の美貌から真剣な眼差しを送る
「読真さんには、これから幻想司書になってもらって、譚ちゃんと一緒に悪夢を討伐してもらいます」
力強く言い放った神話の言葉に、室内に一瞬の静寂が訪れる
「えっと、それは聞いているんですけど……?」
神話の口から放たれたかなりいい加減な説明に、読真は困惑した表情を浮かべて応じる
この本の世界――人間の意識そのものであるこの世界を歪めてしまう悪夢という存在を倒し、この世界と人々を守るのが幻想司書ということは、既に譚とモノスから説明を受けている
もっと詳しい説明などがあるのだと内心で身構えていた分、それを外された衝撃は大きなものがあり、読真は困惑を隠しきれない様子で女神のような微笑を浮かべる神話に視線を向ける
「ですが、それ以外にありませんし……細かい事は譚ちゃんに聞いてください」
(この人も、結構いい加減だな……)
自分の言葉に花のような唇に指先を当て、思案を巡らせながら応じた神話に、読真はついさっきまで譚と行っていたやり取りを思い返して、疲れた様子で肩を落とす
「……あの、じゃあ一つ聞いてもいいですか?」
どうやらこれ以上の収穫がえられなさそうだと判断した読真は、頭痛を堪えているような表情で、ずっと気になっていた事を問いかける
「はい、何でしょう?」
「自分で言うのもなんですけど、俺は特に取り得のない普通の人間ですよ? 俺なんかが、その幻想司書ってやつをやれるんですか?」
それは、譚に話を聞いた時からずっと感じていた疑問。なぜ、どこにでもいる平々凡々な日本人でしかない自分が幻想司書に選ばれたのかという事だった
譚は「幻想司書としての適性がある」と言っていたが、正直読真自身、自分がそれほどの力を持っているとは到底思えない
「大丈夫です。これはあなたにしかできない事ですから」
しかし、そんな読真の不安を払拭するように微笑んだ神話は、その透き通った金色の瞳で真っ直ぐにその姿を見据え、優しい口調で語りかける
「幻想司書の資格を持つ者を、私達は『意識的特異点』と呼んでいます」
「意識的、特異点……?」
初めて聞く言葉に首を傾げた読真に、「はい」と淑やかな肯定の言葉を向けた神話は、そのまま呆けたような表情をしている新人の幻想司書に優しく言葉を続ける
「この本の世界は意識と心の世界。世界に満ちる心そのもの――故に、この世界の変革は心の編纂に等しいのです」
粛々と言葉を紡いでいく神話の言葉は、その人並み外れた美貌も相まってさながら神の啓示のように読真の心に染みわたり、その意識に直接訴えかけるように入り込んでくる
「幻想司書の資質――意識的特異点とは、つまりこの意識改変の異常を受けない人物の事です。悪夢によって歪められた世界は、そこに入り込んだ者までもその世界に取り込んでしまう力を持っています
つまり、その世界を悪夢から解放するためには、その世界の編纂の影響を受けないという特性が必須となるのです」
「……!」
幻想司書の資質――「意識的特異点」とは、世界の編纂に影響を受けない特性。悪夢によって侵食された世界は、その中にいるもの、存在する全てをその歪みの中に呑み込み、世界の一部として取り込んでしまう
しかし、意識的特異点と呼ばれる者はその影響を受けないため、悪夢によって編纂された世界に取り込まれる事無く、人の心を守るという職務をまっとうすることができる
「そして、幻想司書になれるほどの意識的特異点は極稀にしか誕生しません。ですから、その資質を持つあなたは、それだけで幻想司書となる資格を有しているのです」
読真を見据え、優しく、しかし澱みの無い強い視線で語りかけた神話は、そこで話を一旦区切ると小さく息をついてから、その声音を静かなものに変える
「ですが、確かに意識的特異点は資格があるという事です。それと志は別のものでもありますね……私達の勝手で来ていただいて、このような事を申し上げるのは心苦しいのですが、あなたの意志を確認させてください」
確かに、意識的特異点はあくまでも幻想司書の資格があるという事にすぎない。しかし、資格があるのと志があるというのが同義ではないのも事実だ
「館長」
不意に神話の口から紡がれた言葉に、沈黙を守っていたファブラが、わずかに動揺の色をにじませた声を上げる
確かに読真を無理矢理この世界に連れて来たのは事実だが、それは読真一人の命と、悪夢によって危機に瀕しているこの世界――引いては、それによって影響を受ける現実世界を天秤にかけた結果だ。
仕方がないなどという言葉で終わらせるつもりはないが、これが苦渋の決断だった事を知っているファブラ達幻想司書が神話の言葉に動揺を禁じ得なかったのも無理はない
しかし、そんなファブラ達の懸念を軽く首を振って振り払った神話は、読真を真っ直ぐに見つめて穏やかな声と共に微笑を向ける
「もし、あなたが幻想司書になる事を拒まれるのであれば、強制はいたしません。あなたが望まれるのであれば、再びあなたに命を与え、元の世界に戻っていただけます」
「神話……っ!」
神話の言葉に、初めて副館長である御伽が声を発する
低く抑制された声は、神話の不用意な発言を咎める者であると同時に、それ以上のただならぬ何かを感じさせる、鋭さに彩られている
「……?」
神話の言葉に、この場にいる全員が息を呑んだのを感じ取った読真は、淑やかに微笑んでいる幻想司書の長に恐る恐る問いかける
「そんなことできるんですか?」
「はい」
読真の問いかけに、神話はまるで必要以上の情報を開示する事を拒むかのように、何のいい訳も説明もせずに事実だけを簡潔に口にする
譚は生者はこの世界に入れないと言っていた。つまり、今自分が死んでいるという事は読真も理解している
死者となった自分を蘇らせられるというのは、にわかにはとても信じ難いことだが、ここが自分のしる世界ではないのなら、それが可能であるという一抹の希望を感じさせるのには十分な可能性を孕んでいることも読真には分かっていた
「いいのですよ、御伽さん。これはこの世界を守るという職務を全うできないわたくしの愚かさと無能さが招いた事態なのですから」
御伽の言葉に優しく目元を綻ばせた神話は、幻想図書館副館長である御伽の正面に置かれた空席になっている机に一瞬だけ視線を向けると、読真に視線を向けて優しく語りかける
「こちらの事情はこちらの事情です。難しい事かも知れませんが、わたくしや、この世界に気を使わず、読真さん自身の心の命じるままに、あなたの率直な思いを応えて下さい」
先ほどのやり取りを見てしまえば、全く無下にする事は出来なくなってしまっているだろうと気遣いつつ、神話は読真の眼を真っ直ぐに見据え、真摯に問いかける
まるで心の奥底まで見透かすような神話の視線は、読真に素直な気持ちを言葉にしてくれる事を要求し、それに答える覚悟と配慮が浮かんでいた
「……はい」
神話の視線と言葉に半ば無意識のうちに小さく頷いた読真に、その場にいた全員がその答えに神経を張り詰めるようにして耳を澄ます
「では、聞かせて下さい」
読真の偽りのない答えを求めるため、神話は静かで厳かな声音で言葉を紡ぎ、ゆっくりとした口調で問いかける
「――あなたの答えを」