7・反撃
「――秋津剛士さん。お話があります」
スタジオに現れた弁護士アイドル・緋山瑞姫さんは、秋津さんの前に立ち、右手に腰を当て、挑発するように顎を上げた。
瑞姫さんが、来てくれた――。
忠告を守らず、勝手に行動したあたしは、瑞姫さんに見捨てられたと思っていた。もう、頼れる人はいないと思っていた。もう、誰も助けてくれないと思っていた。もう、あたしの夢は終わりだと思っていた。
でも、瑞姫さんは来てくれた。
希望が、ほんの少しだけ、見えた気がした。
でも。
「あん? 話?」あからさまに不快感を表す秋津さん。「昨日の話なら、お前がいない間に片が付いたぜ。なぁ、木村」
「はい――」木村弁護士は、背広の内ポケットから例の書類を出した。「これは、『秋津は秦野さんに対してセクハラ行為を行っていないが、誤解を招く行為を行い、結果として精神的苦痛を与えてしまった。それに対する慰謝料として100万円を支払い、今後一切、そのような行為は行わないことを誓う』、という書類です。秦野さんはそのことに同意し、100万円を受け取り、書類にサインをしました。すでに和解が成立しております」
「――というわけだ」秋津さんは勝ち誇ったように笑う。「今さら来ても、遅いんだよ。あの書類がある以上、俺をセクハラで訴える、なんてふざけたマネはできないぜ? なんせ、秦野自身が、セクハラは無かったって認めたんだからな」
――そうだ。
せっかく瑞姫さんに来てもらったけど。
秋津さんの言う通りだ。
あたしは、確かに書類にサインをした。騙された、とも言えない。木村弁護士は、最初にちゃんと説明していたのだ。深く考えずにサインしたあたしに非があるのは、否定できない。
でも。
瑞姫さんが来てくれただけでも良かった。
あたしの味方をしてくれる人が、1人でもいてくれる。あたしが間違ってないと思ってくれる人が、1人でもいてくれる。
それが分かっただけでも、あたしの心は救われた。
だから――もう十分だ。
そう伝えようとした。
でも。
「申し訳ありませんが――」瑞姫さんは、木村弁護士の取り出した書類をチラリとも見ずに言う。「今日は、その件で来たのではありません」
――セクハラ行為の件で来たのではない?
じゃあ、何しに来たのだろう?
秋津さんも、木村弁護士も、瑞姫さんの目的が分からないようで、顔を見合わせる。
瑞姫さんはゆっくりとした口調で言った。「今日、警察が、暴力団組織の嘉十組事務所を一斉捜索したのは、ご存知ですよね?」
――へ? 嘉十組事務所の捜索?
確か、昨日瑞姫さんとニューススタジオに行った時、男性キャスターがそんなニュースを伝えていたと思うけど。
それが、何の関係があるのだろうか?
あまりに予想外な話が出てきて、秋津さんと木村弁護士は顔を見合わせた。
「……まあ、ニュースで見てそれくらいは知っているが、それが何だってんだ?」秋津さんが瑞姫さんを睨む。
「実はあたし、今日1日、警察の捜索に協力していたのです」
「はぁ? 警察の捜索に協力?」すっとんきょうな声を上げる秋津さん。
「はい。警視総監から直々に依頼がありまして。科捜研へ応援に行ってました。それで、お昼はここに来ることができなかったのです」さらりとした口調で言う瑞姫さん。
……そう言えば、昨日会った時、そんなことを言ってたな。冗談で言ってるのかと思ってたけど、ホントだったんだ。
しかし、当然秋津さんはそんな言葉を信じるはずも無く、声を上げて笑う。「――そんな冗談を言いに、わざわざ来たのかい? ご苦労なことだな」
「冗談ではありませんよ?」真剣な目で秋津さんを睨む。「なんなら、警察に問い合わせてみてください。それとも、あなたの好きな総理大臣に証明してもらいましょうか?」
秋津さんの顔から笑みが消えた。「――仮に本当だとして、だったらなんだって言うんだ?」
「今日の一斉捜査の目的は、最近関東一帯で頻発している暴力団同士の抗争が、嘉十組組長の指示によるものかどうかを調べるためです。あたしが依頼されたのは、嘉十組で使われていたパソコンの捜索です。知ってますか? パソコンのデータって、ゴミ箱に入れて削除するだけでは、完全には消えないんですよ。表面上見えなくなっているだけで、内部にはまだ残っているんです。完全に消すためには、専用の削除ソフトを使わないといけません。まあ、嘉十組の組員もそのことは知っていたみたいで、市販のソフトを使ってデータを消してありました。でも、そんなもの、あたしの手にかかれば何の意味もありません。削除されたデータを全部復元したら、その中に、おもしろいものがありました」
そう言って、瑞姫さんはポケットから1枚の写真を取り出した。
それを見て。
秋津さんの顔が、みるみる青くなっていく。
なんだ? なんの写真だ? あたしの立っている位置から写真は見えない。いったい、何が写っているんだろう?
瑞姫さんは、ゆっくりとした口調で続ける。「嘉十組の組長が、食事をしている写真です。その隣に座って楽しそう笑っているのは――秋津さん、あなたですよね?」
――――!!
暴力団の組長と一緒に写った写真!?
秋津さんは昔、暴力団と交際があるとウワサされていたらしい。そのことが週刊誌に書かれ、裁判になったけど、証拠が無くて秋津さん側が勝った、と、ドラマのスタッフが言っていた。でも、本当に交際があったとしたら、それはマズイぞ!?
瑞姫さんは表情を崩さず続ける。「暴力団排除条例、ご存知ですか? 『暴力団を利用しない』、『暴力団に金を出さない』、『暴力団を恐れない』、という、3つの基本理念から成り立っています。平成23年10月1日、この3つに、『暴力団と交際しない』という項目が追加されました。これらに違反すると、暴力団との密接交際者として、行政の要注意人物リストに掲載され、様々な社会的制裁を受けることになります。そうですよね? 木村弁護士?」
瑞姫さんと、そして秋津さんが、同時に木村弁護士を見る。木村弁護士は、気まずそうに目を伏せた。瑞姫さんの言う通り、と認めた証。
秋津さんは瑞姫さんに視線を戻した。「そんな写真は知らん! 俺はお前らみたいなヒヨっ子芸能人と違って、いろいろ付き合いがある。初めて会う人間と食事に行くなんて、よくあることだ! その中の1人に、たまたま暴力団の組長がいただけだろう! 俺はそいつが暴力団の組長だなんて知らなかったんだ! それに、それがいつ撮られた写真かは知らんが、条例が改定される前の写真なら、何の問題も無いだろう! 俺は今、そいつとは何の付き合いも無い! いや、その食事1回だけで、最初から接点なんて無いんだよ!」
苦しい言い訳だけど、確かに秋津さんの言うことも一理あるかもしれない。瑞姫さん、どうするつもりだ……?
瑞姫さんは相変わらず落ち着いた表情だ。
「そうですか。では、これはどうですか?」そう言って、今度はICレコーダーを取り出した。「今日の捜索では、パソコンの他に、組長の携帯電話も調べました。携帯電話もパソコンと同じで、データは、消してもまだ中に残ってます。まあ、これも組員は知っていたみたいで、携帯電話をハンマーで何度も叩いて破壊してました。もちろん、あたしの手にかかれば、そんなのはムダな作業です」
ピッ。ICレコーダーの再生ボタンを押す。
《――嘉十ちゃん。なんか、大変なことになってるみたいだね。嘉十ちゃんにはいろいろお世話になってるから、僕にできることがあったら、いつでも連絡してきてよ。じゃあね》
留守電のメッセージだ。ややノイズが入りくぐもってはいるものの、それは間違いなく、秋津さんの声だ!
停止ボタンを押す瑞姫さん。「今日の深夜2時頃に録音されたメッセージです。随分親しそうなメッセージですね? 本当に、何の接点も無いんですか?」
秋津さんは、顔を真っ赤にして言う。「そ……そんなものは知らん!! これは何かの間違いだ!! そうだ! 今の技術なら、合成音声でそのくらい簡単に作れるだろ!! さっきの写真だってそうだ! デジタルカメラなら、合成写真なんて簡単に作れるはずだ! そんなものが、何の証拠になる!!」
「証拠になるかならないかを判断するのは、あなたではなく裁判所です」瑞姫さんは不敵に笑い、ICレコーダーをポケットにしまった。「それに、あたしは別に、秋津さんを条例違反で訴えようというわけではありません。ただし、先ほどの写真と音声は、秋津さんの芸能事務所、各テレビ局、そして、秋津さんが出演しているテレビ・ラジオ番組等のスポンサー、CM契約されている企業などに、メールで送らせていただきました。企業はイメージを大切にしますからね。真相はどうあれ、そういうウワサが絶えない人を、どう扱うでしょうね? 当然、今までのような俳優活動はできなくなるでしょう。まして政界進出なんてムリだと思います。でもまあ、秋津さんほどの大物俳優であれば、どうにかなるかもしれませんね。権力が自慢のようですから。今まで秋津さんがお世話してきた人が、助けてくれるといいですね。じゃあ、せいぜい、火消しを頑張ってください」
瑞姫さんの挑発的な言葉に対し、秋津さんは血が出るのではないかというほどの力で奥歯をギリギリと噛みしめた。拳を握り、ブルブルと震えている。瑞姫さんはその姿を満足そうに眺め、やがて背を向けた。あたしの方へ歩いてくる。
「――瑞姫さん」あたしは、涙が出そうになるのを何とかこらえ、お礼を言おうとした。
でも、瑞姫さんに遮られた。「勘違いしないちょうだい。別に、あなたのためにやったんじゃないから。あなたがどうなろうが知ったことではなかったけど、あのスケベオヤジと三流弁護士が、あんな和解の書類程度のことであたしに勝ったと思われるのが、ガマンできなかっただけよ」
……そんなこと言って、この人、絶対あたしのこと、助けに来てくれたんだぞ。思った通り、瑞姫さんは悪い人ではなさそうだ。
「なにニヤニヤしてるの。気持ち悪いわね」
「いえ、何でもありません」あたしは、瑞姫さんをまっすぐに見つめ。「瑞姫さん。本当に、あ――」
お礼を言い、頭を下げようとした時。
「……この……くそ女ぁ!!」
突然、秋津さんが叫び。
拳を振り上げ、襲い掛かって来た。
振り返る瑞姫さん。
その、瑞姫さんの顔に。
秋津さんの振り上げた拳が振り下ろされる。
勢いで倒れる瑞姫さん。
「――瑞姫さん!!」
すぐに駆け寄るあたし。
瑞姫さんの左頬に、くっきりと、殴られた跡が付いていた。すぐに真っ赤に腫れ上がるだろう。殴られた拍子に口の中を切ったようで、唇の端から血が流れた。
瑞姫さんは、手のひらで血を拭い、秋津さんを睨みつけた。
「――傷害事件ですね。15年以下の懲役又は50万円以下の罰金。もちろん、治療費と慰謝料も請求します。あたしが女性でアイドルであることを考えれば、数千万にはなると思いますので、覚悟しておいてください」
「はん!! そんなこと、知ったことか!!」吼える秋津さん。「弁護士だか科捜研だか知らねぇが、女のくせに調子に乗りやがって。俺を誰だと思ってる!! 天下の秋津剛士様だぞ!! てめぇらが生まれるずっと前から、俺はこの世界で生きてきたんだ! 俺が今の地位を手に入れるのに、どれだけ苦労したと思ってやがる!! それを! てめぇみたいなクソ女に潰されてたまるか!! ブッ殺してやる!!」
再び拳を振り上げ、襲い掛かってくる秋津さん。
あたしは。
――――。
ぷっちーん。
キレた。完全にブチ切れた。
秋津さん――いや、もうこんな男にさん付けする必要はない。秋津め。逆切れして女の人に手を挙げるなんて、許せない!
あたしは、襲い掛かってくる秋津に背を向けたまま立ち上がる。
そして。
バク転の要領で、身体を逸らしながら後方に飛ぶ。
そのまま両手を床に着け、逆立ちすると。
勢いをつけた右足を、秋津の脳天に振り下ろした!
がん! 遠心力の付いた強烈な蹴りは、秋津の意識を一瞬にして飛ばす。
しかし、そのくらいで、あたしの気持ちは収まるはずもない。
あたしは再び秋津に背を向けた姿勢で立ち。
軽くジャンプしながら振り返る。
そして、秋津の側頭部に、右の後ろ回し蹴りを叩き込んだ!!
スタリ。華麗に着地。
秋津の身体は、蹴りの勢いでくるりと1回転し、バタリと倒れ、そのまま動かなくなった。
スタジオ内のみんな、ポカンと口を開け、あたしを見ている。
――フン。秦野香織をナメんなよ。あたしは、アイドル・ヴァルキリーズの一期生だぞ。ヴァルキリーズのメンバーは、ヴァルキリー――戦乙女の名が示す通り、ほぼ全員、何らかの武術の心得があるのだ。あたしも子供のころから武術を習っている。ヴァルキリーズを卒業してからは演技の勉強に力を入れたから、ちょっとおろそかになってるけど、それでもまだ戦闘力4万くらいはあるんだぞ。
あたしは、みっともなく大の字になって横たわる秋津に背を向け、瑞姫さんを見た。さすがの瑞姫さんも少し驚いたようで、目を丸くしていた。やがて、フフッ、と笑うと。
「……やるじゃない。ちょっと見直したわ。今のは、カポエラ?」
「はい。あたしも一応、ヴァルキリーズのメンバーでしたから」鼻の下をこすり、へへ、と笑った。
カポエラ。ダンスのようなステップや逆立ち状態から繰り出される蹴り技が特徴的な、ブラジル生まれの格闘技だ。
あたしは倒れている瑞姫さんに手を差し出す。瑞姫さんは少しためらいながらもあたしの手を取り、立ち上がった。
「――一応、お礼を言っておくわ。あなたが秋津を倒してくれて、助かったわ」
そんな。瑞姫さんがお礼だなんて、なんか、照れるな。あたしはただ、サイテーのクズ男を蹴り飛ばしただけだから、お礼には及ば――。
……うん?
なんだ? 瑞姫さんの左手に、何か握られている。
「ああ、これ?」
あたしの視線に気づいた瑞姫さんは、左手に持つものを見せた。伸縮式の特殊警棒のようだ。ただ、持ち手の部分にスイッチが付いてあり、そこから赤白黄色色とりどりの細長いコードが出ていて、警棒の刀身部分に繋がっている。
「スタンガン付きの警棒よ」瑞姫さんが言った。「護身用に、いつも持ち歩いているの。まあ護身用と言っても、改造して、ちょっとだけ出力をアップしてんだけどね。でも、象が0.48秒で昏倒するくらいのレベルだから、もしあのスケベオヤジに使ってたら、死んでたかもしれないわね。もちろん正当防衛だけど、そうなってたらイロイロと面倒だったから、本当に助かったわ。ありがとう」
……相変わらずサラリととんでもないことを言うな、この人は。象が0.48秒で昏倒する? 絶対死ぬだろ、それ。やっぱりこの人は、イイ人じゃないのかもしれないな。
……なんてね。
あたしは、とびっきりの笑顔を瑞姫さんに向けると。
思わず、抱きついた。
「――ちょっと、何するのよ」
恥ずかしそうに身体をよじる瑞姫さんだけど、あたしは離さない。
本当に、もうダメだと思った。女優の夢は、絶たれたと思った。
でも、瑞姫さんが助けてくれた。
秋津の俳優生命はもう終わっただろう。暴力団との関係が暴露され、これだけ大勢が見ている前で暴力を振るったんだ。これでまだ芸能界に残ることができたら、本当に、この世界は腐っている。
あたしは、いつまでも、瑞姫さんを抱きしめていた――。