p5 鬼退治
幻想心器――それは、幻想司書の証。この本の世界の断片が、その使用者たる幻想司書の心を力としてこの世界に顕現させるために取った形。――悪夢と戦い、これを排除しこの本の世界を守り、司る秩序の力だ
「これが、俺の幻想心器……!」
自身の両腕に装着されている白甲を見て声を漏らした読真は、そこから伝わってくる形容しがたい力の脈動と、自身の心とは思えないほどに美しい吸い込まれるような白に息をのむ
初めて見るはずなのに、まるで鏡に映った自分を見るような、何気ない安心感と懐かしい感覚を覚える幻想心器に視線を落とす読真は、白の手甲を纏う自身の手を軽く動かしてから拳を握る
まったく重さを感じず、加えて腕に何かつけているという違和感がない手甲は、文字通りの意味で「自分の一部」といった存在感を持っていた
「君って、仙人だったの?」
「仙人?」
自身の腕に顕現した幻想心器を見つめていた読真に、その襟首を掴んでいた小雉が驚きの色を帯びた声で問いかけてくる
「うん、私たちみたいに、桃楼樹の実を食べて永遠の命と仙気っていう力を授かった者と、その力を受け継ぐ子孫を『仙人』っていうんだけど……違うの?」
仙人という言葉を聞いて首をかしげた読真に、小雉はその内容を咀嚼して再度問いかける
鬼はその能力において人間をはるかに上回る超越的な存在。当然、そんな鬼に対抗するにはただの人間では到底及びえない。
ゆえに鬼と戦う力を持っているのは、かつて神の樹と呼ばれていた「桃楼樹」が咲き誇っていた時に、その実を食べて不老不死と仙気と呼ばれる力を得た者とその末裔――「仙人」だけ。桃太郎、戌彦、申彦、小雉も当然、その仙人に属する存在だ
「え、えっと……」
「似たようなものです」
どう説明していいものかわからず、小雉への返答に言葉を詰まらせている読真を一瞥し、助け船を出した譚は、幻想司書としての力に覚醒した後輩に無機質な視線を向ける
「それより読真、せっかく覚醒したのですから、その力を使って桃太郎さん達を助けてあげてはどうですか?」
「え?」
(コイツ、何言ってんの!?)
譚からの突然の提案に、読真は顔を引きつらせると同時に、その暴言に内心で抗議の声を上げる
いくら幻想司書になったとはいえ、元々どこにでもいる高校生でしかなかった自分には、戦闘経験はもちろん、訓練を受けたことさえない。せいぜい子供の喧嘩程度のものが一度が二度ある程度だ。
そんな自分が、桃太郎達と共に二体の大鬼と朱羅という中ボス的存在と対等以上に渡り合えるわけがないと思うのは当然の帰結だ
「できるの?」
しかし、そんな読真の思いとは裏腹に、譚の言葉に一筋の光明を見出している小雉から向けられる期待と縋るような願いが込められた声が、新米司書を確実に追い詰めていく
今の戦況は戦いの素人である読真から見ても芳しいとは言えない。桃太郎達の身を案じる小雉にとって、大鬼を吹き飛ばして見せた読真の力が仲間を助けてくれるかもしれないという可能性は、わずかながらも確かな希望だった
「え、えっと……やってみないと、それはなんとも……」
そんな小雉の縋るような思いを言葉の端々から感じ取り、読真は目を泳がせながら言葉を濁す
インパネスコートの襟首を掴まれた状態で宙づりにされている読真からは、小雉の表情をうかがい知ることはできないし、その逆もまたしかりだ
しかし小雉の声から、縋るような希望を抱きつつも、それを押し付けることはできない、小雉たちから見れば、偶然出会った一般人を危険にさらすようなことができないという感情を、容易に推測できた読真に、「無理」という答えを返すことはできなかった
(俺のばか! なんで、できないって素直に言えない!)
戦わないことを責めることはせず、助けたことも恩に着せない小雉の言葉が、逆に読真の良心を苛み、ここで「戦えません」という言葉をすんでのところで喉の奥に押し込めてしまう
そんな読真の心情をどこまで小雉が読み取ったのかはわからない。しかし、光の力で天を舞う巫女服の少女は、しばしの逡巡の末、自身のわがままと期待を押し付けることを選択する
「お願いします。桃たちを助けてあげてください」
優しく、静かに響く小雉の声が読真の耳に届き、その心を大きく揺らす
読真も、助けてもらった恩を別にしても、桃太郎達を助けてあげたいのは山々だ。しかし自分にそれだけの力があるかどうかも疑わしい以上、下手に足を引っ張るようなことはしたくない。
無理といっても、おそらく小雉たちは自分を責めないだろうが、現在進行形で自分を苛む良心の呵責がより一層重いものになるであろうことが、読真の決意を鈍らせ、結果的に一つの言葉を絞り出す
「……俺、ほとんど戦闘経験がないんですけど」
「わかりました。私が全力でフォローします」
(だよネ~。なら戦わなくていいです、とは言ってくれないよね……)
打てば響くようなタイミングで返された小雉の言葉に、読真はがっくりとうなだれて、生気が抜けた自嘲交じりの笑みを浮かべる
「諦めなさい、読真。今こそあなたの、妄想と煩悩の力を知らしめるときです」
「戦闘経験がないなら、危ないことはさせられませんね」という答えを期待していた読真の目論見が無残に砕け散り、もはや成す術もなくなったことを見て取った譚は、その仮面のような表情に微笑を浮かべて応じる
「そういう言い方やめてくれる? わざとだろ?」
幻想心器は、幻想司書個人に応じて、世界の欠片が形を変えたもの。極論をすればその人間の根幹ともいえる部分が顕在化していると言えなくもない。
それを指して、妄想、煩悩と言い放つ譚に意義を述べる読真だが、先輩司書がそんなことを意に介するはずもなく、いつものように軽くあしらわれる
「失礼ですね。意図的に、悪意を持ってあなたを貶めているだけです」
「同じことだよ! っていうか、余計に性質が悪いわ!!」
(なんていうか、ちょっと不安になってきたかも……)
緊張感がないのか、あるいは単に大物なのか分からない読真と譚のやり取りを聞きながら、小雉は光の翼を制御して、中空を縦横無尽に飛び回りながら、起き上がった大鬼に視線を向ける
「行きます!」
「くそ……っ、もうどうなっても知らないからな!!」
半ばやけくそになって言い放った読真は、純白の手甲を纏った拳を握りしめ、矢のように空中を走る小雉に引っ張られながら大鬼を睨み付ける
「グオオオオッ!」
自身に向かって飛翔してくる小雉を見止めた大鬼は、天を飛ぶ雉を叩き落とそうと、その剛腕を力の限り振り払う
「――っ!」
鈍く不気味な音とともに唸りをあげて襲い掛かってくる腕を見た小雉は、それに意識を集中して攻撃をかいくぐり、紙一重の距離で大鬼の顔を掠めていく
必然、大鬼の意識は自身の視界を掠めていく小雉に向けられるが、すでにその瞬間にはその左手から読真の姿は消えている
「こっちだ!」
大鬼が視界を横切った小雉に気を奪われた一瞬、すれ違いざまに空中に残された読真は、幻想心器をまとった腕を構えて大鬼の顔面に肉薄していた
「うおおおおおおっ!」
空中に投げ出された状態で、読真は渾身の力を込めた腕を大鬼の顔面に叩き付けると、その巨躯がわずかによろめき、それと同時に小雉が読真を回収して上空へと舞い上がっていく
「やった!」
「いえ、やってませんよ」
渾身の一撃を決め、安堵と自信に満ちた笑みを浮かべる読真に、譚からの冷ややかな言葉が向けられる
譚の透き通った瞳が見据える先には、さきほどの一撃など意に介した様子もなく大勢を立て直した大鬼の姿があり、読真の攻撃がさほどダメージを与えていないことを容易にうかがい知ることができる
「見た目の割に意外と使えませんね。もしかして、持ち主と同じで無能なのでしょうか?」
「お前、本当にいい加減にしろよ」
幻想心器での攻撃を加えたにも関わらず、大したダメージを受けた様子のない大鬼を見て思案気に眉をひそめた譚の毒吐く独白に、読真は辟易した様子で応じる
とはいえ、自分の攻撃がさほど効いているようには見えないのも事実。このままではあとで何を言われるかも分からないこともあって、読真は左手の手甲に備え付けられた十字型の短剣を取り外す
「なら、これなら、どうだ!!」
その中央に真紅の宝玉を嵌められた、純白の柄と金色の装飾を施された短剣を手にした読真を見て、小雉は再度光の翼をはばたかせて一直線に大鬼に向かっていく
当然大鬼は、自分に向かってくる小雉を叩き落とそうとその剛腕を振り回すが、天を舞う巫女はそれを紙一重で回避しながら一直線にその頭部に向かって飛翔する
「――っ!」
大鬼は破壊衝動の塊だが、決して馬鹿ではない。小雉が自分の攻撃をかいくぐることを予測し、それを限界までひきつけると同時に、その顎を大きく開いて口腔内に膨大なエネルギーを収束する
「譚ちゃん、読真さん少し我慢してください」
そう言い放った小雉は、譚と読真を掴んでいた手を放し、光とともにその腕の中に和弓を顕現させると、同様にその手の中に顕現させた矢を番え、弦を引き絞る
小雉に宿る力――仙気をまとった矢は、清廉な音とともに解放され、まるで生きているかのように宙を奔って大鬼の口腔内に吸い込まれる
「ガ、ア゛ッ!!
狙いすまして放たれた光の矢は、鬼が破壊の光を放つよりも早く口腔内に吸い込まれ、そこに蓄積されていた膨大なエネルギーを暴発させ、大鬼の巨体をよろめかせる
「今!」
それを見るが早いか、はじかれたように飛翔した小雉は空中に置いてきた譚と読真を回収し、そのまま一直線に大鬼の頭部に向かって飛翔する
口腔内への一撃で確実に生じた大鬼の一瞬の隙。それを逃さずに肉薄した小雉は、しかし次の瞬間、爛々と光る眼が睨み付けたのを見て目を見張った
「しまっ……っ!」
大鬼に誘い込まれたことに気付いた小雉だが、時すでに遅く、距離を近づけた分、鬼の攻撃の射程範囲に飛び込んでしまっている以上、回避は不可能に近い
まさに飛んで火にいる夏の虫といった状態で、向かってきた小雉たちに向け、大鬼の口腔に光が集った次の瞬間、乾いた炸裂音とともに、鬼の頭部が大きく仰け反る
「ガッ……!」
目を抑え、苦悶と苦痛の声を上げた大鬼の咆哮を聞きながら、視線を横に向けた小雉は、白煙を立ち昇らせる銃口を大鬼に向けている譚の姿を見る
「ありがとう」
「お礼には及びません」
譚に感謝の言葉を述べた小雉は、この好機を逃すまいと全速力で大鬼との距離を一気に詰める
「お願いします!」
小雉の言葉に、手にした短剣を握る柄に力を込めた読真は、そのまま加速を利用し力任せにその刃を鬼の頭部に突き立てる
「おりゃああああっ」
読真の手に握られた短剣は、小雉の飛翔速度による加速を加えたこともあってか、まるで豆腐に箸を突き刺すように軽々と大鬼の額にその刀身をうずめ、深々と突き刺さる
そして、その刹那、大鬼の頭部が大きく歪んだ
「……!」
目を見張る譚たちの眼前で、大鬼の額に突き刺さった刃を中心に、その頭部を含めた空間が捩じられたかのように歪み、地面と空までも含めた空間そのものが渦を巻く
「うわっ!?」
突如起きた変化に戸惑った読真が柄から手を放した次の瞬間、光が炸裂し、ねじられた空間が両刃の短剣の刀身に吸い込まれ、同時に鬼の頭部がこの世界から消失する
「あれは……」
(空間ごと吸収した!?)
頭部を消失し、その場に力なく崩れ落ちる大鬼の姿を視界に収めながら、譚は読真の手を離れ、空中に取り残された短剣を見ながら、その形の良い眉をひそめる
(あれが、読真の幻想心器の能力……)
柄から手を離した所為で空中に投げ出され、小雉に回収された読真を一瞥した譚は、重力に引かれて地面に落ちていく短剣に視線を送る
「何だ、今のは!?」
大鬼の頭部が一瞬にして消失した様を見ていた朱羅は驚愕を隠しきれない様子で声を荒げる
大鬼は、対大規模戦闘や要塞防衛に用いられる鬼側の強力な存在。極めて高い硬度と破壊力、獣のような身体能力と殺戮本能のみで構成されており、それを一体倒すのは容易なことではない。
その大鬼の頭部が一瞬にして消失するという光景は、長い間鬼の将として戦いの最前線に立っていた朱羅をしてなお、記憶にないほどの衝撃的な光景だった
そして、だからこそ朱羅は動揺していた。今まさに自分が戦っている相手――桃太郎から意識を放してしまうほどに
「しまっ……!」
朱羅が気付いた時には、青白い燐光を帯びた霊刀・黍団子を手にした桃太郎が、自分の間合いに入り込み、その刃を振りぬいていた
「はああああっ!」
天を衝く青光とともに、振りぬかれた刃の軌道が刻み付けられ、同時にその身体に逆袈裟の傷跡をつけられた朱羅が、鮮血をまき散らしながら力なくその場に仰向けに崩れ落ちていく
「ちっ……」
油断し、桃太郎の太刀を受けた朱羅は、己の失態を自嘲すると同時に、自分を倒した仇敵への賞賛と、戦いが終わったことを惜しむ笑みを浮かべて、抜けるように高い青空に視線を向ける
「すまない、こんな決着で」
血の海に体を横たえ、天を見つめる朱羅の耳に、黍団子を鞘に納めた桃太郎の言葉が届く
戦いに勝ったというのにその表情は曇っており、どこか申し訳なさそうな――不意を衝くという形で戦いの幕を下ろしてしまったことに対するうしろめたさのような感情が宿っていた
桃太郎が戦いを好まない性格であることも、それでにあるにもかかわらず他者の気持ちを組んでくれることをこれまでの戦いの中で見てきた朱羅は、それが戦いを好む自分に対する桃太郎の負い目からくる感情だと知っている
「謝るんじゃねぇよ、勝ちは勝ちだ――坊ちゃん」
だからこそ朱羅は、自分に曇った表情を向けてくる桃太郎を一瞥すると、静かに目を伏せて、一呼吸ののち、眠るように息を引き取る。
次の瞬間、戦いに敗れ、おそらく完全燃焼できなかったにも関わらず、清々しいほど晴れ渡っている表情を浮かべたまま眠るようにこの世を去った朱羅の体が燐光に包まれて崩壊し、世界に溶けていく
「…………」
小さな光の蛍となって世界に散っていく朱羅を見送った桃太郎が視線を向けると、そこには大鬼を仕留めた戌彦と申彦が傷だらけになりながら佇んでおり、次いでその視線を別の方向に向ける
その視線の意味することを理解している桃太郎は、天空を小雉に吊られて舞う譚と読真の姿を見ていぶかしげに眉をひそめる
「それにしても、彼は一体何者なんだ……?」
小さく独白した桃太郎の瞳には、小雉に運ばれて地面に降りた読真が疲れた様子で腰を下ろす姿がはっきりと映し出されていた