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5・甘い誘い

「――いったい、どういうつもりなんですか?」


 スタジオを出て廊下を歩く瑞姫さんにようやく追いつき、後ろから声をかける。


「どういうつもり、とは?」振り返らずに言う瑞姫さん。


「慰謝料のことです!」あたしは瑞姫さんの前に回り込んだ。「あたしは、お金が欲しいんじゃありません! ただ、秋津さんに、セクハラ行為をやめてほしいだけです」


「やめてほしいから、訴えて、慰謝料を請求するんでしょ?」当然のことのように答える。「やめてと言うだけで、本当にやめると思うの? 言葉だけで、あのスケベオヤジの行動を制限できると思う?」


「それは……」言葉に詰まるあたし。


「セクハラ行為は違法。違法行為には罰が与えれられる。罰があるから、違法行為を抑止できるの。あなたは違法行為をされたんだから、当然、それに対する慰謝料を請求できる。そうしないと、ああいうバカは、自分の犯した罪に、一生気付かないわ」


「それは……そうかもしれないですけど……でも、いくらなんでも1千万と言うのは……」


「もちろん、ホントにそんな額がもらえるとは思っていないわ。セクハラの慰謝料の相場は2百万~5百万。あなたの場合は、セクハラされた期間が短いから、もっと少なくなるでしょうね。それに、ホントに訴えたりはしないわよ」


「そうなんですか?」


「当然でしょ? 少し前にも言ったけど、セクハラ裁判は、長引けば数年にわたることなんてザラにある。そんなのに付き合うほど、あたしはヒマじゃないの。向こうは、必ず和解を申し出て来るわ」


「そう……でしょうか?」


「ええ。秋津は、近々政界への進出を予定している。セクハラで訴えられたりしたら、それが事実であろうとなかろうと、大きなマイナスイメージになる。それは避けたいはずよ」


「じゃあ、和解するんですか?」


「もちろん、こちらの要求は提示し、飲んでもらうわ。あなたが慰謝料なんていらないと言うのなら、別にそれで構わない。今後一切セクハラ行為はしない、と、一筆書かせれば、それで終わりね」


 そういうことか。それならまあ、安心かな。


「それよりあなた、明日の予定は?」


「明日ですか? 朝からドラマ撮影ですけど」


「相手側と接触してほしくないから、できれば休んでほしいんだけど?」


「ええ? そんな、ムリですよ。撮影のスケジュールは詰まってますし、あたしみたいな新米が勝手に休んだら、それこそ干されちゃいますよ。そりゃあ、あたしだって、訴えるなんて言った手前、秋津さんには会いづらいですけど、お仕事はお仕事ですから、そこは割り切ります」


「そう。まあ、仕方ないわね」瑞姫さんは腕を組み、困ったような表情。「あたしは明日、どうしても外せない用事があるから、あなたの側にはいてあげられない。でも、秋津はこの件を早々に片づけたいはずだから、すぐに何らかの行動を起こすと思う。恐らく、弁護士が和解を求めて来るでしょう。でも、絶対に応じてはだめよ」


「え? でも、訴えるつもりはないんですよね?」


「もちろん、いずれは和解には応じるつもりよ。でも、それは条件次第。その交渉はあたしがするから、あなたは、絶対に、1人で相手の弁護士と話をしないで。いいわね?」


「はい。分かりました」


 まあ、和解とか示談とか、そういうことはよく分からないから、最初から全部瑞姫さんに任せるつもりだったけどね。


「何かあったら、連絡しなさい。忙しいから出ないと思うけど」


 ……じゃあ意味が無いじゃないか、と思ったけど、それは言わず、黙って連絡先を交換する。


「それじゃあ、あたしは行くわ。もう1度言っておくけど、くれぐれも、1人で相手側と話したりしないでね」


 そう言うと、瑞姫さんはコツコツとブーツを鳴らしながら行ってしまった。


 ふう。訴えて慰謝料1千万なんて言い出した時はどうなることかと思ったけど、とりあえず、なんとかなりそうだな。秋津さんにはちょっと悪いことをしたような気もするけど、まあ、セクハラ行為に迷惑していたのは事実だし、本当に慰謝料を取ろうとしてるわけじゃないし、きちんと話し合えば、分かってくれるだろう。向こうも大人なんだしね。


 しかし。


 緋山瑞姫さんか。非常に謎の多い人だったけど、まあ、相談して良かったかな。最初は高圧的で感じの悪い人だと思ったけど、ホントはそこまで悪い人じゃなさそうだし。


 …………。


 たぶんだけど。




 ☆




 で、翌日。


「――ああ、秦野君。ちょっといいかね?」


 朝、ドラマの撮影スタジオに入ると、秋津さんが声をかけてきた。その隣には、見知らぬ男の人が立っている。黒縁のメガネに七三分けの髪型、黒のスーツでビシッと決めている。


「秦野さん、はじめまして」男の人は背広の内ポケットから名刺を取り出した。「私、村木法律事務所の木村と申します」


 げ? さっそく来たか。相手は早々にこの件を片付けたいはずだからすぐに行動を起こすハズ……昨日瑞姫さんが言った通りだな。


 木村弁護士は胸の弁護士バッジと黒縁メガネをキラリと輝かせる。「昨日の、緋山弁護士がお電話でおっしゃった件で、お話があります。少し、お時間よろしいでしょうか?」


「あ、えーっと」返答に困るあたし。あたし1人で相手と話をするな、と、瑞姫さんから堅く言われている。「スミマセン、もうすぐドラマの撮影が始まるので、今はちょっと……」


「ああ、心配ないよ」と、秋津さん。「撮影が始まるまで、もう少し時間が掛かるそうだよ。なんか、ちょっと脚本を訂正するらしくてね」


 そう言えば、さっきから監督さんと脚本家さんたちが集まって、真剣な表情で話し合っている。予定ではもう撮影開始の時間だけど、確かに、まだ始まりそうにない。


「でも、瑞姫さん……緋山弁護士から、あたし1人で話をするな、と、きつく言われてますし……」


「もちろん、緋山弁護士に同席してもらって構いません」木村弁護士が、またもメガネをキラリと輝かせた。


「分かりました。ちょっと、連絡してみます」


 ケータイを取り出し、瑞姫さんに掛ける。1回、2回、と、コールが鳴る。10回を越えたけど、瑞姫さんは出なかった。


「……出ません。今日は他に用事があると言ってましたから、たぶん、来られないと思います。明日にしていただけませんでしょうか?」


「うーん、それは困りましたね」木村弁護士はあごに手を当てて唸った。「明日は、私の方が別の案件がありましてね。こちらとしては、今回のことは早々に片づけてしまいたいのですが」


「緋山弁護士がいなくても、大丈夫だよ」と、秋津さん。「特別難しい話ではないから、ね?」


「いえ、あたし、こういうことは全くの素人なので……」


「大丈夫だって」秋津さんは声を潜めた。「秦野君、ここじゃ他人ひとの目があるから、とりあえず、私の楽屋に行かないか?」


 辺りを気にするような仕草の秋津さん。共演者やスタッフの人たちが数人、チラチラとこちらを見ている。昨日、あたしと瑞姫さんで生放送中のニューススタジオに乗り込んで宣戦布告したからな。同じ局内だし、当然話は広まっているだろう。


「決して、悪い話じゃないんだよ。とりあえず、話を聞くだけでもいいから、ね?」楽屋の方へ促す秋津さん。


 うーん、どうしたもんか。


 瑞姫さんからは、絶対に1人で秋津さんたちと話をするな、と言われている。でも同時に、忙しいからこの件に構ってるヒマはない、とも言っていた。昨日の様子だと、明日以降もあたしのために時間を割いてくれるかは疑問だ。秋津さん側はこの件を早々に片づけたいのだろう。政界への進出が控えているのなら、それも当然だ。あたしは秋津さんにセクハラ行為をやめてほしいだけであって、別に政界進出の邪魔をしたいわけではない。この問題が早めに片付くのであれば、それに越したことはない。たぶん、秋津さんは和解を申し出て来るんだろう。それはこちらも望むところだし、とりあえず、話を聞くくらいならいいかな? おかしな話になりそうなら、その時断ればいいだけだしね。


「……分かりました。とりあえず、お話を聞くだけなら」


「そうか! じゃあ、行こう」


 と、いうわけで、あたしは秋津さんの楽屋へ向かった。




 秋津さんの楽屋は、20畳ほどの広さの和室だった。部屋の真ん中にテーブルが置かれてあり、部屋の隅には大きなテレビ、入口から見て右側の壁に大きな鏡があり、その前はメイク用のカウンターテーブルになっている。普通は数十人が一緒に使う楽屋だろうけど、秋津さんはどうやら1人で使っているらしい。さすがに大物は違うな。


 と、楽屋に入った途端。


「秦野君! すまなかった!!」


 がばっ! と、床に手を着き、頭をぶつけそうな勢いで、秋津さんが土下座した。


「ちょっと! やめてください! 秋津さん!!」


 あたしは慌てて秋津さんに頭を上げてもらおうとする。


「今回は僕の軽率な行為で、君を深く傷つけてしまった! 本当に、申し訳なかった!!」


「ですから、やめてください! 頭を上げてください!」


 すると、秋津さんはがばっと頭を上げた。「だが、これだけは信じてくれ! 僕は、決して、いやらしい気持ちがあって、君の身体に触れたり、食事に誘ったりしたたわけじゃない! ただ、良いドラマを作るために、君と打ち解けたかっただけなんだ! もちろん! だからと言って、君が傷ついた事実は変わらない! それは、本当に申し訳なかった!!」また頭を下げる。


「分かりました! 分かりましたから!!」


「――と、このように、今回の件に関して、秋津は深く反省をしております」木村弁護士が淡々とした口調で言った。「今後、秋津は2度と、お芝居以外で身体に触れたり、しつこく食事に誘う等の行為はしません。そして、今回の件による秦野さんの精神的苦痛に対する賠償金として、こちらは100万円をお支払いする用意があります」


 そう言って、内ポケットから分厚い茶封筒を取り出した。


「そ、そんな!! あたしは別に、お金が欲しいわけじゃありません!!」


「もちろん! それは分かってる! でも、このお金は君を傷つけてしまったことに対する償いだ! 100万くらいじゃ到底償いきれるものじゃないが、私には妻も子供もいる。家族に知られずに渡せるお金は、それが限度なんだ! そんなのはこっちの勝手な言い分だが、それでどうか、今回の件は無かったことに!!」


「ですから! とりあえず頭を上げてください! 落ち着いて、話をしましょう!」


 なんとか秋津さんに頭を上げてもらい、あたしたちは楽屋中央用のテーブルに座った。あたしと、テーブルを挟んで秋津さんと木村弁護士。テーブルの上にはお茶が3つと、お金の入った分厚い封筒。そして、書類が1枚。


「こちらに目を通していただいて、問題が無ければ、一番下にサインをお願いします」あたしの前に書類を置く木村弁護士。


 書類は、A4の用紙に小さな字で難しいことがビッシリと書かれていた。頭から読んでみるけど、何を書いているのかさっぱり分からない。


「――要約すると、秋津は秦野さんに対してセクハラ行為を行っていないが、誤解を招く行為を行い、結果として精神的苦痛を与えてしまった。それに対する慰謝料として100万円を支払い、今後一切、そのような行為は行わないことを誓う、ということです」


「そんな条件は飲めません」あたしは、困った声で言った「あたしは、お金が欲しくて訴えるって言ったんじゃないんです」


「しかし、受け取ってもらわないと、こちらも困るんだ」と、秋津さん。「誠意を示すためには、言葉だけではダメだ。お金で誠意をしますのは当然のこと。受け取るのは、別に悪いことじゃない」


「でも、こういうのは、やっぱり……」


「秦野さんが慰謝料は不要とおっしゃるのであれば、もちろんそれは構いません」木村弁護士が言った。「しかし、困りましたね。書類には慰謝料に関する項目もありますから、受け取りを拒否するのであれば、項目を削除して、書類を作り直さなければいけません。明日以降は、私は別の案件がありますし……」


「ペンで線を引いて消したんじゃ、ダメなんですか?」


「公文書ですから、そういうのはちょっと……」腕を組み、考え込む木村弁護士。やがて。「では、こうしましょう。この100万円は、ひとまず受け取るということで、書類にサインしてください。その後、100万円は秋津に返還する。これなら、秦野さんはお金を受け取らなくていいし、我々も書類を作り直さなくて済む」


 ナルホド。確かにそうだな。


「しかし――」と、秋津さんがあたしを見る。「本当に、慰謝料はいらないのかね?」


「もちろんです。あたしは本当に、お金が欲しいわけじゃなくて、ただ、秋津さんに、セクハラ行為をやめて貰いたかっただけなんです」


「秦野君、僕は、セクハラのつもりは無かったんだ――」また土下座しようとする。


「分かりました!」慌てて止める。「分かりましたから。これからあのような行為を慎んでいただけるなら、あたしは、それで構いません」


「そうか――本当に、すまなかった!」秋津さんは、机に手を着いてもう1度頭を下げた。


「では、こちらにサインを」木村弁護士がペンを置き、書類の一番下に手をかざした。


 ……うーん。瑞姫さんには、「和解の交渉はあたしがするから決して1人で相手側と話をするな」、と言われてたけど、まあ、この条件なら問題ないだろう。イロイロと忙しそうな人だから、わざわざ手を煩わせることも無いか。あたしはペンを取り、書類にサインした。


「――では、これは私がお預かりしておきます」書類を4つ折りにし、内ポケットにしまう木村弁護士。「慰謝料は、秋津にお返しします」


「本当に、いいのかね?」と、秋津さん。


「はい。構いません」あたしは笑顔で答えた。


「じゃあ、お言葉に甘えるよ」秋津さんも、茶封筒を内ポケットにしまった。


 よし! これで一件落着だ。これから、存分にドラマ撮影に集中できるぞ! セクハラさえなければ、秋津さんはいい人だし、演技も上手で尊敬できる俳優だ。これから、良いドラマを作って行こう!


 トントン。ドアがノックされた。「秋津さん。そろそろ本番入りまーす!」


 ADの浦木さんだ。ようやく監督さんたちの話し合いが終わったようだな。


「じゃあ、気持ちを切り替えて、撮影、頑張ろう」


 秋津さんの言葉に、あたしは、「はい」と、笑顔で応えた。







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