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【8】

「桃の実から生まれた異端児の話は、知っているかしら」

「はぁ?」

 噛み合わない会話に困惑が拍車をかける。あからさまに眉をひそめる桃河を、少女は面白そうに覗き込んだ。

 やたらと吸引力のある瞳に捉えられ、桃河の左胸が小さく跳ねる。桃河は反射的に視線を逸らして口早に答えた。

『桃から生まれた子ども』といえば、連想されるものはおおよそひとつ。

 日本一有名と言っても過言ではない勧善懲悪の見本。絵本はもちろん、漫画やドラマのモチーフとしても使われているから、大人から子供まで知らないものは少ないだろう。

 知名度のわりに発祥は曖昧で、いつごろ、誰の手によって書かれたものなのか正確なことはわかっていない。大本は日本神話であるとか、実在の人物がモデルだという説もある。その内容は地方によって少しずつ異なったりもするが、一般的な話の流れは桃河もよく知っていた。

 それは『昔々あるところに――』から始まる和製ファンタジー。

 ある時、川上より流れてきた桃の中から男児が生まれ、心優しい老夫婦が育てるようになる。やがて成長した少年は、悪行の限りを尽くす鬼を退治するために旅立ちを決意。そして旅の途中で出会った仲間と共に、みごと鬼ヶ島に住む鬼たちを討ち倒す。最後は『めでたしめでたし』と締めくくられ大団円で終わるのだ。

 言わずと知れた物語のタイトルを告げると、少女は満ち足りたとばかりに頷いた。

「そう。彼は誰もが知る鬼退治のエキスパート。鬼の悪行から人々を救った英雄よ。鬼と戦うことは生まれる前から決まっていた彼の宿命なの。たとえ、器が変わっても魂の宿命さだめが変わることはない」

「……で、それがどうかしたのかよ」

「あなたが人の中の鬼を見通せるのはね、その器に英雄の魂が宿っているからよ」

 頭の中が「?」マークででいっぱいになる。確かに日本語を話しているはずなのに、彼女の言っていることの意味がまるでわからない。桃河は浮かんだ疑問符をそのまま投げかけた。

「なんだ、それ?」

「あなたが特別だという理由よ」

「っじゃなくって、器とか魂とかってやつだよ。話が見えなさすぎるだろ」

 桃河の眉間に入った縦ジワに、少女は「仕方がないわね」と笑って肩をすくめた。

「もうあまり時間もないんだけど……」

 ふっと呼気を漏らし、眦を決する。

「いい? よく聞いて。さっき私たちを襲った鬼たちも、いま、あちこちで事件を引き起こしている鬼も同じよ。あれは、かつて英雄に討たれた鬼の残滓が、長い年月をかけて具現化したものなの」


 ――桃の実は、邪鬼を圧伏する力を宿す仙木の果実。

 仙果の内より生まれ出でた少年もまた、邪鬼を祓う力を持っていたという。

 鬼ヶ島に乗り込んだ少年は、供の助力と己の全力をもって、悪鬼たちと干戈を交えた。

 文字通り命を削る激戦の果て、ついに彼は諸悪の根源たる鬼を滅びの淵へと追い詰める。

 崩れ逝く異形のからだ。おぞましき叫喚。

 そのあとに残ったのは、息遣いさえも反響する静寂だった。

 戦いは、そこで終わりを迎えたかに思えた。

 そのとき、朽ちた鬼の体から黒い靄が噴き出した。靄は、渦を巻くように集まり闇の塊となった。鬼の骸を呑み込んで、ひとつ鼓動する。

 闇の中から声が聞こえた。硬い岩肌に弾かれて、血も凍る怨声が木霊をつくる。

 覚エテオレ……愚カナ、人間ヨ……。

 それは倒れたはずの鬼頭の声だった。

 戦慄が駆け抜ける。少年に、もはや余力はない。

 されど悪鬼の姿はどこにも見えず、ただ声だけが冷たく響く。

 己の心臓を貫いた憎き仇を呪う言の葉が幾重にも幾重にも満ちたのち、闇は跡形もなく掻き消えた。鬼の骸を抱いたまま。あとには、何も残らなかった。

 災いの源が滅び、人々は訪れた平和に歓喜した。鬼を退治た少年は英雄と謳われ、後の世にまで語り継がれるようになった――。


「年若き英雄の物語は、それで終わったと思っていた。誰もがそう思っていたわ。でも、彼の倒した鬼は完全に滅んだわけではなかったの」

 鬼ヶ島の戦いから長い年月が過ぎ去り、人々が彼と鬼との戦いを忘れてしまったころ――奴らは現れた。人の心の闇に根づいて成長する形のない化け物として。

「心の、闇?」

 黙って耳を傾けていた桃河が、そこで口を挟んだ。少女はそれを受け止め、わずかに瞳を曇らせる。

「簡単に言えば『よくない感情』のことよ。強い不安や孤独を感じたり、他人に対して怒りや憎悪の念を向けたときに感じる、陰鬱で重苦しい嫌な気分。鬼は、そういった心の闇に生まれ、闇が深くなればなるほど人の心を蝕んでいくの。……そうして心を蝕まれた人間は、あるとき理性的な判断能力を失い、感情のまま行動するようになってしまう。これが、鬼憑きの正体。奴らは人間そのものを器にして甦ってしまったのよ」

「ちょっと待てよ。なら、さっきのあいつらがその退治損ねた鬼だっていうのか? そんなのただのお伽噺だろ?」

「あら。お伽噺がすべて作りごとだとは限らないでしょう? それに、あなたはもうその目で確かめたはずよ。これがただのお伽噺なんかじゃないってことを」

 彼女が何を言わんとしているのか。今度はすぐにわかった。

 昨日までフィクションだと思い込んでいた存在は、すでに現実として桃河の前に現れている。論より証拠となるものを先に突きつけられているのだから、口先だけの反論などできるわけがない。

 開きかけた唇を噛んで桃河は小さく唸った。

「多かれ少なかれ、人の心の中には闇がある。それでも、すべての人間が鬼憑きになるわけじゃないわ。鬼がその力を強くするのは、人が自分自身の闇に呑まれてしまうとき。そうならないように誰もが自分の中の闇と戦っているのよ。苦しくて辛いけれど、それに打ち克ってこそ内なる鬼を制する強さを得られるの。……だけどいま、理由はわからないけれど、この世はかつてないほど陰の気に満ちているわ。それが好からぬ影響を与えているせいで闇の深まりが強くなっているの。急激に力を増す鬼たちに、未熟な精神は耐えられない。だから、この数年鬼憑きの数が急増しているのよ。鬼は人を惑わし、人の世に乱を生むわ。そして、人の世が乱れれば、人はまた闇を深くする。そうしてまた新しい鬼が生まれるの。このままいけば、いずれこの国は鬼によって支配されてしまう」

 長い黒髪が風に遊ばれ、少女の頬にかかった。髪を掻き分ける下で、桃河を見下ろす双眸が緩やかに細められる。

「だけど――」

 形のいい唇が微笑の意を帯びた。

「悪しき鬼を屠るため英雄の魂は輪廻を駆ける。自らの盟約を果たすため、彼もまた新たな器を得て現世に降り立った。それが――あなたよ」

 少女の指が、すいっと桃河の鼻先に突きつけられた。

「かの英雄の魂は、いま、あなたの中にある」

 きっかり三秒。桃河は瞬きを忘れた。少女と互いを見詰め合ったまま、奇妙な沈黙がしばしの時を埋める。そして理解が追いつくなり桃河は勢いよくベンチから立ち上がった。

「ちょっと待て! おまえ、いったいなんの話をしてるんだっ?」

「もちろん、あなたの話をしているのよ。もう一度言うわ。あなたは特別なの。遠い昔に人々を苦しめる悪い鬼を倒した――いまもなお語り継がれる伝説的英雄。その人の魂を、あなたが受け継いでいるの。あれが鬼に見えたのなら、間違いないわ。鬼を退治する宿命を持った魂の持ち主だから、人に憑いた鬼が見えたのよ」

「だから、どうしてそこに俺が出てくるんだよ! 百歩譲ってあいつらが大昔に倒し損ねた鬼だってのはいいとして、鬼が見えたのなんてただの偶然かもしれないだろっ?」

 頼むからこれ以上、面倒なことに巻き込まないでくれ!

 鳥肌を立てながら、桃河は声を張り上げた。こんな戯れ言、信じろという方がどうかしている。そう思うのに、頭の芯が痺れて脈拍がどんどん加速していく。

 平凡な人生。ありふれた日常。他人が聞けばつまらないと愚痴をこぼす毎日にも、桃河は十分満足していた。あるがままに生きること。若年寄と言われようと平穏であることが最高の幸せだった。「特別」なんて望んでいなかったのに。彼女と出会ってから、桃河の常識を覆すことばかりが起きている。

 胸の奥にひどいムカつきを感じて、桃河は顔を歪めた。

「なんなんだよ、ホントに。意味がわかんねぇよ。いきなり現れておかしなことばっか言いやがって。おまえこそ何者だよ。あいつらのことだって見えてないんだろ? だったらどうして奴らのこと知ってるんだ。ほかの誰もが知らないのに、なんでおまえは全部知ったような顔してるんだよっ」

 捲し立てる桃河に少女は何も答えない。代わりに、ゆったりとした動作で右手を持ち上げた。肩の高さまで上がった腕が水平に移動して、虚空を撫でる。

 黒い瞳が瞼に隠れ、静かにそれは始まった。

 弧を描く黒髪。

 地を滑るような足運び。

 指の先までしなやかに伸びた腕。

 粛々と、そして艶やかに――彼女は舞った。




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