1・夢の扉
Idol Valkyries Episode 3
この物語はフィクションであり、
登場する人物・団体などの名称はすべて架空のものです。
また、舞台は日本によく似た別の国で、
施行されている法律は必ずしも日本と同じではありません。
あらかじめご了承ください。
――――。
――ついに。
ついに!
この日が、やって来た!
あたしの、夢をかなえるための、大きな1歩となる日が!
目の前にある、大きな鉄製の扉。あれは、夢へと続く扉だ。開けた瞬間、全てが始まる。全てが変わる。
右手で、扉のノブを持ち。
ひとつ、大きく息を吐く。
――よし、行こう!
決意とともに、扉を開けた。
扉の向こうは、夢をかなえる場所とは思えないほど、薄暗く、地味なホールだった。学校の体育館ほどの広さ。扉のすぐそばのスペースには、パイプ椅子、脚立、木の板を縦にしただけの衝立、工具箱、など、様々なものが雑然と置かれてある。内装工事をしているかのような雰囲気。
しかし、ホールの一番奥には。
いくつものライトに照らされ、眩しく輝く場所がある。
あそこが、あたしが夢をかなえる場所――。
ホール内では、大勢の人が、せわしなく行き交っている。あたしに気付いた人はいない。
あたしは、大きく息を吸い込むと。
「おはようございます!! 望月夕子役の、秦野香織です!! 今日から、よろしくお願いします!!」
ホール中に響き渡るほどの大きな声で言い、そして、深く頭を下げた。
一瞬、静まり返る。
顔を上げると、みんな手を止め、驚いた表情で、あたしを見ていた。
やがて苦笑とともに、「おはようございまーす」「よろしくお願いしまーす」と、それぞれの作業に戻った。
その中の1人、20代半ばの男の人が駆けて来た。「おはようございます。ADの浦木です。ええっと、望月役の、秦野さんですね」
「はい! よろしくお願いします!!」もう1度頭を下げる。
「早いですね。役者さんのスタジオ入りは、まだ1時間以上も先ですよ?」
「はい! でも、新米ですから、誰よりも早くスタジオ入りしないと、と思いまして。ホントは、スタッフさんよりも早く入ろうかと思ってたんですが、さすがにそれは迷惑だって、みんなから言われて」
「ははは。迷惑ってことは無いですけど、そんなに早く来ても、役者さんは特にやることないですよ」浦木さんは小さく笑い、スタジオの隅に手を向けた。大きな長机が1つと、いくつかのパイプ椅子が置かれてある。「撮影開始まではまだかなり時間があるので、あちらで待機していてください。そのうち、監督や、他の役者さんも来ると思います」
「はい! ありがとうございます!!」
あたしはまたまた頭を下げる。浦木さんはにっこりと笑うと、お仕事に戻った。あたしは、皆さんの邪魔にならないよう、言われた通りスタジオ隅の休憩所に向かった。椅子に座り、撮影準備を進めるスタッフさんの姿を見る。
時間が進むにつれ、胸の高鳴りが、大きく鳴る。
いよいよ、始まるのだ――。
☆
あたし、秦野香織。女優志望の22歳。
いや、違うな。あたしは今日、晴れて、女優としてデビューする。だから、女優のタマゴの22歳、と言っておこう。
そう! あたしは今日、女優として正式にデビューするのだ! JTVで来年1月より放送予定の連続ドラマ『オヤジ刑事』にて!
思えばここまで、長いようで短い、短いようで長い道のりだった。
子供の頃、あたしはアイドルに憧れていた。エイミー・ベルウッドや朝ガールや松浦あわやなどのアイドルが、ひらひらの可愛い衣装を着て歌って踊るのを見て育ち、いつかはあたしもアイドルになろう、と、幼心に決めていた。6年前、その夢は叶った。『アイドル・ヴァルキリーズ』という、大型アイドルグループのオーディションに合格したのである。
『アイドル・ヴァルキリーズ』とは、「歌って踊れる戦乙女」をコンセプトとしたアイドルグループだ。今やテレビで見ない日は無いと言ってもいいほどの大人気で、CDシングルの売り上げはダブルミリオンに迫り、先日女性アイドルグループとしては初の5大ドームコンサートを成功させ、今や国民的アイドルと呼ばれるほどの大人気グループだ。
もっとも、あたしがヴァルキリーズに所属していたのは今から3年前だ。当時のヴァルキリーズは、アイドルマニアの間ではそこそこ人気が出てきたもの、世間一般への認知度はまだまだ低かった。その頃、ヴァルキリーズのメンバーが総出演する、ちょっとした連続ドラマが制作された。女優経験なんてほとんど無いアイドルだけで行う深夜放送の小さなドラマで、ヴァルキリーズファン以外の人には全く評価されなかったけど。
そのドラマがきっかけで、あたしは新たな夢を持つことになった。
――女優になろう。
そう決意し、あたしは、ヴァルキリーズを卒業した。
そして、小さな劇団に所属し、細々と活動しながら、3年間、ドラマや映画などのオーディションを受けまくった。大きな役を射止めるどころか脇役すら得られず、良くて一言セリフのあるエキストラ、というような状態が続いたけれど。
今回、初の、大きな役をGETしたのである!
今日から撮影が始まる『オヤジ刑事』。中年のベテラン刑事と女性の新米刑事がコンビを組み、様々な事件を解決していく刑事ドラマだ。その、女性新米刑事・望月夕子役に、あたしが選ばれたのである!
それまでエキストラの経験しかなかったこのあたしが、なんと、主演である!
『オヤジ刑事』は、来年2014年1月23日の木曜深夜から放送予定だ。正直、あまり視聴率は期待されておらず、テレビ局もそこまで力を入れているドラマではない。しかし、刑事ドラマは固定ファンが多く、どんなものでもそこそこの視聴率が取れるし、何より、ゴールデンの時間帯では無いとはいえ全国放送だ。しかも主演。あたしのような女優志望にとっては、願ってもない大チャンスである。ここで結果を残せば、ゴールデン放送のドラマにも出演、さらには映画、そして、ハリウッドに進出! なんてことになるかもしれない。ああ、今からワクワクする!
なんて、まあ、現実はそんな甘いものではないだろうけど。でも、夢は大きく持った方がいい。そして、このドラマ主演は、夢をかなえるための大きな1歩であることは間違いない。あたしは、必ずこの夢を叶えてみせる。そのために、アイドル・ヴァルキリーズを卒業したのだから。
今や国民的アイドルグループと呼ばれるまでに成長したアイドル・ヴァルキリーズ。当然、テレビや映画などに引っ張りだこで、人気メンバーは、この『オヤジ刑事』よりも大きなドラマや映画に出演している。現在ヴァルキリーズのセンターポジションを務める神崎深雪は、日本を代表する映画監督の最新作のヒロイン役に抜擢され、日本映画アカデミー大賞の新人賞の受賞が期待されている。あたしもヴァルキリーズに所属していたころは、ファンからそれなりの人気を得ていたので、あのまま卒業せずにいたら、今よりもに大きなドラマの役を得ていたかもしれない。
でも、あたしはあの時ヴァルキリーズを卒業したことを、少しも後悔していない。
アイドル・ヴァルキリーズのコンセプトには、『夢への通過点』というのがある。ヴァルキリーズは、いわば学校のようなもので、活動しながら次のステップへと進む準備をする場所なのだ。
あたしは、女優という夢を見つけ、ヴァルキリーズから巣立った。
ヴァルキリーズに所属していれば、今より大きなドラマの役が貰えたかもしれない。でもそれは、決して演技力が認められたわけではなく、『アイドル・ヴァルキリーズ』という看板があってこそ得られたものだ。人気アイドルグループの1人として、話題性を重視して起用されたのである。それを否定するわけではない。ヴァルキリーズのメンバーとして活動することは、演技力を磨くのと同じくらい努力しなければならない。話題性重視の起用とはいえ、立派な仕事だ。
しかし、やはり真の女優とは言い難い。
あたしが目指すのは、演技力で勝負する女優だ。ヴァルキリーズという看板に頼らず、自分の力でやって行きたい。だから、卒業したのだ。
その第1歩を、今踏み出そうとしている。
絶対夢を叶えて見せるから、応援よろしくね。
☆
スタジオ隅の休憩所で、セリフの練習をしながらしばらく待機するあたし。やがて、他の役者さんたちもスタジオ入りしてくる。1人1人、きちんと挨拶をしていく。この業界で、挨拶は何よりも大切だ、と、ヴァルキリーズ在籍時にきつく教えられた。みなさん、笑顔で温かい言葉をかけてくれる。うん。優しそうな人ばかり、うまくやって行けそうだ。
やがて。
「――間もなく秋津さんが入りまーす!」
ADの浦木さんが大声で言った。すると、スタッフさんや役者さんはもちろん、監督さんまで、それまでの作業を中断し、入口の方を見た。あたしもイスから立ち上がり、背筋をピンと伸ばして待つ。
秋津剛志さん。今回のドラマ・オヤジ刑事で、主人公・黒崎刑事役を演じる俳優さんである。あたしとダブル主演ということになる。この道40年の大ベテランで、出演したドラマや映画は100や200ではきかないだろう。つまり、200人以上の役柄を演じてきた人。あたしのような新米にとっては雲の上の存在。失礼があっては大変だ。ヤバイ。緊張してきた。いや、初めてのドラマ主演だから最初から緊張はしてるんだけど、これまでとは比較にならないくらい緊張してきた。怖い人だったらどうしよう? 心臓バクバクである。
ゆっくりと、スタジオのドアが開いた。
すると、全員一斉に。
『おはようございます!!』
建物中に響くのではないかというほどの大声で言い、そして、一斉に頭を下げる。あたしも少し遅れて挨拶をし、頭を下げた。
「――おう。よろしく」
ぶっきらぼうな声。
顔を上げる。よれよれのスーツに無精ひげ。かなり生え際が後退した頭。どう見ても冴えない中年男性が、右手を上げてみんなに応えていた。
もちろん、冴えない中年男性というのは、あくまでも役柄である。見た目こそイケてないけど、発散するオーラ言うか、醸し出す雰囲気と言うか、周囲を漂うアンビアンスと言うか、とにかく、他の俳優さんとは全然違う。あれこそが、50年かけて身に着けた俳優としての自信なのだろうか。
おっと。見とれている場合ではない。きちんと挨拶しなければ。あたしは慌てて駆けて行く。
「秋津さん! おはようございます!! 望月夕子役の、秦野香織です!! 今日から、よろしくお願いします!!」
さっきよりも大きな声で言い、そして、すごく勢いをつけて頭を下げた。
「――あん?」
なんとなく、不機嫌そうな声。
あたしは、恐る恐る頭を上げた。
秋津さんは、ギロリ、と、あたしを睨んだ。鋭い眼光。まるで、カエルを睨むヘビだ。今回こそ冴えない中年刑事役だけど、作品によっては、難事件を解決する優秀な刑事はもちろん、警察の中で一番偉い警視総監役や、逆に、ヤクザ役や犯罪組織のボス役を演じることも多い。あたしも秋津さんが出演するドラマはたくさん見てきたけど、演技とは思えないものすごい迫力を感じた。あれだけの演技をする人だ。やはり、厳しいのだろうか? もしかしたら、あたしみたいな小娘とのダブル主演を快く思っていないのかもしれない。
秋津さんはあたしを値踏みするかのように、頭の上から足元まで、その鋭い視線を移動させ、フン、と、鼻を鳴らした。ヤバイ。どうも機嫌が悪そうだ。何か失礼なことでもしただろうか? 挨拶が遅かったとか? たぶんそれだ。あたし、先にスタジオに入って、後から来る人に順番に挨拶をしていった。秋津さんが最後にスタジオ入りしたから、当然、一番最後に挨拶したことになる。でも、芸歴を考慮すれば、一番最初に挨拶をしなければいけない人だ。やっばー。楽屋に挨拶に行くべきだったのかも。これは、しょっぱなから大きなミスだぞ? 大御所の機嫌を損ねて役を降板、なんてことになったらどうしよう?
秋津さんがあたしの目を見た。怒られる! そう思ったけど。
それまでの厳しい表情から一転、ニッコリと笑って。
「おはよう。元気いいねぇ。いいことだよ」
優しい口調で、そう言ってくれた。
良かった! 怒ってたんじゃなかった。安心してその場にへたり込みそうになったけど、なんとか踏みとどまる。「はい! ありがとうございます!!」
「マネージャーから聞いたよ。ドラマ、初めてなんだって?」
「はい! あ、でも、3年くらい前、あたし、アイドル・ヴァルキリーズというアイドルグループに所属していて、その時、みんなで深夜のドラマをやりました。まあ、ドラマだなんてとても呼べない、学芸会みたいなものでしたけど」
「アイドル・ヴァルキリーズ……あの、綺麗なねーちゃんが沢山いるヤツか? この前、バラエティ番組で共演したよ。あそこの娘なんだ」
「あ、いえ。ヴァルキリーズは、3年前に卒業しました。あの時の深夜ドラマで、演技の楽しさを知って、女優を目指すことにしたんです!」
「へぇ。感心だね。なかなかできることじゃないよ。今日は、期待してるよ」
「はい! よろしくお願いします!!」
あたしはもう1度頭を下げた。秋津さんは機嫌よさそうに笑った。
――良かった。秋津さん、すごく優しそうな人だ。もちろん、演技のことになると人が変わるかもしれない。素人同然のあたしの演技を見たら、鬼のように怒るかもしれない。でも、あたしはこれから世界に通じる大女優を目指すのだ。苦しくたって悲しくったって、カメラの前なら平気だ。
――と、その時である。
ぷに。
おしりに、何とも言えないおぞましい感触。
「――ひゃい!」
思わず、変な声が出てしまう。
なんだ!? 振り返ると。
「――ああ、ゴメンゴメン」
笑いながら手を挙げる、秋津さん。そのままスタジオの奥へ行ってしまった。
……え? 今あたし、おしり、触られた?
そうとしか思えない。
秋津さんの後ろ姿を見つめる。何事も無かったかのように、笑顔で監督と話している。
……まさかね。あの優しそうな人が、おしりを触るなんて、考えすぎだ。たまたま手が当たっただけだろう。
……でも。
あれは、当たった、という表現は、正しくないかも。
何と言うか、こう、感触を確かめるように、モミモミされたのだ。
……いや、まさか、ね。
…………。
☆
2013年11月10日。
ドラマ『オヤジ刑事』の撮影が始まる。
そして、この日から――。
あたし、秦野香織の、悪夢のような日々が、始まったのである。