【5】
わき道から勢いよく飛び出してきたのは、桃河と同じ年ごろの少女だった。
紺地に白い襟と清楚なリボン。どことなく上品な感じのする制服がよく似合っていた。腰まである豊かな黒髪は驚くほどに艶やかで。透き通るような白い肌がうっすらと上気しているのは、彼女が走ってきたからだろう。見開かれた瞳がかすかに揺れる。
「あ、わりぃ」
桃河は、慌てて掴んでいた腕を放し両手を挙げた。
他意はないという意思表示が伝わったのか、少女はそっと息をつき、ようやく緊張を解いた。
「……ね」
ぽそりと呟かれた言葉が聞き取れず、桃河が「え?」と聞き返すが、
「ごめんなさい。なんでもないの」
少女は小さく首を振り、それよりも……と改めて桃河に向き直った。
「あなたはここで何を?」
「あ? いや……」
予期せぬことを聞かれて、思わず口ごもる。何をと言われてもなんとも言えない。
目を泳がせる桃河に少女は固い口調で言った。
「いまこの辺りは危険よ。早く帰ったほうがいい」
「いや、俺もそうしたいけど、帰り道がわか……っ」
わからないと言いかけて、桃河ははっと口を噤んだ。高校生にもなって――しかも地元で――迷子になったなどと恥ずかしくて言えるかと胸中で嘆く。桃河は妙な自尊心に駆られて、うまく言い逃れができないものかと頭を巡らせた。
急に黙り込む桃河を、疑わしげな視線が見上げる。
桃河より幾分低い位置にある少女の面差しは、文句のつけようもなく整っていた。なめらかな曲線が描く相貌は、目も鼻も口も奇跡的なバランスで配置されている。ありふれた表現をするなら、よくできた人形のような造作だ。しかし彼女からは作り物の無機質さなどまるで感じられない。触れずともわかる柔らかな頬、深く透明な黒の瞳、楚々とした鼻筋の下に咲く桜の唇――そのすべてが余すところなく瑞々しい輝きを放っていた。
そんな相手に間近で見つめられては、桃河でなくとも胸が高鳴る。心の裏側まで見通されそうな追究の眼差しに、桃河はぐっと喉を詰まらせた。見えない汗がダラダラと大量に流れ出る。
そんな桃河の心情もお構いなしに、少女はさらりと禁句を口にした。
「ひょっとして、迷子なの?」
「ち、違っ! その、俺は普段通りに歩いてたんだ。それが、気が付いたらこの辺を歩いてて……だから別に道に迷ったとか、そういうんじゃなくて、つまり――」
「迷子なのね?」
しどろもどろの弁明も徒労に終わった。確認するように問われては、もはや言い逃れもできない。ぐうの音も出ない桃河は降参するように脱力した。
些か傷ついた様子で項垂れる桃河に、少女がくすりと肩を震わせる。
「おもしろい人ね、あなたって」
「そんなに笑ってくれるなよ、俺だって恥ずかしいんだぞ」
苦い顔で桃河が言うと、余計におかしかったのか少女はころころと笑い始めた。軽やかに弾む彼女の声が、耳朶に触れてこそばゆい。
桃河は自分の髪をぐしゃりと掻いて、
「あー。そういえば、この辺って何かあるのか? さっき危険がどうとかって」
話題を変えようと少女に問いかけた。
すると一転して彼女の端整な顔が凍りついた。スカートの裾をひるがえしその身を反転させる。長い黒髪が、あとを追って踊るようにしなった。
少女の見据えた先で、若い男がこちらに顔を向けて立っていた。
いつからそこに居たのだろう。その瞳を見た瞬間、桃河は言い知れぬ違和感に襲われた。纏わりつくようなザラつく気配に全身が嫌悪し急激に動悸が早まる。胸の奥に焼けつくような痛みが走った。胸元を掻い掴んだ指先が凍えるように冷えていく。
少し色の落ちた短い髪。ロゴ入りの黒いウィンドブレーカーと履き古したジーンズ。そこに居るのはなんの特徴もない、どこにでもいそうな若い男。
なのに。
瞠目したまま、桃河は男から目を逸らすことができなかった。形のない何かもやもやしたものが肺腑を重くする。
男がゆらりと歩を進めた。
「逃げて」
緊迫した少女の声が、膜を張ったようにくぐもって聞こえる。体中の血液がうねりを上げて警鐘を鳴らしていた。
……あれは、在ってはならないものだ。
眩暈にも似た焦燥感に目が霞む。もう少女の声も聞こえなかった。
刹那。脳裡に流し込まれる光景があった。
――辺りを包むのは、灯火に照らされるゴツゴツした冷たい岩肌と、息遣いさえも反響する静寂。
そして、微動する、闇。
輪郭を持たず脈動するそれは、禍々しくおぞましい。
耳の奥で怨ずの唸りが木霊する。
『覚エテ……オレ……』
――……っ!
意識が飛んでいたのはごく僅か。
はたと目を瞬くと不明瞭だった視界がはっきりした。粟立つほどの不快感が濃度を増して漂っている。桃河は声を上げようとして、それができないことを知った。
身なりだけはそのままに、男の様子が一変していた。
目を疑う。もはやそこに「どこにでもいそうな」若い男など存在していなかった。
精彩を欠いて土気色に転じた肌。骨が浮き出るほど肉の削げ落ちた頬。だらりと下げた双手の爪は獣のように伸びて変色している。無表情のくせに剥き出しの剣呑さを含んだ眼光が桃河を射抜く。その両の眼は血の色よりも赤く染まっていた。変わり果てた男の額――髪の生え際に奇妙なものが突き出ている。
目前まで迫った男の口角が不気味に歪んだ。
ずっと早鐘を打っていた桃河の胸が一際大きく跳ねた。
「……お、……っ」
桃河の耳に、間近で息を呑む音が届く。それとほぼ同時だった。
背中に冷水を浴びせられたような感覚に襲われて、桃河はとっさに身を返した。
最初の一撃を躱すことができたのは、奇跡とも言うべき幸運だった。あるいは極度の緊張状態のせいで神経が過敏になっていたのかもしれない。
桃河は眼前に迫り来るものを捕捉すると、反射神経に任せて体を捻った。脇を掠める衝撃に声なき悲鳴を上げる。体勢を整える間もなく、再び凶器が唸りをあげた。繰り出される追いうちに足が縺れる。
一撃でも当たったら、終りだ。
強張る四肢を叱咤して、桃河は身を躍らせた。耳の奥で聞こえる激しい鼓動が、遠退きそうになる意識をギリギリで保っている。後退った足が地を滑り眼界が大きくぶれた。
「――っ!」
瞬間、頭が真っ白になって何も見えなくなった。だから桃河は自分が気を失ったのだと思った。
それが目を瞑っていたせいだと気づいたのは、鼓膜を突き破るような甲高い音が響いたあとだった。