【7】
もともと長い距離を走るのは苦手だった。
年に一度のマラソン大会や体育の授業でも、結果は後ろから数えた方がだんぜん早い。だいたい、あえて苦しみに耐えつつ走るという自虐的行為になんの意味があるのか。持久力を養うためと体育教師は言うが、そんなものは毎日の積み重ねで自然と培われていくものだろう。授業の中で少しばかり走ったくらいではなんの足しにもならないと、ずっとそう思っていた。
でもそれは、要するに「逃避」だったのだ。辛くて苦しいから、それらしい理由をつけて逃げていただけ。一度も真剣に向き合おうとしなかった。
けれど人生は何が起こるかわからない。
もしあの苦痛としか感じられなかった時間が、今日という日のためにあったのなら。少しは真面目に取り組んでおけばよかった――のかもしれない。
酷使された筋肉が悲鳴を上げ、心肺機能が限界に達しようとしたころ。
桃河が足を踏み入れたのは、近隣住民の憩いの場所だった。四季折々の草木が茂る広い敷地に、運動場や植物園などを備えた市営公園。どこをどう走ってきたのかはまるで覚えていないが、ここから祖父母の待つ家まではあと少しだ。知った場所というのは、それだけで安心できる。自然と桃河の足取りも緩んでいた。後ろを振り返って確認してみても脅威はもう感じない。上手く逃げおおせたのだろう。
夕方の公園は人気もまばらで静かだった。中心地にある大きな池には水鳥がぷかぷかと浮かび、ときおり白い羽をバタつかせている。足元には赤や黄色の葉に混じって、たくさんのドングリが転がっていた。
綺麗に舗装された遊歩道を進むうち、桃河の中で嵐のごとく荒れ狂っていた波は漣へと変わり、やがて凪いだ水面にぽつりぽつりと波紋が広がった。
さっきのアレはなんだったのか。
道すがら小さな犬を連れて散歩をする人や、肩を寄せ合って歩く楽しげな女子高生らを見ると、さっき目にした光景など嘘のように思えるのに――。
池のほとりに設置された木製のベンチに桃河は倒れこむように腰を下ろした。座ってみると、想像以上に疲労していたことを自覚する。しばらくは立ち上がれそうもない。背もたれに体を預けるようにして空を仰ぎ、肺が底を尽くまで息を吐き出した。
「あー疲れたぁ……。なんだったんだよアイツら。ていうか、見た目からして普通じゃなかったよ、な」
枝葉の間から見える曇天は不穏に渦巻いている。できることなら、いますぐ帰宅して寝たいというのが桃河の本音だった。だがこのままではとても安眠などできないだろう。
「あれは、鬼よ」
桃河の独りごとのような問いかけに、背後から回答があった。
声の主を求めて振り向くと、憂いを含んだ横顔が遠くを見つめていた。桃河と同じ距離を走ってきたはずなのに、芯の通った立ち姿には疲弊の色が見当たらない。彼女の背に沿って落ちる髪は、丁寧に櫛を通した直後のような光沢を帯びていた。
「お、に……?」
自分の口から紡がれた単語が己の胸を叩く。
長く尖った両手の爪と、醜く歪んだ口元から覗く鋭利な犬歯。赤い狂気を光らせてバットや鉄パイプを振りかざす形相は思い返しても背筋が冷えた。それだけでも十分人間離れしているというのに、彼らの頭部には前髪を掻き分けて雄牛のようなツノまで生えていた。黒光りする二本のツノを頂いた姿は、まさにお伽噺に登場する想像上の怪物そのものだ。
記憶の中で、鬼の象徴たる異形の証が鈍く光る。
あ、ありえねぇ……。
いまや時は二十一世紀。宇宙旅行も夢ではなくなったこのご時世に、すんなり鬼の存在を受け入れられるほど桃河も幼くない。
なんの冗談だと言わんばかりに、桃河は片手で顔を覆った。
「目に見えたことが真実よ」
少女が、くるりと向き直って桃河を見た。桃河の胸のうちを正確に読み取って、通りのよい声が空気を揺らす。
「驚くのも無理ないけど、鬼はずっと昔からこの世界に実在していたのよ。ただ、その姿が人の目に映ることがなかっただけ」
「……どういうことだよ」
「そのままの意味よ。鬼は闇から生まれ人に憑き人を惑わすの」
「人に憑く……取り憑かれるってことか?」
桃河が聞くと、少女は「そうよ」と短く首肯した。
「そして鬼に憑かれた人間は、理性を失くし衝動的な殺人や破壊行動に駆られてしまう。鬼は、そうして得られる人の痛み――悲しみや恐怖を糧に古来より生き続けてきたのよ」
「んな馬鹿な。もしそれが本当なら、どうして誰も奴らのことを知らないんだよ。鬼が人間に取り憑いて人を襲ってるなんてマスコミが黙っちゃいないだろ」
「言ったでしょう? 鬼は、人の目には映らないって。憑かれた本人も周りの人間も気がついていないだけなのよ」
それに――。
と、少女はいったん言を切り息を継いだ。その明眸にわずかな険を滲ませ言い繋ぐ。
「ニュースなら毎日のように流れているわ」
「は?」
「かっとなって刺したとか、むしゃくしゃしてやったなんて、よく聞くでしょう? ウサ晴らしや突発的な感情の暴走による殺傷行為の大半は、鬼憑きによる一時的な理性の消失によるものよ。他にも、常人には想像のつかない理由で故意に他人を傷つけるような事件の影には、ほぼ間違いなく鬼が潜んでいると考えていいでしょうね」
……え?
衝撃は、やや遅れてやってきた。何を言われたのか、すぐには理解できなかったからだ。言葉の意味は、じわじわと時間をかけて染み渡った。
少女は囁くように言った。
「鬼はそこにいるの。私たちのすぐ隣に」
ざわり。と空気が動いた。葉の擦れ合う音がざわめきとなって周囲を包む。穏やかだった池の表面が俄かに波立ち、水鳥が慌しく飛び立っていった。
「個人的な欲求のためだけに他人を傷つける。生ある者の命を奪う。それが、人間のすることだと思う?」
ざあっと音を立てて血の気が引くような錯覚。世界が揺れて桃河は一瞬、立ち眩んだ。
――『もしも、人の心の隙間に入り込んで悪さをする奴らがいたら、桃河はどうする?』
丸い目を精いっぱい緊張させた級友の声が頭の中で反響した。それを引き金に教室で戯れに交わした会話の切れ端が再生される。
――『ひょっとしたらどこかで擦れ違ってるかもしれないよね』
――『昨日もテレビで見たよ。子供が家族を刺して家に火をつけたとか、男がいきなり刃物を振り回して暴れ出したとか』
――『クラスメートがある日突然、鬼と化す――かぁ』
「鬼は血と破壊を好み人の嘆きを啜って生きる魔性の存在。人の中の小さな蟠りも暗く澱んだ殺意へと駆り立てる。鬼に憑かれた人間は、人の心も忘れて兇鬼と成り果てるのよ」
びくりと肩を震わせて、桃河は息を詰めた。
とんでもないことを聞いてしまった。平穏な日常に浸かっていたいなら知らない方がよかったはずだ。こんなこと、信じたくはない。
だが桃河にはもう彼女が嘘を言っているとは思えなかった。
「つまり最近のイカれた事件は、みんな鬼に憑かれた人間の仕業だったってこと、か」
「全部がそうだとは言わないけれどね」
「じゃあ、さっきの奴らは? あいつらは他の鬼とは違うのかよ」
少女は最初に彼らを「鬼」と呼んだ。あれを鬼と呼ぶのなら、彼女の話と根本的に食い違う。なぜなら鬼は人の目で見ることができないからだ。桃河を襲った男たちは、徒人とは思えない異形だった。人を傷つける行為にもなんの迷いもない。冷たく光る瞳の奥にはうっすらと愉悦の色が混じっていた。あの姿では、他の人間に知られるのも時間の問題だ。まず明日の新聞の一面は間違いないだろう。
「驚いた。気がついてなかったのね」
少女は虚を衝かれたように目を丸くした。
「何がだよ」
「彼らが特別なんじゃなくて、あなたが特別なのよ」
「俺はただの善良な一般市民だぞ」
「単刀直入に言えば、あの場所で『あれ』を目視できていたのは、あなただけだということよ。私だって気配でそれとわかるだけで、鬼の姿なんてまだ一度も目にしたことはないわ」
「は? 俺だけって……え? なんだよ、それ」
桃河はぽかんと少女を仰ぎ見た。もう少し詳しい説明を願いたい。そう気持ちを込めたつもりだったのに、彼女の返答は明後日の方向から飛んできた。