p1 人生の終わりと物語の始まり
深く、果てしなく広がる広大な空間。まるで星空のように広がったその虚空の中を、はるか天空に向かって移動する影があった
「お嬢、もうすぐやで」
「ええ」
どこか軽薄そうな印象を受ける男の声に、抑制された女性の声が応じる。その進路には、まるで深海の底から水面へと向かっているかのように煌めく光が導となって誘っている
「この先が外の世界――そして、彼のいる場所……!」
小さく抑制された少女の声は、広大に広がる星空の如き空間の中に溶け、そして導の光の中へと吸い込まれていった――
本とは知識と知恵と希望と夢の塊である。そこには誰かの成功譚が書かれており、それを読んだ者にまるで自分もその主人公のようになれたような錯覚を与える。歴史上の偉人しかり、現代のカリスマ然り、ファンタジー世界の勇者然り。
本に描かれているのは事実と空想、ある意味において善悪含めた人間そのものが描き出されていると言ってもいいだろう
先人たちの歴史や知恵、あるいは現代を生きる人間の願望など、様々な一面が文字によって綴られた本が整然と並べられた本棚が無数に立ち並び、まるで世界の英知がすべて詰まっているのではないかと思われるような空間の中、一人の少年が手に持った本を棚に戻す作業を淡々と繰り返していた
「ご苦労さん、本屋。それが終わったら帰っていいぞ」
「あ、はい」
本棚の隙間から顔をのぞかせた中年の男性の言葉に応じた「本屋」と呼ばれた少年は、最後の一冊を本棚の中に戻して盛大にため息をつく
「あぁ~。図書委員ってダル……っ。楽そうとか思って立候補しなけりゃよかった」
己の浅はかさに今更ながら後悔しながら、少年――「本屋読真」は、辟易した様子で呟く
さほど特徴の無い平均的な日本人的顔立ちに黒髪という一般的な人物。お世辞にも美形とは言い難いが、決して不細工というほどではない顔立ち。
良く評価すれば上の下、低く見積もっても中の下ほどの容姿を持った青年は、学校指定のブレザーを纏って、図書室の中に一人残っていた
そう。ここは、どこにでもある普通の公立高校の図書室。下校時刻が間近に迫り、人気が無くなって閑散とした図書室の中で、図書委員を務める読真は、最後の片づけを終えたところだった
図書委員をやっているからと言って特に本が好きという訳ではない。両親は出版社に勤めているが、だからと言って本が好きな訳ではない。無論、全く読まないという訳ではないが、読真が購読する書籍の大半がマンガを占めている
図書委員に立候補したのは、ただ単に楽できそうだったから。もっと言えば、さっさと立候補して役をもらっておけば、クラス委員やら責任ある面倒な役割を回避する事が出来るなどという下世話な考えもあった
事実その目論見は成功し、さっさと立候補した読真は特に問題もなく図書委員に選ばれ、こうして本に囲まれる生活を送っている訳だ
「ま、体調不良は仕方ない事だけど、今日みたいなのはこれっきりで勘弁してほしいな」
まるで身体の凝りをほぐすように軽くのびをして、読真は図書室のカウンターに置いたままにしていた己の鞄を手に取る
図書委員は原則図書室の整理を二人で担当している。当然読真にも、一緒に仕事をする他クラスの図書委員がいたのだが、その人物が体調不良で早退したため、今日は一人で仕事をする羽目になってしまったのだ
「ま、さっさと帰るか」
「あなたが、本屋読真ですか?」
鞄を担ぐように肩にかけ、読真が図書室を後にしようとした瞬間、背後から抑揚の小さい淡々とした女性の声がその足を引き止める
「へ?」
その言葉に少々驚き、反射的に機敏な動きで背後を振り返った読真は、そこに立っていた人物を見て小さく目を瞠る
「――っ!」
そこに佇んでいたのは、まるでお伽噺から抜け出してきた妖精の様な幻想的な雰囲気を携えた一人の少女だった
俗に言うインバネスコートと呼ばれる探偵が来ているイメージが強いコートによく似た白い服を身に纏い、ウサギの耳を彷彿とさせる飾りがついた白色の丸い帽子を被っている。
十代前半から十代後半といった印象の顔立ちをした少女は、人形のようなという表現がよく似合う人間味に欠けた美しさを持って、金色の髪の下から見える少しつり上がった鋭い目で読真を見据えている
背は低く、おそらく百五十センチ前後だろうと思われるが、それが逆に少女の浮世離れした存在感を際立たせ、妖精のようなという形容が相応しい雰囲気を醸し出している
(可愛い子だな……)
今まで見た事がないような美少女を前に息を呑む読真を、しばし貼り付けた面のような表情で見つめていた少女だったが、沈黙に耐えかねたのか、小さくため息をついて口を開く
「私に見惚れるのは自由ですが、私の質問に答えてもらえますか?」
「なっ、誰が見惚れて……っ」
図星をつかれ、わずかに頬を赤らめた読真が動揺を露にした声を発すると、それを受けた妖精のような浮世離れした少女は、小さくため息をついて自分より頭一つ分は背の高い少年に鋭い視線を向けて言い放つ
「長々とやりとりをするつもりはありません。あなたは私の質問に簡潔に答えればいいのです。猿ほどの知能があるかも怪しいあなたのためにもう一度言いますよ? ――あなたが本屋読真ですか?」
(……この野郎)
慇懃無礼、傲岸不遜――黙っていれば妖精のような印象を受ける美少女が放った事が空そんな言葉を思い浮かべて怒りを覚えた読真だが、明らかに自分より小さな少女に対して感情を露にしてはいけないと、気分を落ちつけ、可能な限り平静を装ってそれに応じる
「そうだけど? あんたは?」
平静を装って憮然とした様子で答えた読真の言葉を聞いた少女は、これまで淡白だった仮面のような表情に微笑を浮かべてゆっくりと歩を進める
「よかった。私はあなたを迎えに来たのですよ」
「いや、答えろよ……って俺を迎えに来た?」
質問に答える様子の無い少女に一瞬不機嫌そうな声を向けた読真だったが、すぐにその言葉に引っ掛かりを覚えて怪訝そうな表情を浮かべる
「はい。――では本屋読真さん」
仮面のような表情に笑みを浮かべた少女は、トレンチコートを思わせる白い服の懐に右手を差し入れ、そこから妖しい銀色の光を放つ一丁の銃を取り出す
「死んでください」
「は?」
その瞬間、少女の手に握られていた銃が火を噴き、成す術もなく読真の胸の中心を貫く
「……へ?」
一瞬何が起きたのか分からなかった読真だったが、一拍の間をおいて身体を貫いた激痛に、苦悶の表情を浮かべて膝から崩れ落ちて倒れこむ
(え!? 撃たれた……!?)
頬に床の冷たさを感じながら、突然の事に理解が及ばない読真は、しかし自分の身体から溢れ出し広がっていく真っ赤な染みを視界に捉えながら、かろうじて自分が少女の銃に撃たれた事だけを否応なく理解する
(痛い……痛い、なんで俺がこんな目に……っ)
「大丈夫です。私は上手なので、即死はしませんが、すぐに死ねるはずですよ」
傷口が焼けるように傷み、声を上げる事も出来ない中、突如己の身に理不尽に降りかかった事実にやり場のない怒りを覚えながら、読真はその目に涙を浮かべる
傷みで焼けるような傷みを生み出す傷口とは対照的に、読真の身体はまるで冷水に浸かっているかのように熱が奪われていき、凍えるような感覚が身体の端から、そして意識を徐々に侵食していく
(俺死ぬのか……? くそ……なんで、なんで……)
読真には死にかけた経験などありはしない。しかし、今自分を襲っている感覚が、死の予兆であることだけははっきりと理解できる
まるで底の見えない暗黒の沼に沈んでいくような感覚――。振りほどく事の出来ない何かにとらわれ、今までいた生の場所から死の中へと引きずり落とされる恐怖。
霞みがかっていく視界の中、読真の目に最後まで焼き付いていたのは自分を殺し、そして自分が息絶えていく様を、まるで作業を終えた機械のような無感情な瞳で見下ろしている名も知らぬ少女の姿だった
(く……そ……っ)
静寂が支配する暗黒の世界。何も聞こえない、何も見えない、何一つ感じない――死によってあらゆる生のしがらみから解き放たれた読真の意識は、それであるが故にどうしようもなく孤独で、虚な空間を漂っていた
(そっか……人間は、死んだら本当に一人になるのか……)
抗う事の出来ない流れに呑まれ、凍えるような冷たい水の中へと沈んでいく読真は、あまりにも孤独な死の感覚に浸っていた
「いつまで寝ているのですか」
「痛っでぇえええええっ!!」
しかし次の瞬間、読真は淡々とした声と共に額に奔った激痛に目を見開き、弾かれるように飛び起きて、悶絶する
何をされたかは分からないが、これまでの人生では味わった事のない傷みにもんどりうってうずくまった読真は、顔を上げて涙目で自分の眼前に立っている人物を見止める
そこにいたのは、紛れもなく自分を撃ち殺した少女。自分を殺したというのに何事もなかったかのような表情で立っている少女に、読真の中には己を殺した少女への怒りが沸々と湧き上がってくる
「あ、お前、よくも……?」
声を荒げ、感情のままに言葉を吐き出そうとしたところで、読真はある事に気づいてその言葉を呑み込み、自分の身体に視線を落とす
「あれ? 生きてる?」
今更になって殺されたはずの自分が生きている事に気づき、自分の身体を確かめるように手で触った読真は、自分の身体が確かにここに存在しているのを確認して目を丸くする
(傷が……ない?)
自分の記憶の中に確かにある銃で撃たれた記憶と生々しい傷み。しかし、今の自分の身体にはそれらが嘘だったかのように傷一つなく、それどころが血の跡さえない
「どういう、事だ……?」
自分の身に起きた事が理解しきれず首を傾げた読真を観察していた少女は、ここにきてようやく口を開いて話しかける
「説明するよりも先に見た方が早いでしょう?」
微笑混じりに声で読真に語りかけた少女の視線に導かれるように、その方向――自分の背後へ視線を向けた読真はそこに広がっていた光景に言葉を失った
「なっ……!?」
読真の視界に広がっているのは、雲ひとつない白い空。曇っているのでななく、空そのものが白いという異質な天には、無数の光の束が天の川のように横たわり、天の頂には羅針盤のような太陽が輝いている
そしてその下にそびえ立っているのは、ゴシック建築によく似た様式で作られた、洋風の城を思わせる重厚で巨大な建築物。
圧倒的存在感を伴って立ちはだかるそれは、あまりに巨大で人のそれと言うよりは神の被造物である事を思わせる荘厳にして雄大な造りをしている
「すげぇ……」
この世のものとは思えない幻想的な美しさと、その存在をはっきりと認識させる圧倒的存在感。相反する二つの事象を伴って存在する建築物に、読真はただ目と心を奪われていた
自分がいる見たこともないような場所に、読真は混乱する以前に惹きこまれ、まるで好奇心に目を輝かせる子供のような表情でその幻想的な世界に視線を送る
「よい表情です」
自分の傍らを楚々とした表情で通りすぎた少女の言葉で我に返り、子供のように熱中していた自分を思い返して頬を赤らめた読真は、それを誤魔化すように巨大な城を背にして佇んだ白いコートの少女に問いかける
「――っ、で結局、ここはどこなんだよ?」
その言葉でコートの裾を翻らせて読真に視線を向けた少女は、あえて恭しい所作で礼をすると、感情の抑制された厳かな声音で言葉を紡ぎ出す
「では、改めまして。本屋読真さん。私の名は『譚』。幻想司書です」
(譚……幻想司書?)
「そして――」
譚と名乗った少女は、耳から自然と入り、記憶に刷り込まれる澄み切った声で読真に視線を送り、手を使ってこの空間、この世界を指し示してその表情をわずかに綻ばせる
「ようこそ『本の世界』へ」