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【4】

 外に出ると、空は見渡すかぎりの厚い雲に覆われていた。湿り気を帯びた風がするりと桃河の頬を撫でていく。

 降りそうだな――。

 朝の予報では一日快晴だと言っていたのに。おかげで今日は傘を持参していない。桃河は気まぐれな空模様を一瞥して校舎を後にした。

 校舎の出入り口から校門までは、ほぼ一直線。右手に等間隔で植えられた桜の並木が続いている。春ともなれば枝いっぱいに薄紅色の花を抱える木々も、いまは葉色を紅く染め上げ季節を彩っていた。並木の合間から見えるグラウンドからは、運動部の威勢のいい号令や息の合った掛け声が聞こえてくる。

 どこの部にも所属していない桃河は、放課後はまっすぐ家に帰ることが多かった。たまに走太に付き合って寄り道をすることもあるが、今日はその同行者もいない。終業を告げる鐘が鳴り終わると――彼にしては極めて珍しく――挨拶もそこそこに教室を飛び出して行ったのだ。そういえば走太は朝も遅刻ぎりぎりだった。天気が崩れたのは、よもやその所為だったりしないかと考えて桃河はこっそり含み笑った。

 校門を出て、桃河は何も考えずに進路を右に取った。高校に入学してから、ほぼ毎日同じ道を往復している。もう意識せずとも足は自然に動くようになっていた。

 桃河の家は学校から歩いて三十分程度のところにある。自転車で通学することも可能な距離だが、自転車の通学許可証を発行する手続きが面倒で、桃河は一年のころから徒歩通学をしていた。

 以前、たった一回の手間を惜しんで、毎日片道三十分を歩く方が面倒じゃないのかと走太に聞かれたことがあった。しかし、ものにはタイミングというものがある。それを逃してしまうと、その一回の手間の方がよほど億劫に感じられる――というのが彼の持論だった。

「でも、やっぱこんな日は自転車チャリの方がいいかもしれないなぁ」

 また少し風が冷たくなったのを感じ取って、桃河は首を縮めた。

 急げば降られる前に帰り着くだろう。歩調を速めようと足を踏み込んだとき、桃河の体の奥がどくんと音を立てた。

「……なんだ?」

 急にざわつきだした胸に手を当てて、なんとなく周りを見渡してみるが、これといって目につくものはない。

 これは……ひょっとして不整脈?

 妙な圧迫感に首を傾げた桃河は、ひとつ深呼吸を試みた。不整脈が出たときは慌てたりせず、まずは落ち着くことだと祖父が言っていたのを思い出したからだ。過剰に反応するとかえって動悸が速まったり、過呼吸になることもあるらしい。亀の甲より年の功。幼いころから祖父母に懐いていた桃河には、祖父が繰り返し口にする「教え」がよくよく染み込んでいた。

 深い呼吸を数回試すと、波はゆっくり凪いでいった。やはりお年寄りの言うことは馬鹿にできない。

「不整脈って確か、寝不足とかでも出たりするんだよな。夕べの夢見が悪かった所為かぁ?」

 呟きながら桃河は今朝見た夢のことを思い出した。

 一週間ほどまえから桃河はおかしな夢を見ていた。起きてしまうとどんな内容だったかは思い出せない。毎回違う夢である気もするし、まったく同じものを繰り返して見ている気もする。ただそれを無理に思い返そうとすると、吐き気が込み上げてきて、朝から胸焼けした気分に陥るのだ。

 だが今朝の夢だけはいつもと少し違っていて、うっすらと覚えていることがあった。

 深い闇の中を歩く自分。何かとてつもなくひどい後悔に苛まれ、ぼろぼろになっていた。ふいに誰かに呼ばれた気がして振り向くと、そこにはいくつかの光があった。「彼ら」は、いつも傍にいてくれた大事な存在だった。自分にはそれがわかった。光は寄り添うように隣に並んで、何かをひとこと言い残すと急に輝きを強くした。光はすべてを真っ白に塗りつぶして……そこで目が覚めた。

 暗闇の中を歩いていたのが本当に自分であったのかはわからない。その光景を違う場所から見ていただけなのかもしれない。

 けれど――。

 目覚めたとき、残り香のように漂っていたのは強い郷愁感だった。そして桃河は何故だか急に目の奥が熱くなって大いに狼狽えたのである。

「まったく、なんだってんだよ……」

 思い出して、またおかしな気分になりそうになった桃河は頭を左右にふった。それから、わざと大股に歩いて、大通りに抜ける道をいつもと逆の方向に曲がった。裏通りへ入り、さらに人気のない道へと進入していく。

 意図的に帰りの道筋を変えたわけではなかった。無意識に体がその方向へ向かっていたのだ。それが当然のことであるように。だから桃河も気がつかなかった。自分がどうして毎日の往復路を外れているのか、いったいどこへ向かって歩いているのか、少しの疑問を持つこともなく。ただ導かれるまま――。

 気が付いたときには、桃河は人通りのない路地裏まで入り込んでしまっていた。

「俺、なんでこんな所にいるんだ? ていうか、ここ何処だ?」

 キョロキョロと辺りを見回してみるが、その景色に見覚えはない。

「――げ。地元で迷子かよ」

 とはいえ、桃河がいまの地に移り住んだのは中学を卒業してからである。両親の海外赴任と志望した学校が近いという二つの理由から、祖父母の元で暮らし始めてまだ二年と経っていない。むしろまだ踏み込んだことのない区域の方が多いくらいだった。しかし屈辱的なのは変わりない。桃河は愕然とその場に立ち尽くした。

 とりあえず突っ立っていても仕方がない。徒歩でここまで来たのだから、それほど学校からも離れていないはずだ。そう見当をつけた桃河は踵を返して歩き始めた。

 が、その行く手はすぐに阻まれてしまった。

 ふいの衝撃と小さな悲鳴。

 半歩退いて踏み止まった桃河の鼻先で、華奢な体がよろめいた。

「あ――」

 咄嗟に手を伸ばして、桃河は。

 思わずその細い腕を掴んで引き寄せていた。

 遠くの空で、時を刻む鐘が鳴った。人知れぬ邂逅を告げた音韻は、風に乗って二人の間を吹き抜けた。




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