p6 正常な異常(レギュラーズイレギュラー)
大洋に浮かぶ孤島「鬼ヶ島」。――かつて桃源郷と呼ばれ、御神木である桃楼樹になる不死の実を求めて数多の人間が目指した楽園は、この世を支配せしめんとする鬼たちの居城と化していた。
かつて、永遠に咲き続ける満開の花に彩られていた御神木――今は、花も葉もない、枝と幹だけに成り果てた漆黒の樹に沿って作られた御殿「鬼灯城」。かつてこの城の主であった「桃花美仙」が住まう社でもあったこの城は、今は鬼達の拠点と化している
「朱羅が死んだか……」
蝋燭の明かりに照らされる薄暗い部屋の中、鬼灯城の天守閣に設けられた広間に座す漆黒の髪と、額から伸びた二本の角を持つ男――鬼の長「天羅」は、手にした盃に注がれた酒に自身の表情を映して小さく独白する
その表情は不思議と充実感い満ちており、ここまでやってくることになるであろう桃太郎を歓迎しているようにさえ見える
「間もなく、最終決戦だ……」
そう言って天羅が視線を向けたのは、自身の背後にある簾とカーテンに囲まれた一段高くなった御座。そこに見える一つの影は、その声に沈黙をもって答え、それを受けた天羅は愉快そうに微笑を浮かべる
「ようやく会えるな、お前の息子に――」
答えが返ってこなくとも、全く意に介した様子もなく、天羅は独り言のように、御座にいる人物に不敵な笑みとともに語り掛ける
そこにいるのは、白と緋色の巫女服に身を包み、腰まで届く癖のない艶やかな黒髪をなびかせた絶世の美女。雪のように白い肌に、そこに映える薄い紅で彩られた唇。
慈愛に満ちた眼差しで、御座の中から天羅の言葉に耳を傾けるのは、神がかっているといっても過言ではない存在感を有した人物
「どんな気分だ? 桃花美仙様」
御座の中に座す黒髪の美女――桃花美仙に視線を向けた天羅は、それに答えが返ってこないのを見ると、不敵な笑みとともに、まるで何かを暗示するかのように盃に注がれた酒を一気に飲み干すのだった
◆◆◆
「死ぬかと思った……」
空中で手をつないだだけのアクロバット飛行と戦闘を終え、の生気が抜けたような疲れ果てた表情で腰を下ろした読真が声を漏らすと、そこに光の翼を収めた小雉が優しい声で語り掛ける
「ありがとうございました。私たちが勝てたのは、あなたのおかげです」
「いや、俺は特に何もしたわけじゃないし……」
可愛らしい顔立ちをした小雉に優しく微笑みかけられ、読真はわずかに頬を紅潮させて逃げるように視線をそらす
それは半分以上照れ隠しだったが、小雉はそんな読真の謙遜を軽々と看破し、大輪の花のような笑みを浮かべて再度語りかける
「いえ、読真さんのおかげですよ」
「へへ……」
先ほどまでは無我夢中だったが、こうして小雉に微笑みかけられると、自分が何かを成し遂げたような誇らしさと、こそばゆさに読真の頬は自然と緩む
「顔が気持ち悪いですよ、読真」
「っ、お前な」
紛うことなき美少女である小雉に褒められ、浮かれた読真は、容赦なく冷水を浴びせていく譚をじと目で見送りながら、歩き去っていくその背を追う
一方、目に見えて浮かれている読真に、くぎを刺す意味と単なる嫌がらせで冷ややかな言葉を送った譚は、周囲の誰にも聞こえないような小さな声で自身の頭の上にいる耳付き帽子に語り掛ける
「モノス、見ましたか?」
「なんやら、ごっつい能力やったな」
大鬼の頭部を根こそぎ食らいつくした両刃の短剣――読真の幻想心器の力を思い出して感嘆の声を漏らすモノスの言葉を聞きながら、譚はその人形のような表情にわずかに思案と疑念の入り混じった表情を浮かべて眉をひそめる
「ええ、ですが……」
「お嬢?」
何が府に落ちない様子で歩を進める譚の声にモノスが首を傾げると同時に、彼の主である小さな幻想司書は、その歩を止めて視線を下に向ける
譚の眼下にあるのは、先ほど大鬼を屠った際に読真の手を離れ、そのまま地面に落ちた幻想心器の短剣。それを見た譚はゆっくりとその短剣の柄に手を伸ばす
「お嬢、大丈夫なんか?」
「このタイプの幻想心器は、刀身に能力があるか、使用者の意思によって効果を任意に指定できるもののはずです。一応気を付けますが、おそらく大丈夫でしょう」
読真の幻想心器が先ほど見せた能力を警戒するモノスに軽く応じた譚は、念のために警戒を強めながら、地面に転がったままになっているそれを拾おうと手を伸ばす
(あの能力……単なる吸収系には見えませんでしたが……)
譚が多少のリスクを犯してでも、読真の幻想心器を手に取ろうとしたのは、この短剣が見せた能力に違和感を覚えたからだ
(おそらく、読真の幻想心器の本体は、この短剣の方。手甲の方は補助的なものにすぎないのでしょう)
この短剣と手甲の能力を比較したとき、その力にあまりにも差がありすぎた。それを考慮に入れれば、読真の幻想心器の本体がこの短剣の方だと推測するのは難しいことではない
それを確信に変えるべく、集中と警戒を怠ることなく伸ばした指が短剣に触れた瞬間、譚はその目を驚愕に見開く
「これは……ッ!」
「お嬢!」
譚の指が触れた瞬間、そこから大鬼の頭部が喰われた時と同じような力の渦が生じ、それが透き通るような光を放つ刀身の中にそれが吸い込まれていく
「――っ!」
(これは、まさか……!)
咄嗟に手を放した譚が、その場に膝から崩れ落ちるのを背後から見ていた読真は、その光景に驚いて慌てて小さな先輩司書のもとに駆け寄る
「大丈夫か、譚!?」
「お嬢!?」
膝から崩れ落ちた譚に、読真とモノスが同時に声をかける
「……大丈夫ですよ」
「!?」
(あれ、今声が……?)
地面に両膝をつき、うずくまるようにしていた譚が穏やかな声音で返してきた言葉に、読真は訝しげに眉をひそめる
「譚……?」
今まで無機質に淡々と発せられていた抑揚の小さな譚の声が、陽だまりを思わせる穏やかな声音で響いたことに眉をひそめた読真の耳には、気のせいかその声が大人びて感じられ、まるで別人と話しているかのような違和感を覚える
目の前にいるはずの譚が全くの別人に変わってしまったかのような違和感に、胸を締め付けられるような漠然とした不安を覚えた読真はうずくまっている先輩司書の顔を覗き込むように顔を近づける
すると、顔を上げた譚の水晶のような鋭い視線と読真の視線が交錯し、二人の視線が拳三つ分ほどの距離で交わされる
「何ですか? あなたの顔が近くにあると気持ち悪いんですが?」
「お前な、人が心配してやってるのに……」
その眉をわずかに不快げにひそめた譚の言葉に抗議の声を上げようとした読真だったが、当の本人は何事もなかったかのように立ち上がり、その場から歩き去っていく
「って、オイ! 聞いてるのか!?」
(気のせい、か……)
心配していた自分を馬鹿馬鹿しく思いつつも、いつも通りの譚の言葉に安堵を覚えている読真の言葉に、小さな司書は足を止めて肩越しに視線を向ける
「まったく、味方殺しの武器とは、あなたらしい幻想心器ですね」
「味方殺し?」
その言葉の意味を掴みあぐね、訝しげに眉をひそめた読真に、譚は抑制のきいた淡々とした口調で言葉を続ける
「ええ。先ほどそれに触れてわかりました、あなたの幻想心器の能力が。ですから、それを私に向けないでくださいね。不愉快ですから」
「…………」
「味方殺し」と称された自身の幻想心器――心なしか、その真紅の宝珠の輝きを強めているように見える両刃の短剣を手に取った読真は、自身の心が形を変えたものだというそれに視線を落とす
『正常な異常』
「?」
手に取った自身の幻想心器に、複雑な表情を向けていた読真の耳に、抑制の効いた譚の静かな言葉が届く
「あなたの幻想心器の名前です」
「勝手につけるなよ!」
言葉の意味を理解できず、首を傾げた読真は、次いで譚から向けられた静かな答えに抗議の声を返す
「では、なにかよい名前があるのですか?」
「え? べ、別にそういうわけじゃないけど……」
譚から容赦のない切り返しを受けた読真は、その問いかけに唇を尖らせて不満を表明する
「では、それで決定です。いいですね? 異論は認めませんよ」
「……ったく」
傍若無人に振る舞う先輩司書の言葉に、渋い表情を浮かべた読真は、不本意ながらも嫌々それを承諾する
とはいえ、自分で名前を付けるのも少々気恥ずかしいところがあったため、譚がつけてくれるというのならば、それはそれで構わないという考えもほんの少しだけあることを読真は自覚しつつ、自分の手に握った短剣――正常な異常と名付けられた自身の幻想心器に視線を落とす
「あ。っていうか、お前が幻想心器を使えばよかったんじゃないのか?」
まるで鏡のような刀身を介して自分自身と視線wの交錯させていた読真は、その時、ふと思いついたように譚に視線を向ける
幻想司書になったばかりの読真には、幻想心器のことを失念していたため気付かなかったが、自身の幻想心器を手に入れた今となっては、譚がそれを使ってあの場を切り抜ければよかったのではないかという考えが浮かんでくる
思いついてみれば何のことはないことだが、今の今まで譚が幻想心器を持っていることがすっかり頭から抜け落ちていた読真が追及するように視線を向けると、小さな先輩司書は呆れた様子でため息をつく
「あなたは馬鹿ですか? できるものならとっくにやっています」
「……!」
譚の言葉に、読真は小さく目を瞠る
「まさか、私が嫌がらせで幻想心器を使っていなかったとでも思っているのですか?」
目を丸くして驚いたような様子を見せる読真を見た譚は、その形の良い眉をわずかに動かして冷ややかな視線を無礼な後輩司書に向ける
譚には、幻想心器を使いたくても使えない理由がある。読真の、「わざと使わなかったんじゃないか?」という不本意極まりない無礼な言葉に、人形のような幻想司書は、機嫌を損ねたような表情と視線を後輩司書に向ける
「い、いや、そんなことは……」
疑念と追及の意思を帯びた譚の無機質な視線を受けた読真は、冷や汗をかきながら、慌てた様子で弁解を図る
(ちょっと思ってた)
語尾を揺らし、慌てふためいている馬鹿正直で分かり易い読真の反応に、辟易した様子でため息をついた譚は、その目を伏せて後輩の司書に背を向ける
「目が泳いでますよ」
「……」
自身の嘘が見抜かれていることに渋い表情を浮かべた読真は、これ以上墓穴を掘らないように思案し、この場をしのぐために、譚が幻想心器を使えない理由を懸命に考察する
「ってことはあれか? お前の幻想心器は、戦いには向いてないってことか?」
「読真」
話題を変えるため、やや強引だが話題をそらした読真の言葉を聞いた譚は、そちらへ視線を向けることあく瞼の下に瞳を隠したまま淡々と言葉を続ける
「人には、聞かれたくないことや、答えたくないことがあるのですよ?」
遠まわしに、「これ以上その話題を出すな」と口にする譚の言葉と、無言の圧力を受けた読真は、その理由を理解できないまま、疑問と不満をにじませた表情を浮かべて応じる
「分かったよ」
「よろしい」
渋々といったようすで了承の意を示した読真の言葉に、譚は瞼の下に隠されていた水晶のような視線を向けて優しく語りかけると、そのまま視線をそらす
「なんなんだよ、あいつ……」
自分に対する扱いに不満を抱く読真は、何も語ることなく背を向けて歩き去っていく譚の後ろ姿を見送りながら、小さく独白する
一方、読真からの視線など意にも介した様子のない譚は、先程正常な異常の刀身に触れた自身の手に目を落とし、軽くその手を握り締める
「……運命とは奇異なものですね」
「お嬢……?」
自嘲しているとも、歓迎しているとも取れる表情と声音で独白した譚の言葉に、モノスは怪訝そうに問いかける
譚の秘密を知っているモノスにとって、今の譚の言葉と作り物のように整った表情の下に垣間見える表情には疑問を禁じ得ないものがあるのはまぎれもない事実だ
「あの幻想心器――読真らしいといえば、読真らしい能力ですね」
モノスの言葉に小さく肩をすくめて見せた譚は、肩越しに自分の心の中に幻想心器を収納する読真を見て、わずかにその表情を綻ばせる
「どうやら、希望が見えたようですよ、謡……」