小休止。
少年は草地を歩いていた。昨日の雨でぬかるんだ土を踏むたびに靴の中に冷たい雨水が入り込み、その足を蝕んでいた。
少年は緑に染まった長い道を、ポケットに手をいれ、少し猫背になりながら特に目的地も無く進んだ。
「そろそろ梅雨も終わりかな。」
昨日まで断続的に降っていた雨は止み、朝日が顔を出し始めた空を見ながら、ぼそりと呟いた。
しばらく歩いた少年の身に、柔らかい風が当たる。それと同時に少年の耳に木の葉が擦れる音が、微かに届いた。
音のした方向を見ると、巨大な樹がそびえ立っていた。その樹が風に揺れて奏でる音に、少年はしばらく聴き入っていた。
「そうだ、思い出した。」
樹の歌声に聴き入っていた少年は垂れていた首を上げて呟いた。彼が樹を見つめるうちに、脳内に幼い子どもたちの笑い声が響き、その瞳にひとつの過去の景色が映し出され始めた。
ー 樹の周りを走っている子どもたち。木登り競争をしている子もいた。・・・きっと一番速く登っている男の子は僕だ。
みんな無邪気に、この先にある苦しみをまったく知らないかのように笑顔を輝かせていた。
声が、映像が徐々に薄れていく。少年はもう一度、樹をまじまじと見つめる。しっかりと、どこまでも張ってあるかのような根。自分の両手を広げた時よりも大きく、太い幹。その上に青々と光る葉。
ー そうだ、なぜ忘れていたんだろう。ここはよく小さな時に遊びに来ていた場所じゃないか。
少年は日々の忙しさの中で埋れてしまった記憶を呼び起こした嬉しさを感じるとともに、自分自身に落胆した。
「もしかしてキミは、僕を呼んでくれたのかい?」
彼は樹に歩み寄りながら、半ばひとりごとのように言う。樹はそれに答えるように、風とともに歌っていた。
少年は樹のすぐ根元まで歩いて、止まった。
その幹に触れると、さらなる郷愁が彼を襲った。そして、何気なしに上を見上げる。
下から見ると、複雑に入り組んだように見える枝々。まだ雨水を被っている葉は朝日を照り返してキラキラと輝いていた。
ー あぁ、僕も‘道’を通り抜けて、いつかこんなような輝いた未来にたどり着けるのかな。
少年の目には、この風景がまったく違ったように見えたらしかった。
少年は無意識のうちに樹に登っていた。ここのところ、まったく運動をしなくなった彼にとって、小さな時にはわけ無かった動作も厳しいものだった。昔、‘ゴール’としていた場所に着いたときには少し息が上がっていた。
一度深呼吸をして、樹の上から自分の住んでいる街を見渡す。
見覚えのある家々。いつも歩いている通学路。それらすべてを、完全に顔を出した朝日が照らしていた。
「また、がんばるか。」
少年は何かを決したように、今までの弱々しさが嘘だったかのように、力強く言った。
春。彼は下手な口笛を吹きながら軽い足取りで草地を歩いていた。目的地はただひとつ、あの巨木だ。
あの日から一度も来ていなかったが、相変わらずたくましくそびえ立つその樹に感動を覚えた。
「ありがとう。キミのおかげでなんとか諦めずに頑張れたよ。」
春の太陽に照らされて光っている樹に負けないくらいに輝いた笑顔を見せながら言った。
彼はそれだけ言うと後ろを振り返り、走って行った。
新しい門をくぐるために。
樹は彼の背中を見守りながら、風とともに歌っていた。