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【9】

 桃河はさっきまで感じていた焦燥も忘れて息を呑んだ。

 音もなく舞う少女の周りに淡く輝く光がひとつ、またひとつと生まれる。たゆたう蛍火は舞に共鳴するように、ほわりほわりと少女を取り巻いて、優美な舞姿をいっそう雅びやかに演出した。

 幾つもの光はやがて集束し、短い舞を終えた少女の手の中には一張の弓が収まっていた。

 力強く優麗な曲線。赤褐色の弓幹と、持ち手の部分に巻かれた白い藤の対比が鮮やかだ。派手な装飾もなくシンプルな作りだが、それが纏う重厚な神気は本物だった。

「これは鬼祓いの力を宿す弓、桃弧とうこ。私が見えてもいない鬼の存在を認めているのは、代々この弓を守り受け継いできたからよ」

 少女は桃河の傍まで歩み寄ると、手にした弓を恭しく差し出した。長いまつげに縁取られた黒曜石が、艶を増して桃河を見る。

 桃河は熱に浮かされたような目顔で桃弧に見入っていた。求めるように手を伸ばし弓を掴み取る。桃弧が淡く発光し脈打つようにびぃんと震えた。弓が主を得て歓喜したのか、あるいは、それは桃河自身の震えだったのかもしれない。

 瞬きもせず桃孤を見つめる桃河に向かって、少女はそっと声をかけた。

「桃孤を爪弾いてみて?」

 桃河は言われるままに弦に指をかけ、それを弾いた。

 鳴弦の音が見えない波紋となって広がる。桃河を中心に、立ち並ぶ木々や池の水面が周囲の大気と共に振動して、ぴりりと緊張した。瞬間的な重圧感。その場所だけが違う空間になったような感覚が去ったあと、辺りは何事もなかったかのように静まり返った。そして――

「――うぉあっ!」

 放心状態から醒めた桃河は悲鳴を上げた。手中にある謎の弓と少女とを交互に見返して、

「おま、これ……っ!」

「桃弧は桃の実から生まれた少年が、鬼ヶ島で鬼を退治たときに使っていた弓よ。彼は鬼が再び人の世に現れることを見越して、自分の血を分けた子どもたちにその鬼祓いの弓を託していたの。たとえその身が朽ち果てても悪鬼を滅するという誓い(おもい)だけは、魂に刻まれ決して消えることはない。幾度輪廻を駆けようとも、我が魂を持つ者は必ず悪鬼を討ち滅ぼすだろう。もし自分がいなくなったあとの世界で、鬼がまたこの地を荒らすことがあれば、魂の継承者を求め桃弧を授けよ――とね」

 それからずっと、彼の子どもたちは桃弧を守り続けてきた。子から孫へ孫からまた子へと子々孫々に渡り、桃弧の守り人として。いつかその力が必要になったとき、違えることなく桃弧が主のもとに還るように。

 桃河はここにきてようやく彼女の正体に思い至った。

 日本で最もポピュラーなお伽噺の、しかし誰にも語られなかった真実。そんなことをこれだけ誇らしげに話す少女が誰なのか。

 目を見張る桃河に気づいて、少女の口元が小さく緩んだ。

「そうよ。私は英雄の血を引く一族の末裔。私が鬼の気配に敏感なのも、まさに血のなせるわざ。――でも、彼の血を受け継ぎ桃弧の守護者である私たちにも、その弓を引くことはできない。それができるのは桃弧の主となる者だけなのよ」

 白くたおやかな指が伸びてきて、桃河の持つ弓の背にそっと触れる。

「あなたはいま桃弧の力を発現させ結界を張って見せた。それこそが、あなたが桃弧の主たる魂の持ち主だというまぎれもない証」

「けっ、けっかい?」

「不可視の壁によって隔離された特殊な空間のことよ。感じない? 私たちはいま、その結界の中にいるのよ」

 結界はその場所の時間を瞬間的にずらすことで発生する。この時間のズレが見えない壁となって外界からの干渉を拒むのだ。徒人が結界を感知したり、間違って中に入り込むこともない。完全な不可侵領域。いまここに誰かが通りかかったとしても、桃河たちの存在に気づく者はいない。結界とは限定的な並行世界のことである。異なる時間軸を持つ二つの世界は決して交わらない。だからこの中で何が起きようとも結界の外には作用しないのだと彼女は言う。

 言われてみれば、しきりに聞こえていた鳥のさえずりも葉擦れの音もなくなっていた。なんとなく清澄な気が張りつめているような、そんな気配がする。

 でも――そんなたいそうなものを、本当に俺が?

 桃河は自分の手中に収まる古弓を初めて正視した。

 弓なんて触ったこともないはずなのに、なぜかその手触りを懐かしく感じる。覚えのない重みにこんなにも安堵してしまうのは、どうしてだろう――。

 表現しがたい感情に戸惑う桃河を、少女はまっすぐに見つめた。

「まだ信じられない? だけどもう、そんなことを言っている暇はないわ」

 ぞくりと悪寒が駆け抜けた。とっさに背後を顧みて、絶句。桃河は自分が最大の窮地に立たされていることを知った。

 いつの間にか、片手では足りない数の人影に包囲されていた。

 全員が鬼に憑かれている。桃河にはそれが目に見えてわかった。中にはさきほど桃河たちを襲撃した男たちも混じっている。

 少女に背を向け、桃河はそれらと対峙する格好で叫んだ。

「おい、ここには結界とやらが張られてるんじゃなかったのか!」

「彼らは外から侵入してきたわけじゃないわ。あなたが結界を張ったとき、鳴弦の音の届く範囲内にいたのよ。恐らく私たちを追ってきて結界に捕らえられたんでしょうね」

 不自然に体を揺らしながら近づいてくる彼らの様は、糸の見えない操り人形のようで不気味だった。じりじりと包囲網が狭められ、桃河たちは少しずつ後退を余儀なくされる。

「この結界の役割は、外部への不要な被害や目撃者を出さないようにすることと、もうひとつ。奴らを閉じ込めて確実に仕留めるためにあるの」

 仕留める――。まるで猛獣か何かを相手にするような容赦のない言いように、桃河は危険なものを感じ取った。思わず少女を振り返り、

「それってまさかあいつらを――」

「残念だけど、彼らは鬼に憑かれて完全に我を失っているわ。ああなった人間は、鬼の意のままに操られる傀儡と同じ。捨て置けば、彼らは鬼と同化して、」

「ま、待てよ! いくら鬼が取り憑いてたって、あいつらは人間だろ? んな簡単に切り捨てちまうのかよ。そりゃ鬼に憑かれたのはあいつら自身の問題かもしれねぇけど、望んでああなったわけじゃないだろ。そんな一方的に終わらせる以外に方法はないのかよ!」

 急に強い反発をぶつけられて少女は驚いたように目を見張った。しかしすぐに、今度はこっちが面を食らってしまうほど綺麗に微笑してみせた。

 不意打ちのカウンター攻撃に、桃河は状況も忘れて為す術なく赤らむ。

「方法は初めからひとつしかないわ。あなたが、彼らの中に巣食った悪鬼を討てばいいの。そうすれば、彼らは解放される」

「解放? なんだよ、俺はてっきり――って、いま、なんて言った? 俺が、なんだって?」

「彼らのように身も心も鬼に奪われた人間を、虚鬼からおにと言うの。虚鬼が完全に鬼と同化してしまったら、二度と人間に戻ることはないわ。その前になんとしても鬼を浄化しなければならない。あなたはこの世で唯一、鬼を討ち滅ぼせる力を持った人。あなたがその弓で奴らを射抜けば、彼らは人の心を取り戻せる。彼らを救えるのはあなたしかいないのよ」

「な、お、俺がっ!?」

 予期せぬ事態にぎょっとする桃河。

 そこへ呼吸を計ったように一人の男が飛びかかってきた。

「――っ!」

 桃河はとっさに少女を押し退け、持っていた弓を盾に男の攻撃を防いだ。男の武器はコンビニでよく見る透明なビニール傘。一度も使った形跡のない新品だった。これがもっと破壊力のある――例えば金属バットや鉄パイプだったら、ひとたまりもなかっただろう。

「……くっ」

 とはいえ、鬼――正確には虚鬼というらしい――と化した男の膂力は凄まじい。大きくたわんだ傘が、手元からぐにゃりと折れ曲がった。男が前のめりにバランスを崩す。桃河はすかさず、その腹を力いっぱい蹴り飛ばした。肩で息をしながら、男から離れる。

 桃河たちは完全に取り囲まれていた。

 真っ赤に染まった幾つもの眼が、獲物を狙って怪しく光る。桃河に蹴られて転がっていた男が立ち上がり、にたりと嗤った。

「冗談じゃねぇぞ、んっとに……」

 桃河は、桃弧を一瞥して、

「こんな弓ひとつで何をどうしろっていうんだよっ」

「大丈夫。あなたならできるわ」

 歯軋りをする桃河の後ろから見当違いの答えが返る。

「だああっ違う! そうじゃなくって――」

 内心で頭を抱えた桃河を目がけ、虚鬼の群れは一斉に襲いかかかってきた。けたたましい叫声。迫りくる凶器と狂気。桃河の四肢は硬直し、逃げることもできなかった。

 今度こそ、もう駄目だっ。

 自らの不幸を呪い、桃河はきつく目を閉じた。




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