p4 幻想図書館(ビブリオリウム)
「幻想図書館」とは、幻想司書の本拠地にして、この本の世界と人間の意識の境界に存在する「最も現実に近い空想空間」に存在する世界そのものの名称だ。
古今東西の建造方法が織り合わさり、しかし何の違和感もなく調和して佇むその巨体建造物は、城のようでもあり、博物館をも彷彿とさせる形状をしている
その敷地に入る前にそびえ立っている巨大な門は、重厚ながら荘厳で、どこか神々しささえ感じられる居住まいを醸し出しており、この先にある建物――幻想図書館がそれだけ尊い場所であると無言で語りかけているかのようだった
その重厚な扉は、読真を引き連れた譚が歩み寄ると、その大きさや質感が感じられないほど小さな音で両側に大きく開く。その姿は、本拠地へと帰還した幻想司書と客人を、抱きしめようとしているかのようにさえ見える
「結構レトロな建築なのに自動ドアなのか」
「はぁ……」
自動で開いた幻想図書館の門扉に読真が感心して呟くと、譚はその言葉に何か思う事があるように溜息をつく
「な、何だよ!?」
「いえ、何でも……」
読真の言葉を軽く聞き流した譚は、淡々とした歩調で門をくぐり、幻想図書館の敷地内へと足を踏み入れる
門の向こう側に広がっていたのは、広大な庭園。木々と花々が咲き誇り、調和した緑で埋め尽くされた庭は、目の前にそびえ立つ教会の如き荘厳な城を彩り、その品格をさらに高めている。
「この庭、どんだけ広いんだ?」
感嘆の声を漏らしながら、読真は歩幅が違うために譚との距離が詰まり過ぎそうになるのを時折調節しつつ、門から本館まで続く数十メートル近い一本道を歩く
「メッチャ広いでぇ」
無論、そんな読真の独白に譚が懇切丁寧に答える筈もなく、代わりにと言う訳ではないが、モノスの軽快な声がそれに答える。
「おぉ!」
譚という共通の面倒に接している事で、この短時間で二人の間に小さな共感が生まれつつあるのだが、当の本人である小さな幻想司書は、そんなことなど意にも介さず無言のまま歩を進める
門から本館の扉まではほんの数十メートル。こんな他愛もないやり取りをしていれば、すぐにでも到着してしまう距離だ
本館の扉も門のそれに負けず劣らず重厚な木造りの貫禄のあるものではあるが、見上げんばかりの巨大な扉だった門とは違い、本館の扉はいわゆる普通の大きさで、巨大な城から見るとあまりにも小さく見える
(まあ、入り口が無駄に大きい必要は無いか……)
扉の大きさから見ると、幻想図書館がいかに巨大な建造物であるかが一目瞭然だ。読真が「こんなに大きい必要があるのか」と内心で考えていると、譚の存在を感知したかのように、その扉が門と同じようにほとんど無音で開く。
「おお……ここもすっげぇ広いな」
「すごいやろ、坊」
譚に続いてビブリオリウムへ入った読真が、感嘆の声を上げると、その頭上でモノスが我がことのように胸を張って自慢するう
幻想図書館の中は、教会のように開けた広大な作りになっており、神殿のような厳かさを持ったエントランスをステンドグラスと豪華なシャンデリアが照らし出している
床一面には真紅のカーペットが敷き詰められており、この空間をみるだけでも庶民に過ぎない読真を気後れさせるには十分な豪華さを演出していた
「なんか場違いな感じだ」
「そうですね」
思わず声を漏らした読真の言葉に、譚は淡々と応じる
「肯定するなよ」
「こっちです」
読真の抗議をいつものように聞き流した譚は、声だけを向けて広い空間に足音を反響させながら淡々を歩を進める
足音が反響する巨大なエントランスを譚の小さな背について歩く読真は、好奇心と驚嘆の入り混じった視線で周囲を見回しながら、ふと感じた違和感に首を傾げる
「そういえば、こんなに広い場所なのに、全然人がいないんだな」
見渡すほどに広いにも関わらず、幻想図書館内――さらにいえば、この「本の世界」と呼ばれる場所に来てから、譚と自分以外の人間を見ていない
さすがにここまで来ると、読真もある程度の冷静さを取り戻しており、自身を取り巻くこの違和感に満ちた環境に、漠然とした不安と疑念を抱かざるを得なかった
「驚きましたね。あなたがそれに気付くなんて」
そんな読真の疑念に、前を歩く譚は視線を向ける事もせずに感情の全くこもっていない声で淡々と無感動に称賛しつつ小馬鹿にする
「へっへぇ~んだ。つーか、一目見りゃ分かるだろ?」
(坊、馬鹿にされとるで?)
半分適当にあしらわれ、半分馬鹿にされているというのに、読真はそれに気づいていない様子で得意気に胸を張る
「俺だって馬鹿じゃないんだぜ」と鼻高々にアピールする読真だが、それが既に駄目なのだと全く気付いていない
「でしょうね。もし本気で言っているなら、あなたを馬鹿以下だと本気で認識するところだったのですが……残念です」
「…………」
感情の読み取れない譚から向けられた、変調のない言葉に読真は渋い顔を浮かべる
「言ったでしょう? 忙しい、と。今、幻想図書館はあなた如きの手も借りたいほど忙しいのです」
背後で憎々しげに表情を歪めている読真に気づいていながら、それを完全に無視する譚は、皮肉混じりに淡々とした口調で語る
「そんなに忙しいのか?」
もう何を言っても無駄だと半ばあきらめの境地に達している読真は、沸々と湧き上がっている怒りとストレスを抑え込み、渋い表情で問いかける
「ええ。幻想司書は、館長と二人の副館長を合わせて百八名と決まっているのですが、最近の異常で次々に殉職し、今では五十名を割ってしまっています」
「ちょっと待った」
「なんですか?」
こともなげに、さらりと言い放たれた譚のとんでもない言葉に、読真の全身から嫌な汗が噴き出す
「……殉職?」
いかに読真と言えど、その程度の言葉は理解している。殉職――つまり、職務執行中に命を落とすという事だ
殺されたと思ったら生きていて、生きていたと思ったら死んでいて、さらに死ぬかもしれないという状況に立たされそうになっている事に顔を青褪めさせる読真に、譚は背を向けたまま淡々とした口調で応じる
「あぁ、言っていませんでしたね。死んだからもう死なないなんて思ったら大間違いですよ? 確かに私達は情報生命体とも呼べる存在で、人間とは一線を画すものになっていますが、ナイトメアは意識を破壊する存在。その力の前には幻想司書といえど命を落とします」
この本の世界に入れるのは、意識体――つまり魂の状態になった、幻想司書の適性がある者に限られる。故に幻想司書とは永遠の命を持つ存在だ。確かに通常の人間と同じ方法では滅多に死なない。
しかし、だからと言って不死身というわけでもない。特に悪夢は、世界の意識を歪め、破壊していしまう存在。魂そのものの身体である幻想司書を殺す力を十分に有しているのだ
「そういう意味じゃなくて、そんなに危険なお仕事なんですか?」
「先輩に対し、敬語を使う。――殊勝な心がけですね。少し見直しましたよ」
自身の何度目になるか分からない死の危険を感じ取り、青褪めた表情と無意識の敬語で話しかける読真に譚は満足気な声で応じる
「いや、そうではなくて……」
その言葉と同時に、歩を止め、辿りついた扉の前で身を翻して読真に向き直った譚は、意味深な微笑を浮かべる
「……それなりです。まあ、すぐに分かりますよ。幻想司書見習いの本屋読真さん」
「帰らせて下さい」
譚の笑みに背筋を撫でる不気味な恐怖を感じ取った読真だったが、そんな事を許すはずもなく小さな幻想司書の少女は、その背後にゆっくりと回り込む
「往生際が悪いですね。あなたには帰る場所などありませんよ――」
同時に譚が背を向けていた扉が開き、そこに小さな部屋が出現する
開いた扉の中に見えるエレベーターの個室へと読真を突き飛ばすように押し込み、譚は静かに淡々とした口調で語りかける
「ここ以外には」
(イヤァアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!)
その不敵な譚の笑みを目の当たりにした読真は、声にならない声で心の中で断末魔の悲鳴を上げるのだった
「着きましたよ」
その場で崩れ落ちた読真が感傷に浸る間もなく、エレベーターはすぐさま目的地に到着し、聞き慣れた到着音と共にその扉を開く
「このエレベーターは、館長室への直通です。他の階には止まりませんので、意外と快適なんですよ」
これまで無視を決め込んでいた譚が、求められてもいないのに説明をするのはもちろん読真への嫌がらせだ
自分よりも頭一つは背が高い読真を、襟首を掴んで事も無げに引きずり出した譚は、エレベーターの真正面にある素朴で重厚ながら、威圧感を感じさせる扉の前で居住まいを正す
「とりあえず、礼儀はしっかりとして下さいね」
「うぅ……」
(帰りたい、マジ帰りたいっす……これ、拒否したらどうなるんだ? 結局死んでるんだから、あの世に行くのか?)
「館長室」と書かれたプレートが掲げられた扉の前で肩を落として項垂れる読真を横目に、譚はその扉を三度ノックする
「はい」
その声に応じた渋く味のある男性の声に、譚は静かに応じる
(男の人の声……これが、館長って人か……声は渋いけど、怖い人だったらどうしよう……)
「譚です。例の少年をお連れしました」
「入れ」
読真の不安など意にも介さず、譚は室内からの声に応じて金色のドアノブに手をかけて扉を開く
「お待ちしておりました」
開かれた扉の向こうには、二人を出迎えるように一人の人物が立っていた
身の丈二メートルはあろうかという巨大なその人物は、読真と譚の視界を埋め尽くし、紳士然とした様子で佇んでいる。
執事服を思わせる漆黒の衣に身を包み、漆黒のビーズのようなつぶらな目で二人を見下ろすのは、どこかで見たことがある気がする熊のぬいぐるみだった
「熊じゃんっ!!!」
どこからどう見ても巨大な熊のぬいぐるみを前に、読真は思わず声を上げる
「え、この人……人!? が館長なの!?」
「そんな訳ないでしょう。阿呆なんですか、あなたは」
巨大な熊のぬいぐるみと、譚を交互に見て混乱した様子で問いかける読真に、小さな幻想司書は呆れた声で冷ややかな視線を向ける
「そんな訳、ないですか……」
譚の言葉に、がっくりと肩を落とした熊のぬいぐるみは、そのビーズのようなつぶらな瞳に心なしか一抹の寂しさを漂わせて、渋く味のある声で独白する
「あぁ! クマさんが落ち込んだ!」
「大丈夫や、ファブラはん! ワイはあんさんの味方やで!!」
その姿を見て読真とモノスが励ましの言葉とフォローを加える
「ふふ……」
その時、堪え切れなかったかのように漏れてきた女性の微笑が、全員の意識を奪いさる
譚の声ではない。大人びた澄んだ声は、まるで春の風のように耳の奥に優しく届き、すさんだ心さえも瞬く間に癒してくれるかのような慈愛に満ちた響きを伴っている
「……っ!」
その声につられるように、その方向へ視線を向けた読真はそこにいた人物の姿を視界に収めた瞬間、まるで時間が留まってしまったかのように思考と身体の全てが凍りつく
(すっげ~美人)
読真の視線の先――クマのぬいぐるみの奥に見える質素だが重厚な貫禄を感じさせる机に豪華な装飾が施された椅子に座っていたのは、目も覚めるような絶世の美女だった。
譚と同じ白い制服に身を包み、金細工の髪飾りで彩られたライムグリーンの長髪は、まるで新緑が芽吹いた森のよう。
雪のように白い肌に、淡い紅でほんのりと彩られた唇がまるで草原に咲く一輪の花を彷彿とさせ、全てを見透かすかのように輝く透き通った金色の瞳には深い慈愛の色を宿している
まるで金色の太陽を思わせる瞳で読真を見据えて微笑むその女性は、幻想的で神秘的な雰囲気を宿しており、さながら本から抜け出した女神と言った表現すら過剰ではない絶世の美女だった
「面白いお方ですね」
まるで神話に語られるような女神様か、お伽噺のお姫様を想像させる思わず美女に思わず見惚れていた読真を、譚の冷ややかな声が現実に引き戻す
「鼻の舌が伸びていますよ」
「――っ」
慌てて表情を引き締めた読真の横をからゆっくりと前に歩み出た譚は、机に腰掛けて微笑む絶世の美女に向かって淡々とした口調で語りかける
「面白いのではありません、館長。滑稽なのです」
「おいコラ」
「ふふ……」
譚と読真のやり取りを見て目元を綻ばせた美女は、その場でゆっくりと立ち上がって淑やかに微笑みかける
「はじめまして、わたくしは、幻想図書館館長、そして幻想司書の長を務めさせていただいている『神話』と申す者です」
胸に手を添え、軽く一礼した神話の姿は、まるでこの世のものとは思えない程の神々しさを纏っており、読真はその尊く触れ難いほどの存在に呑まれ、言葉と心を奪われてしまう
「よろしくお願いしますね、本屋読真さん」
見た事もない様な美女を前に茫然と立ち尽くす読真と視線を交わした神話は、その目元を優しく綻ばせ慈愛に満ちた聖母のような笑顔で語りかけるのだった