p9 襲撃
「話……?」
愛理を家へと送り届けた帰り道に突如現れた帽死屋の口から発せられた言葉に読真が訝しげに眉を顰める傍らで、銀銃を構えた譚はその眉を顰めていた
(あまり、芳しい状況とは言えませんね)
引き金に指をかけ、銃口を向ける帽死屋を見据えた譚が渋い表情を浮かべる頭上で、モノスも現状に不安を抱いていた
(幻想司書が、物語の世界に必要以上に干渉するのは危険なやからな)
今回、明らかに帽死屋は読真と譚に接触を図ってきている。それは、二人がこの歪められた「不思議の国のアリス」の世界に認識され、取り込まれてしまったことの証左でもある
幻想司書は歪められた物語の世界の外側の存在。それが関わりを持ちすぎて物語の一部になってしまうと、物語自体に大きな改変が起きてしまう可能性がある
そのため、物語の世界に影響を与える様な干渉は、幻想司書として可能な限り避けることを推奨されていることだった
「ええ。その前に一つ確かめたいのですが、あなた方は『ハンプティ・ダンプティ』と関係があるのですか?」
その鋭い双眸を、更に険を帯びさせた帽死屋の感情の抜け落ちた冷淡な言葉に、読真は怪訝そうに眉を顰める
「ハンプ? なんだそれ?」
(「ハンプティ・ダンプティ」……マザー・グースの一説に登場する〝擬人化された卵〟。「ジャバウォック」といい、どうやらこの世界では、鏡の国のアリスが強めに物語の表層に顕在化しているようですね)
知識の浅さもあって、本当にハンプティ・ダンプティを知らない読真とは違い、譚はその知識と物語の世界の共通項を見抜いて目を細める
(――いえ。まさかこの世界は、「不思議の国」と「鏡の国」を一つの物語として定義した世界?)
物語の中には、アリスのように続編が作られたり、一巻から~巻、あるいは同タイトルでサブタイトルが違う等の形でナンバリングされたものも多い
歪められた世界では、それらを別の本として扱ったり、一つの物語として扱われることもある。この世界が不思議の国と鏡の国、二つのアリスを一つの物語として綴った世界である可能性は少なくない
「いえ。ご存知ではなく、無関係ならばいいのですよ」
そんな二人の様子を見比べ、そう結論付けた帽死屋は、不敵に笑って話を区切ると、その鋭利な双眸で読真と譚を見据えて、その声音から感情を消失させる
「ええ。実は、これ以上あなた達のようなイレギュラーに、選定の儀を乱されては困ってしまうのですよ。
「お嬢!」
静かに響いた帽死屋の声と共に、周囲の夜景がざわめくと、譚に頭に乗っていたモノスが鋭い警戒の声を発する
「読真!」
その言葉で事態を察した譚が、隣にいる読真に声をかけながら背後を振り向く
振り向きざまに引き金を引き、乾いた音と共に放たれた銀銃の弾丸は、宵落ちの闇の中から風迅のように現れたそれが、軽やかに回避して肉薄してくる
「!」
瞬時に迫ってきたそれに、反射艇に正常な異常を顕現させた読真がそれを構えると同時、最上段から振り下ろされた斬撃が、その刃に叩き付けられる
「ぐ……っ!」
まるで鉛の塊を叩き付けられたような衝撃が刃から伝わり、その威力に苦悶の表情を浮かべた読真の瞳に、その一撃を放った人物の姿が映り込む
紺色の軍服に身を包み、側頭部から垂れる長い耳。長い髪を揺らめかせる凛とした美麗な面差しを浮かべたその姿を見止めた読真は、思わず息を呑んでいた
(女……?)
軍服に身を包んだその女性の姿に一瞬目を奪われた読真の眼前で、その刃を受け止めた正常な異常の刃がその能力を発揮し、その歪みの力を食いつくさんと暴れる
「なっ!?」
その力を間近で感じ取り、本能的な恐怖を覚えた軍服の兎耳麗人は、弾かれたように後方へと飛びずさってその力の残滓に軋む軍刀の刃を一瞥する
「なるほど、これが〝王〟を退けた力か……確かに厄介だな」
その力が何なのかは判然としなかったようだが、この世界に染み渡った歪みそのものを吸収する正常な異常に、形容しがたい畏怖を抱いたらしい軍服の女は、その怜悧な瞳に宿る眼光を一層鋭くする
正常な異常が吸収しているのは、この世界を歪めている悪夢の力。それは、この世界にある力とは別種のものだ
一見力を吸収しているようにも、そこにある空間を呑み込んでいるようにも見える。あのまま接触し続けていれば、軍服の女の存在そのものを取り込んだその力は、この物語すべての法則を外れた異質な力そのものだった
「力を吸収したわけでもないみたいだが」
「っ!」
その時、横から聞こえた低い男の声に反射的に銃口を向けた譚は、電信柱の影に潜むようにして佇む一人の男がを捉える
青みがかった髪に黒いメッシュが入ったその男は、読真よりも一回り背が高く、毛皮のついたコートに身を包んだ二十歳前後のどこかミステリアスな雰囲気を纏った青年だった
薄暗くなってきた街の闇で輝く宝石のような瑠璃色の瞳に、縦に長い漆黒の瞳孔が特に目を引くその青年は、傍らから読真と譚を舐めるように観察していた
「おっと」
その姿を捉えた譚は銃弾を見舞うが、その男は軽やかに宙を舞ってそれを回避し、距離を取っていた軍服の女の隣へと降り立つ
「――……」
それを見届けた譚は、小さく舌打ちをするとその視線を、さりげなく読真――その手に握れた短剣の宝玉へと移す
読真の手に握られた短剣の柄に嵌め込まれた宝珠は輝きを失ってしまっており、くすんでいるような色合いの曇った珠になっていた
(先程変身で使ってしまったために、歪みの力のストックが失われてしまっている……矛盾形態になるにはまだ足りませんね)
読真の幻想心器である「正常な異常」は、短剣にため込んだ悪夢の歪みの力を使って矛盾形態へと変化する力を持っている
だが、この矛盾形態になるためには、宝珠が輝くまで歪みの力を溜めねばならず、一度使うと今まで溜めた分すべて消費され、もう一度最初から集めなけれなならなくなることは事前に検証してあった
(二対一、それもこの強さだと、変身なしで戦うのは厳しいですね)
軍服の女と、青髪の男からおおよその強さを感じとった譚は、冷な状況判断から現状が少々芳しくないことを感じ取っていた
「お初にお目にかかる。私は数魔序列〝スペードのJ〟『三月兎』である」
各々に武器を構えた読真と譚に、軍服に身を包んだ兎耳の女性が軍靴を鳴らし、手にした軍刀を地面に突き立てて言い放つ
「同じく〝ダイヤのJ〟『チェシャ・キャット』」
そして、「三月兎」と名乗った軍服の女性に続き、その隣りに佇む青髪の男が淡泊な口調で名乗る
「『J』! ……たしか、守護者だったか?」
共にJの階級を名乗った三月兎とチェシャ・キャットの位に、読真は先程聞いた記憶からその情報を呼び起す
「詳しいですね。トランピア序列Jは、女王を守護する騎士の位を持つ者達。――つまり、戦闘のエキスパートということです」
酷薄な笑みを浮かべた帽死屋の言葉に応じるように、三月兎とチェシャ・キャットの身体から膨大な力の奔流が立ち昇る
「読真、何とかして正常な異常をチャージしなさい。今のあなたは戦力的にも雑魚ですから」
「……お前も大差ないだろ」
小さな声で忠告する譚のいつも通りの毒舌に読真は、口端を吊り上げて無理矢理笑う
いつもと変わらない棘のある譚の言葉だが、不思議とそれが読真を鼓舞し、敵に正しく向かい合わせてくれる
「正常な異常」は、矛盾形態が神髄だが、変身前の状態でも歪められた世界においては比類なき力を発揮する幻想心器だ
だが、その力も短剣のみに限られたもの。単純な身体能力などで劣っていたりすれば手も足もでない。
加えて、幻想心器を持たない譚が現状を打破するには、確かにその言に従うのが最善だろう
「相手は王を倒した者達。ここからは、全力で行くぞ」
「了解」
互いに言葉を交わすと同時、二人は読真と譚に向き合い、その手に武器を携える
三月兎はガトリング銃を手に、チェシャはその身に剣を思わせる鋭い爪を備えた四本の腕を持つコートを羽織り、手には一振りの長太刀を携えていた
「え……?」
「行くぞ!」
それを見て呆ける読真に、ガトリング砲を手にした三月兎は、その引き金を引いて破壊の弾丸を放つ
「ちょっ、うそ、まじ!? ギャアアアアアッ!!
骨の髄まで響く重低音の銃声が鳴り響き、火を噴く銃口から放たれた弾丸が、容赦なく読真と譚に襲いかかる
さすがに短剣でその弾丸の効果範囲まで防御できないことが分かっている読真は、全速力で譚と左右に分かれて真横へと逃げ出す
「なんて無様な叫び声なんでしょうね」
「死ぬ、死ぬゥウウウウウウ!」
軽やかに宙を舞い、電信柱や家の壁を舞うように飛ぶ譚とは違い、ただ一直線の全力ダッシュで走る読真は、正常な異常の力で家の壁を突き破ってその敷地内に逃げ込む
「き、奇跡が起きた……!」
息も絶え絶えに何とかガトリングの雨をかいくぐった読真は、その弾が一発も命中しなかったことを心の中で神に感謝する
無論、そこにも理由はある。幻想司書となった者は、物語の世界での肉体を得る。そのスペックは生身のそれとは比較にならない
これまで、読真が歪められた世界で戦ってこれたのもこれが理由であり、もし今の身体が生前と同じスペックだったならば、読真の身体は今頃肉片と化していただろう
「逃がすか」
しかし、その程度の攻撃を凌いだくらいで三月兎の攻撃が止むことはない。その凛と澄んだ声をトリガーに、その上空に巨大なバズーカ砲が現れる
「うぇ!?」
「発射!」
思わず変な声を上げてしまった読真に向け、三月兎が顕現させた宙に浮かぶバズーカから、全てを薙ぎ払う砲撃が放たれる
「うそぉおおおおお!?」
トランピア序列スペードのJ――「三月兎」は、あらゆる武器、兵器を操る力を持った、〝一人軍〟。
圧倒的な火力と戦力で、単身あらゆる敵を薙ぎ払う純粋な戦闘力特化の守護者なのだ。
瞬間、天を揺らす轟音が響き渡り、夜の帳が落ち始めた街を、爆炎の赤が一瞬で染め上げる
「し、死ぬかと思った……」
だがその圧倒的か力の一撃は、たった一発であるが故に逆に正常な異常の力が及ぶこととなる
歪みよって生み出された破壊の力は、その能力によって刀身に吸収されて完全に無力化されてしまう
かろうじて三月兎の攻撃を防いだ読真は、死の恐怖で張り裂けんばかりに大きな鼓動を打つ心臓の音を感じながら、自身の生を噛みしめる
「――やれやれ、あんな轟音を立てては、女王様方に気付かれてしまうな」
「なら、さっさと退却したらどうですか?」
その戦意を横目に、風のような速さで譚へと肉薄したもう一人の守護者――「チェシャ」は、抑揚のない声と共に手にした太刀を振るう
その斬撃はアスファルトやコンクリートを豆腐のように軽々と切り裂き、反撃とばかりに放たれた譚の弾丸を、羽織ったコートが軽々と防いでみせる
「――あぁ、そうしよう」
「……!?」
あくまでも皮肉で言ったに過ぎない言葉に、チェシャが淡泊な声音で応じ、次いで不敵な笑みを浮かべた瞬間、譚は背筋を駆け抜ける悪寒に見舞われる
「!」
瞬間、譚の足元から巨大な影が伸び、その中から出現した無数の手が小さな身体に絡みついて、影の中へと引きずり込もうとする
「これは……」
「お嬢!」
影の中に生じた巨大な目と、三日月型に吊り上がった口を見た譚が息を詰まらせ、モノスが切羽詰まった声を上げる
「譚!」
それを見た読真が駆け寄ろうとするが、その行く手を帽死屋が阻み、すでに膝下まで影に呑み込まれている譚を背中越しに一瞥する
「心配には及びませんよ。あれは、数魔序列〝ダイヤの10〟『封印牢獄』――その名の通り、生きた封印牢獄です」
「譚を離せ!」
飄々とした口調で表情で言う帽死屋は、激昂して声を荒げる読真に嘲るような笑みを向けて、言葉を続ける
「彼女は預からせてもらいます。もちろん、危害を加えるつもりはありませんのでご安心を」
(こいつ、最初から……!)
その言葉で、帽死屋の狙いが最初から譚を捕らえることだったと理解した読真は、砕けんばかりに歯を噛みしめ、力の限りに拳を握る
(やはり、物語に干渉しすぎましたね。ここまで、積極的に幻想司書に関わられてしまうとは……不覚です)
同じく、その言葉を帽死屋の背中越しに聞いていた譚は、半分近く呑み込まれた自分の身体を一瞥して嘆息する
帽死屋達がこのような手段にでたのは、間違いなく先の戦いで、読真がトランピアの「王」を倒してしまったことが原因だろう
幻想司書は、悪夢によって歪められた物語の影響を受けないが、物語の世界にいる以上、世界の主軸に干渉しすぎてしまうと、物語のキャラクターに認識されてしまう。
そうなってしまうと最悪の場合、歪められた世界がさらに歪になり、自分達が命を狙われてしまうばかりか、物語を終わらせられないという状況にまで発展しかねない。そのため、物語への必要以上の干渉は、幻想司書にとって避けるべき初歩的な事柄の一つだった
「そんなことさせる……かぁてぇ!」
譚が影に囚われて行くのを視界の端に捕らえる読真は、短剣を握りしめる手に力を込めて帽死屋に決死の突撃を加えようと試みるが、そんな出鼻を挫くように正面から飛来したものが顔面を直撃する
「なんだ……って、モノス?」
不意を衝かれて顔面に一撃を受けた読真が痛む鼻を労わりながら、その原因となったものを見ると、それは譚が頭にかぶっている白い耳付き帽子――「モノス」だった
「落ち着きなさい。まったく、無様ですね」
それと同時に、帽死屋の背後から譚の心底辟易した様子の冷ややかな声が投げかけられる
「お前……」
しかし、いつもと同じように突き放すような冷たい声音で毒を吐き、普段と同じ無表情に近い譚を見た読真は、しかしその表情に強い意志を感じて言葉を喉に詰まらせる
この状況で譚がモノスを投げた理由――それは、もう現状を打破できないと判断したからであることは、想像に難くなかった
「お嬢!」
無数の絡みつく黒い手に抵抗を封じられ、影の中に呑み込まれていく譚に、モノスが張り裂けんばかりに声を上げる
「……読真。モノスを頼みますよ」
その声と、自分に注がれる読真の表情を嘲るように笑った譚は、凛と澄ました面差しを浮かべてそう言い残すと、影の中に呑み込まれる
「先ほども言いましたが、彼女に危害を加えるつもりはありませんから、安心してください――ただ、これからのあなたの行動次第ではありますが……ね」
その様子を見て呆然と立ち尽くす読真にそう告げた帽死屋は、そう言い残すと三月兎、チェシャと共にその姿を消失させる
「お話の続きはまた後日。それまでは何もせずにおとなしくしていてくださいね」
譚を取り返そうと行動したり、白魔女王や赤魔女王に協力を求めるなと暗に釘を刺し、姿を消したトランピア達の残言に、読真は悔しさに歯を食いしばって肩を震わせる
「くそ……っ」
吐き捨てるように発せられた読真のその言葉だけが、静寂を取り戻した街の中に静かに、虚しく吸いこまれていった――。