p9 偽りの本物
「うっぷ……!」
青ざめた顔で、胃の中からあふれ出さんとする何かを押しとどめた読真は、よろめきながら部屋を後にし、宴会の終わった広場に出て夜風に吹かれる
あの後、桃太郎が到着したことで最終決戦のめどが立ち、同時に朱羅を倒したという朗報を得た人々は勝利への意識を高めあい、明日の戦いに向けて最後の宴を催すこととなった
明日には命がけの戦いに赴くとは思えない――あるいは、赴くがゆえに人生の最期を飾ろうとしているようにさえ見える豪華な宴は、酒と美女にもてなされた豪華なものとなった
主役として前の方の席にいた桃太郎が、酌をしようとする稍と小雉の間で板挟みになっていたことは記憶に新しい。おそらく桃太郎にとって、小雉と稍は鬼とは別の意味で強敵なのだろうということが容易に推察された
「未成年だって言ったのに……」
夜風に吹かれながら、生まれて初めて飲まされた酒を思い出しながら、読真は胃の中を逆流してきそうになる何かを懸命に押しとどめる
最初は、「未成年だから」と断っていたが、この世界では十五歳が元服――すなわち、成人となる歳らしく、十六歳の読真は「未成年じぇねぇよ」と言われてお酒を飲まされることとなった
両親とも、付き合い以外ではあまりお酒を飲まない方だったため酒の味を知らずに育った読真は、好奇心と、郷に入りては郷に従えということわざの通りに御馳走になったわけだが、大人の社交界デビューはややほろ苦いものとなってしまった
「っていうか、酒って思ったよりおいしくないな。あんな苦いような、味がしてないようなもんのどこがいいんだか」
テレビなどでおいしそうに酒を飲んでいるシーンを思い浮かべてその味に思いをはせていた読真だったが、理想を裏切るその味に辟易した様子でため息をつく
宴会は町中で行われていたため、道端にも兵士らしき人たちが酒の空き瓶などを手に眠っていたりするが、酔い潰れているのか眠っているのか、静かな寝息だけが読真の耳に届く
(この人たちは、怖くないのか……?)
道端で明日の最終決戦などどこ吹く風と言わんばかりの表情で眠っている人々や、お開きの後に家族や恋人との時間を楽しんでいる宿の明かりに視線を配る読真は、夜風に吹かれながら胸中に渦まく疑問に首をかしげる
この美世夜の街は、三大霊具の一つである、守護の宝珠「吉備津」によって守られているため、その護りは限りなく無敵に近い。
桃太郎がこの街を守るため、発動させた状態で稍に預けた宝珠は、今でもこの街をドーム状に包んで守っており、今の鬼の戦力では侵入や奇襲が難しい状態を作り出していることが、大半の兵士たちが酔い潰れることができるほどの安全な時間を提供しているのだと聞いた
読真が気になっているのは、ここにいる仙人の血筋以外の人物だ。桃太郎達仙人の力を持つ者以外は、鬼ヶ島の周囲に張り巡らされた結界に触れた瞬間、仙人を選別する試練の道へと飛ばされる
一度入ると、道を抜けない限り出られない試練の道は、ここにいる大半の兵士たちを帰らぬ人に変えるであろうことは想像に難くない
(確かに、明日が最後の勝機なのかもしれないけど、いくら兵士だからって自分の命を当たり前みたいにかけて戦えるものなのか?)
ここにいる普通の人間の兵士たちは、皆自分たちが試練の道で死ぬかもしれないという可能性を抱いているはず。にもかかわらず、宴の時も今も、そんなことへの憂いや不安を何一つ感じさせず、明るく振る舞っていた
戦争があった時代、兵士になった人々は、国や家族を守るために喜んで命を捧げたという話もあるが、現代を生きる読真には、そんなことはにわかには信じがたいことだ
(それとも、やっぱ物語の登場人物だから、そういうのがあんまりないのか?)
世界を守る大切さを理解しつつも、そのために命を捨てる矛盾ともいえる行いに疑問を禁じ得ない読真が夜風に吹かれていると、誰もが寝静まった夜の闇に小さな声が響く
「うっ、うっ……」
「?」
(なんだ……?)
その声に一瞬驚きつつも、すすり泣くような声に引かれるようにこっそり移動した読真は、広場の影――誰もいないところで涙を流す女性と、侍らしき男性の姿を見つける
侍らしき男性と相対して立つ女性は、その目元を涙で濡らし、今にも泣きだしてしまいそうな表情で縋るように問いかける
「あなた、本当に行かれるのですか?」
「お前……」
女性の言わんとしていることを理解し、侍姿の男性はその表情に複雑な色を浮かべる
それは、女性を咎めようとしているのではなく、しかしその想いを受け入れられないという強い意志と、その想いにどう答えればいいのか戸惑っているようなものだった
「この戦いの大切さは十分理解しております。あなたが、私や世界のために、未来のために戦うのだということも十分理解しております。ですが、私は、あなたに行ってほしくありません」
そっと侍姿の男の肩に手を添え、その妻らしき女性は涙をこらえた瞳でその姿を見つめ、縋りつくようにそっとその身をゆだねる
「もうすぐ、私たちの子供が生まれてくるんですよ!? 桃太郎様や、仙人の力を持つ皆様に任せて――いえ、ごめんなさい」
感情の命じるままに口をついて出そうになった言葉を呑み込み、女性は謝罪の言葉とともに夫から視線をそらす
誰だって自分の家族に死地に赴いてほしいわけではない。また、たとえ戦う力を持っているとしても、桃太郎達に自分たちの命運を託し、弱さと力がないことを理由に他人事のように傍観していることなどできない
今ここに集っている誰もが、兵士や戦士としての義務以上に、世界の平和や大切な人たちが安心して暮らせる時代を求めていることを知っている妻は、その想いを押し殺して夫の胸に額をうずめる
「……すまない」
そんな妻の想いに、沈痛な面持ちを浮かべた男は、優しくその体を抱き寄せ、声を殺して涙を流す愛する人の温もりを刻み付けるように力強く抱擁を交わす
「必ず生きて帰ってくる」、「待っていてくれ」――そんな言葉が夫の口から紡がれることはない。明日試練の道に挑む者たちの大半は生きて帰ってくることができないであろうことは十分わかっており、そして覚悟の上のことだ
謝罪の言葉を述べながらも、自分の背に未来を背負い、己の命を礎とする覚悟を持った兵士の男は震える妻を優しく抱きしめ続けていた
「…………」
その様子を木陰で見ていた読真は、いたたまれなくなり、沈鬱な表情を浮かべて二人に気付かれないようにその場から離れていく
回っていた酔いはすでに冷め、代わりにその心情を満たすのは先ほどの夫婦のやり取りと、酔い潰れている兵士たちの姿。――ここで眠っている人たちにもあのように思ってくれる家族がおり、守りたい人がいるのだろうと思うと、胸を締め付けられるような感情に襲われる
「俺、どうしたらいいんだろう……」
広場に戻り、夜風に吹かれながらうつむく読真は曇った表情で大きくため息をつき、自分がするべきことを見出せずに思案にふける
その胸にわだかまっているのは、桃太郎達との出会いや先ほど見た別れを惜しむ夫婦の姿。
幻想司書としてこの世界を元に戻せば、彼らは正常に戻った世界とともに消え去ってしまう。ならば明日の作戦で命を落としても、結局は同じことになるのだからいいのではないかと思う自分と、そんな風に割り切りたくない自分の心に苛まれ、されどどうすればいいのかわからないまま、読真眩いほどに輝く星空を見つめる
「眠れんのか、坊」
その時、不意に耳に届いたモノスの声に視線を向けた読真は、自分が体をゆだねている広場の柵の上に乗っている耳付き帽子を見て目を丸くする
「うお!? お前、一人? で動けるのか!?」
「当然やろ。ワイを誰やと思っとるんや」
目を丸くして驚愕する読真を見て呆れたように言ったモノスは、まるでボールのように跳ねながら見習い司書の頭に乗る
万が一誰かに見られてもいいようにとの配慮から読真の頭に乗ったモノスは、譚がかぶっていた時よりも高い位置から見える風景に感嘆の溜息をつく
「ああ、高いわ~。この視線、なんか懐かしい光景やな~」
「どうしたんだよ、こんな時間に? ってか譚はいいのか?」
自分だけで動けるとは思っていなかったが、主人であるはずの譚を置いて来ている頭上のモノスに視線を向けた読真に、耳付きの生きた帽子はそれを手のようにゆらゆらと揺らしながら、帽子の前面についている二つの目を細める
「な~に、よく眠っとったから心配はいらへん。普段はお嬢の耳があるからな。坊。坊にはな、お嬢のことを改めて頼まんといかんと思っとったんや――神話はんも言うとったやろ?」
譚の目を忍んでまでやってきたモノスから向けられた言葉に、読真は訝しげに自分の頭上にいる耳付き帽子へ視線を向ける
「それ館長も言ってたけど、はっきり言って俺よりあいつの方がずっと――」
「坊は、なんでお嬢が一人でおるかわかるか?」
譚は、幻想司書になりたての自分なんかが気にかけなければならないような人物ではない――そんな意図をもって発した読真の言葉を、モノスの静かな声が遮る
「どういう意味だよ?」
「そのまんまの意味や。今の幻想司書は半分以下に減っとる。確かに人手が足りんのは事実やけど、いくらなんでもこの状況下の中で、幻想司書を単身で行動させると思うか?」
「……!」
モノスに今まで予想だにしていなかった疑問を突きつけられた読真は、その言葉の意図を理解して小さく目を見開く
近年浄化能力を超えて異常発生した悪夢によって次々に殉職し、現在幻想司書は半分以下にまでその数を減らしてしまっている
確かに歪みの増大した世界を元に戻すため、その世界を一人で処理するのも一つの手といえるだろうが、次々に幻想司書が殉職していく中、確実に世界を元に戻すために戦力を分散させるのはリスクが高すぎるのも事実だ。
神話の話では幻想司書は二人から三人のチームを組むらしい。今の総数は不明だが、この危機的状況の中、四人や五人のチームを作ってでも、確実に世界を修正した方が確実に世界の歪みを軽減できるように思える
幻想司書を一人で働かせ、リスクを高めてでも世界の歪みを軽減するのと、数人集めて少数でも確実に世界を正していく方法、どちらが正しいとも言えないが、読真には神話が前者を選ぶとは思えなかった
「館長さんは、本の世界を守るために多少の速度を犠牲にしても、幻想司書を分散させることを避けたんんや。――なら、なんでお嬢は一人でおると思う?」
「それは……」
モノスの問いかけを受けた読真の頭には、その理由についてすぐさま一つの可能性が浮かんでいた。しかし、いくらなんでもこの状況でそれを説明するのもはばかられ、わずかに渋い表情を浮かべて視線をそらす
「そう、誰も組んでくれんかったからや」
そして、そんな読真の気遣いを見通しているモノスは、可能な限り周囲の人間に聞かれることが内容に声を潜めて聞こえないように言う
「……嫌われてるのか?」
頭上に乗っているモノスから自分の予想通りの回答をもらった読真は、これまでの譚の傍若無人な振る舞いを思い返し、内心で仕方がないかもしれないと思いつつも、あえて確認の言葉を向ける
「まあ、そういう風にとれんこともないけど、そういうことやないんや――それ以前の問題って言った方がええかもしれんな」
これまでの譚との関係では、そう思ってもしかるべきといった読真の言葉を受けたモノスは、それを否定せずに、しかし神妙な面持ちでその理由を口にする
「それ以前の問題?」
「せや」
譚は読真の予想した通り、他の幻想司書たちからチームを組むことを拒まれている。しかしそれは、譚が嫌われているからという単純な理由ではない。――否、むしろその方がよかったのかもしれないと思えるような至極単純な理由だ
しかしその理由は譚が自らの口で語るであろうことは絶対にないもの。だからこそ、その理由を話し、譚を守るためにモノスは一人で読真の元に赴いている
読真の言葉にしばしの間沈黙を守っていたモノスは、夜の闇に浮かび上がっている街並みを見つめながら、どこか物憂げな声音で言葉を発する
「お嬢は『109番目の幻想司書』。――つまりお嬢は、幻想司書であって、幻想司書ではないんや」