p12 鬼の巫女
「母、上……!?」
鬼たちによって作られた道を歩き、そして素の首領である天羅にさえ傅かれた絶世の美女――桃花美仙の微笑を受け、桃太郎は明らかな動揺を浮かべる
目の前にいる絶世の美女は自らを桃花美仙と名乗った。――すなわち、自分の母である、と。母を救い、鬼たちの恐怖からこの世界を解放するために戦ってきた桃太郎にとって、それは彼自身の戦意を無にすることにも等しい行為だ
事実、桃太郎の手に握られた霊刀・黍団子の切っ先はかすかに震え、行き先を見つけられず彷徨うように鳴る刃がその動揺と困惑を如実に表している
「どういう事だよ!? 桃花美仙は鬼に捕まったんじゃないのか!?」
「そのはずよ!?」
この事態にどうすればいいのか分からずに声を上げた読真の声に、声を震わせながら応じた小雉の表情にも困惑と動揺が浮かんでおり、これが全く想定していなかった事態であることを理解させる
目に見えて困惑し、先ほどまで一つの生き物のようになっていた桃太郎達の結束と、隙のない陣形が綻んでいるのを見かねたように、桃花美仙は困惑を見せる自分の息子に優しく微笑みかける
「大きくなりましたね。……こんなに立派になって帰ってきてくれて母は嬉しいですよ」
その言葉の端々にあふれんばかりの慈愛と母性を宿した声音で、桃花美仙は再会を果たした愛しい息子に声をかける
「一体……これは、一体どういう……?」
突然の母との再会に言葉を失い、混乱している桃太郎と、その仲間たちを慈しむように見回した桃花美仙の陽だまりのような笑み促されるように、その隣に控えていた天羅が厳かにその口を開く
「混乱しているようだな。……まあ、無理も無いがな」
天羅の言葉に無言で首肯した桃花美仙は、桃太郎へと視線を向けると自身の胸にそっと手を添え、穏やかな声音で言葉を紡ぐ
「わたくしが鬼に反逆され、幽閉されたというのは偽りです」
「っ!?」
自分たちが戦う理由を根底から揺るがされ、動揺を禁じ得ない桃太郎達に、天羅は隣にいる絶世の美女を一瞥して言葉を向ける
「桃花美仙様こそが我等の唯一無二の主。我々は、桃花美仙様の望むままに人間たちを滅ぼしてきたに過ぎない」
「なっ……!?」
「嘘ではありませんよ。ほら、こうして日幟もここに」
天羅の言葉に目を見開いた桃太郎達に、先端に鬼を彷彿とさせる金色の装飾がついた柄に、太陽と桜色の花に似た紋様が中心に染め抜かれた純白の旗を見せつける
風に揺れる長方形の幟こそが、霊樹がその巫女である桃花美仙に授けた三つの霊具の一つ。すべての鬼を従える力を持つ「日幟」だ
「なっ!? それじゃあ、本当に……?」
「そうです」
日幟を見せ付けられ、悪夢でも見ているかのような表情を浮かべる桃太郎に、桃花美仙は優しく微笑みかける
しとやかに微笑む桃花美仙の微笑みは、すなわちこの二十年に渡る鬼による人々の蹂躙の主犯が自身であることを告白するものであり、それは桃太郎の戦意を奪い、絶望へと突き落すには十分すぎる「裏切り」だった
桃太郎達が戦う理由に世界を守るためというものがあるのは嘘ではない。しかし、大きな目的をなすためには小さな目標を積み重ねる必要があり、その根底に「囚われた母を助け出す」という私的な理由があるのも事実。
そして、桃太郎とともに戦う仲間たちもまた、世界を守りたい、母を救いたいという桃太郎の願いを叶えたいという理由があった
(いけませんね、目に見えて戦意が失われている……)
その様子を一瞥して剣呑な光をその瞳に宿した譚は、その場を仕切りなおすように、抑制の効いた声を戦場に響かせる
「彼女の言葉を鵜呑みにするのは危険です! 彼女の言っていることが真実だとしても、あなたがなぜこの鬼ヶ島の外にいたのか説明がつきません」
「――っ!」
それは、譚が昨夜桃太郎に対して結局尋ねることができなかった疑問。そして同時にそれをこの場で話すことは譚にとって、この戦局を左右する賭けだった
桃太郎は鬼たちが何らかの方法で桃花美仙を無力化して捕えたと言っていた。仮にそうであったならば、その息子である桃太郎が、なぜ島の外にいて育てられたのか説明がつかない
もっと言えば、鬼たちを操る存在が桃花美仙であるならば、なぜ今までそれを桃太郎達に教えず、一方的な攻撃を仕掛けてきていたのかという疑念もある。
「そ、そうだ。目の前の桃花美仙が本物だという確証はない」
「そうだよ、桃。この人が本当に桃のお母さんなら、今頃になって出てくるなんておかしいよ」
譚の言葉に我に返った戌彦が、自分たちを奮い立たせるために声を上げると、それに倣うように小雉もまた戦意を喪失している桃太郎に声をかける
「……っ!」
戌彦や桃太郎の言葉で、その可能性に思い至り黍団子の柄を強く握り締めた桃太郎は、仲間たちの言葉と目の前にいる桃花美仙の言葉を半々に信じながら、それでも確実に先ほどよりも強くその姿を見据える
「やるな、譚」
桃太郎達が大勢を立て直すのを見て、賞賛の声を向けた読真の事態を打開したことに対する晴れやかな声とは裏腹に、譚の顔色は優れない
「――だと、いいのですがね」
「?」
その人形のように整った表情をわずかに曇らせて独白した譚の言葉に、読真は訝しげに眉をひそめ、小さな先輩司書が見据える桃花美仙へと視線を戻す
悪夢によって歪められているとはいえ、物語の世界は一定の整合性を保ち、結末へと至る伏線と道筋がつけられているのは幻想司書にとっての常識だ。そしてその結末は基本的には原典となった物語に依存する
つまり、この歪んだ桃太郎の結末は、桃太郎が鬼たちを退治してめでたし、めでたしで終わるはずだ。無論、それがどんな形であれ、物語が終了した時点で悪夢は顕在化するのだが。
この物語において「桃花美仙=鬼たちを操っている敵」という構図は一度否定された可能性。しかし一度否定された可能性が「実はその通りでした」という形で採用されることは、物語としてさほど珍しいことではない。
それ故、桃花美仙が出てきたこと自体は譚にとって想定の内ともいえるのだが、問題はその「理由」にある。この問いかけが「賭け」なのは、これに対して正当な理由を返されてしまえば確実にこちらが不利になることが目に見えているからだ
「よい仲間に恵まれましたね」
譚、戌彦、小雉の言葉によって戦意を取り戻した桃太郎を見て、その絶世の美貌を花のように綻ばせた桃花美仙は、静かに目を伏せて清流のように澄み切った声で言葉を紡ぐ
「簡単な話です。かつてわたくしに反乱を企てたのは、鬼ではなく仙人の方だったのです」
「――っ!」
桃花美仙の口から紡がれた予想だにしない答えに、その場にいた誰もが驚きを禁じえずに目を瞠る
「無論、すべての仙人族の方がそうであったわけではありません。ただ、彼らは嘆いていたのです」
その様子を見て寂しげな憂いを帯びた表情を浮かべた桃花美仙は、しとやかに言葉を紡ぎながら、まるで遠い過去を思い返そうとして一度目を伏せる
まるで神の手によって作られたのではないかと思えるような美貌には翳りが生じ、憐れみと悲しみの混在した瞳で桃太郎達を見据えた桃花美仙は、静かな口調で淡々と言葉を発する
「不死となったとはいえ、仙人族の方は人間と何ら変わりはありません。故に、彼らは耐えられなくなってしまったのです――愛する者たちを失う孤独と悲しみに」
「っ!」
桃花美仙の言葉に、その場にいる誰もが目を瞠る
この鬼ヶ島――桃源郷で生まれ育った仙人族はともかく、人の身で試練の道を超え、桃楼樹の身を口にして生まれた仙人たちは、はじめこそ不老不死の体を手に入れて喜んだが、その代償に身を焼かれることになる
仙人となれば桃源郷と外の世界を往復することはたやすい。しかし、老いぬ体を手に入れた仙人たちにとって、時の流れに縛られる人の営みは見るに堪えないほどの苦痛だった
愛する者が、家族が、住み慣れた街が、慣れ親しんだ人たちが――人が作り上げ、人が営む生活が、人自身が時と共に朽ちていく中、自分だけが何も変わらない。まるで時に取り残されたような孤独感が、朽ちていく人の営みとともにその心を苛んでいった。
確かにすべての仙人がそうだったわけではない。しかし、一部の仙人たちは、確実にそれによって生きながらにして心を失っていったのだ
「そこで彼らは考えたのです。桃楼樹の実をすべての人間に食べさせればよい……と」
そして、愛するものを失い自分だけが取り残されることを恐れた仙人達は、やがてそんな考えを抱くようになる。
誰もが等しく不老不死になれば、このような悲しみからは解放されるはずだ――と。
「当然、不死を願う権力者たちもそれに追従し、一部の仙人と人間の権力者たちは、我々に対し、すべての桃楼樹の実を人間に提供するようにと求めてきたのだ」
桃花美仙の言葉に、その時のことを思い出しているのか、天羅は苦虫を噛み潰したような忌々しげな表情で吐き捨てるように言い放つ
不死になりたいのはいつの世も同じ。しかし、百万人に一人の成功率と言われる試練の道の踏破をするほどの勇気はない。
だからこそ、人間の権力者たちはその欲望の赴くまま、威圧的に、高圧的にそれを差し出すようにと要求してきた
「そんなこと、知らなかったって顔だな。お前たちは揃いも揃ってあいつらにいいように利用されていたというわけだ」
そんなことなど知らなかったといわんばかりの表情を見せる桃太郎達を睥睨し、静かな声に嘲るように言い放った天羅の言葉に宿る憤りは、無知な桃太郎達とそれ以上に人間たちに向けられている
「それどころか、『霊樹の実を我等に捧げる事こそ、天下泰平の世を成すのに必然の事であるというのが分からないのか』とまで偉そうに上から目線でぬかしてくれた
お前たちが守ろうとしている人間どもの霊樹も桃花美仙も、鬼も仙人も、それが当然のように自分達の思い通りになると思っているその厚顔無恥さには怒りを通り越して呆れ果てたぞ?」
嘲るように笑いながらも、憎悪と侮蔑の怒りに満ちた感情を向けてくる天羅の言葉に、も桃太郎達は返す言葉を見つけられずに唇を噛みしめる
「――っ」
天羅の言葉に、桃太郎達は全く思い当たる節がないわけではない。桃太郎達もまた人の醜い部分や、裏切りを多少の違いはあれど経験している
桃源郷の外に仙人族が少ないのは、不死の仙人族が人々の中で嫉妬と羨望の対象であり、それが迫害へと繋がら、それによって不遇な暮らしを強いられてきたからだ。
決して人間と仙人たちの関係は良好なものではなかった。今はただ、鬼を倒すという共通の目的と桃太郎への信頼によって新たな関係を築き始めている段階に過ぎないのだ
「しかし、そのようなことができるはずもありません。なぜなら桃楼樹の実はこの世界に満ちる力そのもの。それをむやみに収穫すれば、世界がその力を失い、滅び去ってしまうのです
わたくしは、桃楼樹の巫女として世界に還元される『実』と循環を司り、世界の調和を保ってきました。故に、実を得る資格を、霊樹が試練の道によって選別しているのです」
やや感情的になっているように見受けられる天羅を制するように、桃花美仙は巫女としての言葉を厳かな声音で語り掛ける
そもそも、桃花美仙と鬼たちその気になれば、世界統一など容易いこと。しかし、桃源郷――桃楼樹の力はそんなことのためにあるのではない。
神の力を世界に循環させる力を持つ霊樹は、古くなった世界の力をその根から吸い上げ、新たな力を葉から放出し、命の力をその実へと変えて世界を魂魄と流転を維持している
実を食べることで不死の存在になれるのはそのためであり、しかし、それをすべて与えてしまえば世界に循環するべき魂の力が失われ、世界の均衡が奪われてしまう。故に、一部の選ばれた者にしかその実を口にすることはできない。そして同時に選ばれた者以外が口にしても仙人にはなれないのだ
「わたくしは何度も説明いたしました。何度も語り掛け、何度も説明し、わかっていただこうとしたのです。仮に実を食べても、試練の道を抜けた者と仙人の力をもって生まれた子供以外がその恩恵を受けることはできない、と」
桃花美仙は、時の権力者たちと実の提供を求める仙人たちと何度も話し合いの場を開き、それを丁寧に説明し続けた
しかし、欲望に取りつかれた人間達はそれを受け入れなかった。いや、受け入れられなかったのかもしれない
「ですが、わたくしの言葉は届きませんでした」
沈痛な面持ちで顔を伏せた桃花美仙は、自らの無力さを嘆くようにそう言うと、それを受けた読真と譚を除く全員がなまじ少なくない心当たりがあるために反論できず、ばつが悪そうな表情を浮かべる
そんな桃太郎達の様子を見た桃花美仙は、まるで熱を帯びている自身の感情の熱を逃がそうとしているかのように小さく息を吐き出してから、ゆっくりと言葉を紡ぐ
「そして、業を煮やした彼らは、ついに実力行使に出たのです」
「今から約二十年前、奴らは人間の有力者と共謀し、桃花美仙様の夫――つまり、お前の父親を手にかけたのだ」
「なっ……!?」
桃花美仙についで天羅が発した言葉に、その場にいた全員が困惑と同様に目を見開く
「無論、はじめから殺めるつもりがあったのではありません。あのお方――『孝霊』様を人質に、唯一実をもぐことができるわたくしから桃楼樹の実を奪おうとしたのです」
桃太郎達の驚愕の声を聞いた桃花美仙は、唇を引き結びながら夫を奪われた悲しみを押し殺した静かな声で自らの愛するものを奪った者たちの行動を擁護する
それがいかにその心を傷つけているのかは、あれから長い月日が経っているにもかかわらず消えることのない瞳の奥になる深く尊い愛情の色から容易に察することができる
食べた者を不老不死へと変える霊樹の実は、その巫女である桃花美仙にしかもぐことはできない。故に時の権力者と、それに組して全ての人間を仙人へ変えようとした仙人たちは、是が非でも桃花美仙に実を取らせる必要があった
そのために利用しようとしたのが、桃花美仙が愛した伴侶。そして桃太郎の実父である仙人族の男「孝霊」だったのだ
「その当時、わたくしはあなたを産んだばかりでした。故に夫である孝霊様に産み月の少し前から代理をお願いしていたのです。
当時、桃楼樹の巫女として人々の代表たちとの対話に立っていた桃花美仙だったが、産み月が近くなったころから、大事を取って夫である孝霊を代理に立てていた
その事件が起きたのは、桃花美仙が桃太郎を出産してから少ししてのこと。会談をするために試練の道の外へ出た孝霊を、人間の権力者と仙人たちが捕えようと襲い掛かったのだ
護衛につけていた鬼と仙人に守られ、かろうじて結界の中へ戻った孝霊だったが、その傷は深く、また仙人を殺せる仙人の力によって治療の甲斐なく、その命を散らせてしまった
「わたくしは失望し、絶望いたしました。人が犯したこの所業に。わたくしは、許せなかったのです。わたくしから愛しい人と愛しい子供を奪った人が。
そんなわたくしの愚かな憎悪をくみ取ってしまったのでしょう。永遠に咲き誇るはずの花は散り、葉も全て落ち、そして実がならなくなってしまったのです」
憎悪の言葉を発しながらも、どこまでも慈愛に満ちた桃花美仙の声は、愛する人を殺した者たちと同じかそれ以上に自らを責め苛み、己の愚かさを悔いるものだった
巫女である桃花美仙の心は霊樹とつながっている。強く心揺れれば霊樹はその想いをくみ取り、世界にあまねく奇跡を顕現させる
愛する人を失い、憎悪に実を焼かれた桃花美仙の心をくみ取った霊樹は、その願いを「実を成らせない」という形で答えてしまったのだ
誰よりも深く愛した人を奪われ、すべての信頼を裏切られ、憎しみに身を委ねながらも自分を責め続ける桃花美仙に言葉を紡げなくなっている桃太郎達に代わり、譚が恐る恐る質問を投げかける
「では、なぜ彼は桃源郷の外に?」
「彼らは、いざという時のために桃源郷の内側にも内通者を作っていたのです。そして夫を奪われ、失意の中にあったわたくしの隙をついて息子を連れ去ってしまったのです」
譚の問いかけを受けた桃花美仙は、薄く紅を引いた唇をわずかに噛みしめ、思いもよらなかった事実を聞かされて戦意を喪失している桃太郎へ向ける
彼らは用意周到だった。万が一失敗したときのために同じ目的を持つ仙人をあらかじめ桃源郷の中に紛れ込ませておいたのだ
そして、案の定捕え損ねたばかりか、命までも奪ってしまった桃花美仙の夫――孝霊に代わり、生まれて間もない桃太郎を連れ去ったのだ
「その後、我々は孝霊を殺め、桃太郎を連れ去った人間たちを粛清した。だが、奴らは桃太郎をどこかに隠してしまった後だったのだ」
愛しい人を失い、その唯一の忘れ形見である子供までも奪われた桃花美仙は、自分の子供を取り戻すために鬼たちを使って、復讐と奪還を試みた
しかし、時すでに遅く姿をくらました誘拐犯たちによって桃太郎は辺境の奥深くの村に隠され、見つけ出すのにかなりの時間を要してしまったのだ
「あなたの居場所を探すのには苦労いたしました。そしてずっと会いたいと願い続けていたのです」
その瞳に深い慈愛と母性を宿して微笑みかける桃花美仙の言葉に、桃太郎は絞り出すような声で縋るように声を吐き出す
「なんで、そのことを言ってくれなかったんですか?」
掠れるような声音で紡がれた桃太郎の声は、「どうしてそれを自分に教えてくれなかったのか」という嘆きにも似た疑問。それを知っていれば、今自分はもっと違う選択肢を選んでいたはずだ
そんな桃太郎の詰問するようにも聞こえる言葉を受けた桃花美仙は、その表情を沈痛なものに変え、「ごめんなさい」と静かな声で発すると、今にも涙を流しそうなほど痛ましく弱々しい表情で声を絞り出す
「恐ろしかったからです。あのお方と同じように、あなたの身に人の欲望の刃が突き立てられるのが」
「――っ!」
桃花美仙にとって最も恐ろしかったのは、桃太郎を失ってしまうこと。だから、その身にかつて愛しい人の命を奪ったように、人間たちの欲深い刃が突き立てられてしまうことを何よりも恐れていたのだ
その張り裂けそうな想いを感じ取り、今度こそ桃太郎は、次の言葉を発することができなくなってしまう
「命を奪われるくらいなら、交渉の道具としてでも生きていてほしかったのです。そして、鬼に囚われたという嘘を作り上げることで、あなたがこの地へ――わたくしの許へ帰ってきてくれる日を待ちわびていたのです」
何も言えなくなった桃太郎に、桃花美仙は優しい母の笑みを浮かべて語り掛ける
最後まで争いを避けようとし、しかし人の裏切りによって愛する人を失い、かけがえのない子供と引き裂かれ、その身を思いやるばかりに、ただ祈り、待ち続けることしかできなかった桃花美仙の怒りを咎めることができる者など、誰一人としていなかった
誰もがその悲しみに共感し、戦意を鈍らせる中、桃花美仙はしとやかに微笑みかけて優しく手を差し伸べる
「ですが、ようやくこうしてあなたに真実を打ち明けることができました。さあ、桃太郎。これからは母と一緒に暮らしましょう? もちろん、お仲間の皆さんも一緒に」
その言葉に、桃太郎は一瞬その手を伸ばしそうになり、しかし陽光を受けて輝いた胸の宝玉――吉備津の光をその目に受けて目を瞠る
《これを私だと思ってください》
その光とともに脳裏に甦る稍の姿と言葉に、この戦いに共に挑む決意を交わした仲間たちや芹彦、そしてこれまでの戦いで散っていた人々、守れなかった人々の姿が次々に桃太郎の脳裏をよぎる
「桃太郎?」
差し伸べかけた手を引っ込めた最愛の息子を見て、訝しげに声を発した桃花美仙に、桃太郎は自分の心の中にあるほんの少しの願いを絞り出すような、沈痛な面持ちで言葉を発する
「――かに……」
「?」
消え入りそうな小さな声に、怪訝そうな表情を浮かべた桃太郎を見た桃花美仙に、桃太郎はこの場に立っている自分が背負っているすべての人々の願いを背負って声を絞り出す
「確かに、確かに母上の身に起きたことは同情します。ですが、人間はそんな人ばかりではありません、ですから、どうか――」
「そうでしょうね。ですが、“そうでない”人がいるように、“そうである”人も確かに存在します。そしてそうである人の方が圧倒的に多いのですよ」
桃太郎が言い終わるよりも先に、桃花美仙はその言わんとしていることを正しく読み解いて、その答えを先んじる
「――っ!」
確かに桃太郎の言うように、そんな人ばかりではないだろう。しかし、そんな人ばかりではないのと同じようにそんな人もおり、そして同胞達にも裏切られた桃花美仙には、人の心が移ろうものであることは身に染みてわかっていることだ
「善い人間と悪い人間がいるのではありません。全ての人間の中に等しく善悪があり、立場や時の移ろいによってそれは万華鏡のごとく形を変えるものなのです」
桃花美仙も桃太郎の言いたいことはよくわかる。しかし、それであるがゆえにそれではだめだということもよくわかる。
なぜならば、それを信じたがために桃花美仙は愛するものを失ってしまったのだから。
「――いえ、それ以前に、あなたは許せるのですか? あなたの父を殺し、あなたを欺き続けてきた人々を」
「それは……」
曇りのない澄み切った瞳で見つめてくる桃花美仙の言葉を受けた桃太郎に、それ以上の反論を口にすることはできなかった
その心にあるのは、許せないという感情よりも、わからないという困惑。この真実を知ったうえで自分がどうするべきなのか、何をしなくてはならないのか、これまで進んできた道を支えてきたすべてが脆く崩れ去った今の桃太郎に、戦う理由を見出すことは到底できることではなかったのだ
母への同情と、自分の出自、本当に戦うべき相手を見失って立ち尽くす桃太郎を見て、眉をひそめた譚は、小さな声で隣に立つ読真に声をかける
「読真」
「何だよ!? 俺に聞かれても何も分からないぞ?」
「心配せずとも、あなたにそんなこと期待していませんよ」
困惑を隠せない様子で半ば混乱したように応じた読真の声を聴いた譚は、いつも通りの淡々とした口調で混乱する後輩司書に冷静さを取り戻させる
「じゃあ――」
この状況下においても全く動じていない譚の毒言で、わずかながらも混乱から解放された読真の視線を受けた少女司書は、静かに小さな声で言葉を発する
「逃げますよ」