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帳を置いて、下がります

「良い口が付いたから頼らねえ」と切られ、八年の目利きと売り先を取り上げられたので、付け値の札を置いて帰りました——お宅の革、去年の半値ですね

作者: 真神 慧
掲載日:2026/08/08

【鞣し場の前】


「良い口が付いたから、もうお前には頼らねえ」


親指が、革の裏で止まりました。


佐之助は鞣し場の戸口に立ち、胸を張っております。わたしの指先には、渡されたばかりの一枚。別れ話の最中だというのに、目は銀面に浮きかけた細かな罅を三つまで数えておりました。四つ目は襟元の陰。あら嫌だ、見つけたくもないものほど、よく見える。


「そうですの」


「今度の買い手は、俺の腕をずいぶん買ってくれてな。厚くて広い革なら、まとめて引き取るって話だ」


鞣し場にたむろしていた仲間たちが、景気よく手を叩きました。


「佐之助も、とうとう一人前だな」


「これで値付けに小娘を呼ぶこともねえ」


佐之助の口の端が上がります。新しい羽織の袖まで一緒に上がりました。表は上等、裏は少しけちっている。売れば革が二枚、裏まで揃えれば三枚。人を切る日に三枚ぶん着飾るとは、ずいぶん念の入った門出でございますこと。


「梢も、これからは自分の用をしろ。俺の革棚を覗きに来なくていい」


「承知いたしました」


革を返そうとして、もう一度だけ罅が指へ引っかかりました。乾かしが少し急です。このまま重ねれば、湿りの残った内側に引かれて、冬には銀面がもっと開く。油を薄く引き直して、風の通る棚へ——そこまでが喉元へ並びました。


八年で初めて、並んだ言葉を一つも外へ出しませんでした。


「何だ」


「いえ。お返しいたしますの」


わたしは革を両手で差し出しました。佐之助は片手で受け取り、仲間へ見せるように高く掲げます。罅は光の向きで隠れました。なるほど、見えなければ無いのと同じ。商いがそんな親切な仕組みなら、履物屋はみな目を閉じて仕入れるでしょう。


「じゃあな、梢」


「はい。ご繁盛を」


鞣し場を離れるとき、上がり框の角が目に入りました。擦れが深い。張り替えるなら、端革で足りる。つい革半枚ぶん、と数えたところで、わたしは自分の親指を握りました。


まだ、革の裏を探っております。


    *    *    *


【十日後・革棚】


佐之助は、わたしの字の札を指で弾きました。


「これは背の厚いところだから、この値。こっちは腹側で柔らかいから、少し下。まあ、見りゃ分かる」


よくもまあ、わたしの字を見ながら、ご自分の目で見た顔ができますこと。札の隅に丸を二つ重ねる癖まで佐之助の知恵になっているらしい。丸一つは夏革、二つは秋革。三つなら虫食い、ではなく、わたしが眠くて手元を滑らせた跡です。そこまで読み解けたなら大したものですが。


新しい買い手へ見せる革を選ぶというので、わたしは自分の試し革片を取りに来ておりました。棚の脇の小箱には、佐之助が鞣した革を年ごと、部位ごとに切った小片が収まっています。色艶、匂い、曲げた跡。大きな一枚は売れば消えますが、指二本ぶんの小片なら、二年後の伸びまで覚えていてくれるのです。


「それも、もう要らねえだろ」


「わたしのものですの。場所だけお借りしておりました」


「そんな切れ端、何にするんだ」


何にする。秋に鞣した腹側の小片を摘まみ、わたしは爪先でしならせました。これを鼻緒へ挿げれば、最初は柔らかく足当たりがよい。半年で馴染み、一年で緩み、二年目の雨上がりに伸びる。客が石段で片足を滑らせ、雪駄が先に行き、ご本人は尻から着地。災難一回、悪評三軒、戻り品は五足。見える。見えすぎる。嫌な未来ほど勘定が早い!


「今の口なら、幅がありゃ買う。細けえ使い道まで、こっちが気にする話じゃねえんだ」


佐之助は秋革の札を、背側の革へ付け替えました。札に書かれた値だけを見て、端の丸印には気づきません。


「そうでございますか」


「お前も、まだ何か言いてえ顔をするな。頼らねえって言ったろ」


それなら結構。頼まれていない助言は、安売りどころか押し売りです。八年も無代で差し上げてきた品を、これ以上おまけする必要はございません。


佐之助が羽織の前を直しました。裏地まで見えます。やはり革三枚ぶん。しかも帯は一枚半。鼻緒なら九足挿げられる額を身につけて、「幅がありゃ買う」とは景気がよろしい。転ぶのはお客で、ご自分ではありませんものね。


わたしは試し革片の箱を抱えました。戸口の敷居には、重い革を引きずった筋が増えております。削れを直すなら端革三枚。数えてから、もう直す家ではなかったと思い出しました。


口を閉じるのは、思ったより忙しい仕事です。


    *    *    *


【一月後・履物問屋の店先】


戻された鼻緒が、店先の板へ置かれました。


芯から外れ、片側だけ指一本ぶん長くなっております。買い手はそれを佐之助の前へ押し戻しました。


「この革では請けられません。柔らかすぎます」


「挿げ方が悪かったんじゃねえのか。うちを通ったときは、ちゃんと締まってた」


「三足とも同じです」


「このところ湿気がひでえから、そのせいだろ。相場だって下がってる。革だけの話じゃ——」


佐之助の語尾が、店の奥へ行くほど細くなってまいります。鞣し場ではあんなに立派だった声が、買い手の前では細い鼻緒ほど頼りない。引けば切れそう。一本いくらになるかしら。いけない、声まで値踏みしても売り先がありません。


わたしは別の用で店先に来ておりました。佐之助は一度こちらを見ましたが、すぐ戻り品へ目を落とします。呼ばれてはいません。ですから通り過ぎればよいのです。よいのですが。


買い手が脇へ除けた革の束、その一番上だけは背側でした。硬さが残り、曲げても皺が浅い。鼻緒には厚いけれど、地面に当たる場所ならまだ働ける。捨てれば革一枚。足袋底なら十二足。十二足ですよ。煮豆なら何杯でしょう。革を食べる気はございませんが、捨てるくらいなら煮豆に化けていただきたい。


「背側なら、まだ足袋底へ回せますの。油を引き直さず、そのまま薄く漉けば」


買い手が革を裏返しました。爪を立て、端を曲げ、鼻先へ寄せます。


「これだけは使えるな」


佐之助が顔を上げました。


「なら、残りも同じ値で——」


「同じではありません。こちらだけです」


買い手は背側の束を右へ、腹側を左へ分けました。右は三枚。左は十一枚。わたしの口が助けたのは三枚だけでございます。親切も小分けにしなければ、また八年分の大袋になりますから。


「背側はこれまでの七掛け。残りは半値でも難しい」


「半値?」


「用途が合いませんので」


佐之助は、わたしを見ました。


「お前が余計なことを言うから、分けられたじゃねえか」


まあ。腐った蜜柑の横に一つだけ無事な蜜柑があれば、無事なほうを隠せとおっしゃる。たいへん仲間思いな理屈ですが、腹を壊すのは買い手です。


「三枚は値が残りましたの」


「十一枚の値が落ちた」


「わたしが口を出さなくても、そちらはお戻しになったと思いますけれど」


買い手は三枚だけを奥へ運ばせました。代金の札を書きながら、わたしの試し革片の箱へ目を留めます。


「その見立て、杢兵衛さんにも話しておきます。うちへ回る革を扱っている」


「お好きになさいませ」


佐之助が何か言いかけましたが、買い手は勘定へ戻りました。わたしも箱を抱え直します。一度だけ。これでおしまい。


店を出ると、煮売りの鍋から湯気が上がっておりました。銭は足りる。けれど、冷えた粥が家に残っています。残りものを捨てられないのは、革でも粥でも同じらしい。


まったく、わたしの腹は商いに向きません。すぐ値ではなく匂いへ転ぶ。


    *    *    *


【その夜・鞣し場】


「昼のあれは、俺の革を悪く見せたかったのか」


佐之助は鞣し桶の前で腕を組みました。仲間の姿はありません。羽織も脱いでおります。三枚ぶんの威勢がなくなると、見慣れた幼なじみの肩でした。


「使えるところを申し上げただけですの」


「黙ってりゃ、まとめて買ったかもしれねえだろ」


「買い手は伸びた鼻緒を三足、お持ちでした」


「だからって、お前が値を決める話じゃねえ。頼るなと言ったはずだ」


わたしは抱えてきた包みを、作業台へ置きました。


紐を解きます。古い札を一枚ずつ取り出し、年ごとに揃えました。春の背革。夏の肩。秋の腹。虫の跡を避けた一枚、雨続きで乾きの遅かった一枚、脂の乗りすぎた一枚。端は丸まり、墨は薄れ、それでも値だけは残っています。


佐之助が眉を寄せました。


「何だよ、それ」


一枚目の角を二枚目へ合わせます。ずれを指で直し、三枚目、四枚目と重ねました。壊しません。破りもしません。札に罪はございませんもの。書いた手にも、たぶん。


最後の一枚を置いたとき、革棚を見ても枚数が浮かびませんでした。


八年とは、値に直せないものだったようです。


「わたしはこの札に、八年、お前さんの革の値を書いてまいりました」


声は、思ったより平らに出ました。佐之助の指が、いちばん上の札へ伸びます。けれど触れる前に止まりました。


「別に、全部置いていけとは——」


「ええ。ですから、わたしが置いてまいりますの」


試し革片の箱だけを脇へ寄せました。札は佐之助の仕事。小片はわたしの仕事の履歴。今夜は、その違いを間違えません。


「値を決めるのは、わたしの役目ではございません」


責める声にはしませんでした。笑いもしません。佐之助が切ったところへ、切られた形のまま返しただけです。


ああ、やっと言われたとおりにできました。八年もかかるなんて、わたしはずいぶん物覚えが悪い。


佐之助の口が開きましたが、言葉は出ませんでした。わたしは試し革片を抱え、戸口へ向かいます。敷居の擦れも、框の欠けも見えました。端革に直せば何枚、とは数えません。


外の冷気が、親指の熱をさらいました。


    *    *    *


【十日後・革問屋の店】


杢兵衛さんの店は、上がり框だけで革一枚ぶんございました。幅が広く、角もよく磨かれ、客が躓かない高さです。敷居の擦れは浅い。荷を引きずらず、持ち上げて運ばせているのでしょう。人足の腰には厳しく、革には優しい店。採点は七十点。煮売りの匂いが奥からするので、九十五点まで上げてもよろしい。


「梢か」


「はい。お呼びと伺いましたの」


杢兵衛さんは挨拶の代わりに、二枚の札を机へ置きました。白い札が二枚。墨も太さも同じです。


「足袋底、三十六足。戻りなし」


「それは何よりでございます」


「お前さんの一言で、鼻緒へ回す損も止まった」


「三枚を拾っただけですの」


「十一枚を買わずに済んだ」


短い。しかも勘定が速い。わたしの内心へ勝手に入ってきて、そろばんだけ弾いて帰るような話し方です。戸口の框より無駄がない。困ります。無駄がない人は値切る隙もありません。


杢兵衛さんは筆を取り、二枚の札へ同じ文言を書きました。月三分。戻りを防いだ品は、浮いた損の一割。片方をわたし側へ滑らせ、もう片方を自分の手元へ残します。


「お前さんの目に、うちは月いくら払えばいい?」


先に金額を書いてから尋ねるとは、問いの形をした押し買いでございます。けれど、三分。革なら背側が二枚と少し。粥なら——いけない、粥に換算すると夢が小さい。煮売りなら具を選んでも、月に二十杯。急に豊か!


「もうお書きですのに」


「嫌なら直す」


「上へ、でございますか」


「下へ」


「月三分でお願いいたします」


「よし」


あっさり決まりました。八年ただで使われた目が、わずかな応酬で月三分。世の中は時折、腹が立つほど簡単です。


杢兵衛さんは、わたしの試し革片を一つ摘まみました。二年前の秋、佐之助が鞣した腹側です。端を引き、伸びを確かめ、元の場所へ戻します。


「俺も若いころ、腹を鼻緒へ回して客を転ばせた」


「それで、わたしをお雇いに?」


「同じ損は二度いらん」


世辞の一つもございません。腕がよいとも、目が美しいとも、苦労したなとも言わない。ただ損を防ぐ値として札を二枚書く。なんということでしょう。わたし、同情より銭のほうが好きだったらしい。知りたくなかった己の品性でございます。


「試し革片は、ここへ置け」


「場所代をお取りになります?」


「月三分から引くぞ」


「では膝に抱いて働きますの」


「棚は空いてる」


その晩、店の者たちが煮売りを取り分けました。大根、焼き豆腐、すじ肉。わたしのぶんの椀も、最初から一つ空けてあります。


湯気で鼻先が熱くなりました。冷えた粥なら一人で食べられます。温かいものは、席まで用意されると少々困る。何しろ、急いで食べれば欲張り、ゆっくり食べれば遠慮と見られる。仕方がないので、大根を先に齧りました。


「熱っ」


杢兵衛さんが札から目も上げずに言いました。


「値は下がらん。冷まして食え」


この店、百点でもよろしいかもしれません。


    *    *    *


【三月後・町の履物市】


佐之助の革は、雪駄の台の横へ戻されました。


市には履物問屋が並び、雪駄、草履、足袋が軒先から軒先まで続いております。革の匂いに炙り餅の甘い匂いが混じる。仕事中に餅へ気を取られる目利きなど信用なりませんので、わたしは二度しか見ませんでした。二度なら職務に忠実。三度目からが食い意地です。


杢兵衛さんの店では、わたしが用途を見た革を部位ごとに分け、札を添えております。背側は雪駄の表。肩は足袋底。腹側は巾着の口。鞣し方が同じでも、生えていた場所と季節が違えば、働き口も違う。人も革も、広ければ偉いというものではございません。


向かいで、買い手が佐之助の束をほどきました。表を撫で、端を折り、銀面へ斜めに光を当てます。


あの日、わたしが数えた細かな罅は、指の腹で分かるほど開いておりました。


「鼻緒を」


買い手が、挿げてあった試しの鼻緒を外しました。両端を揃えると、片側だけが長い。店先の板へ戻し、佐之助の革束も荷台へ押し返します。


「あいにく、お宅の革は請けられませんので」


「待ってくれ。今度のは前より厚い。幅も揃えてある」


「厚いから雪駄へ向くわけではありません」


「なら足袋底に回せばいいだろ。前にそうしたじゃねえか」


「背側だけでした。これは腹が多い」


鞣し場で佐之助を囃した仲間たちも、近くにおりました。一人は急に帯を締め直し、一人は餅屋の品書きを読み始めます。先月まで口にしていた注文の話は、どなたも思い出せないご様子。人の記憶は便利です。支払いの前だけ、よく曇る。


(革の値なんぞ、厚みと広さで決まるもんだ——)


佐之助は革を両手で広げました。買い手はその幅を確かめもせず、値札を一枚置きます。


「この場で引き取るなら、これです」


去年の札も隣へ置かれました。新しい札の値は、きっちり半分。


「お宅の革、去年の半値ですね」


佐之助の頬から、血の色が引きました。口が動きます。厚い、広い、相場が悪い。どの言葉も喉の奥で重なり、結局一つも出てきません。


買い手は仕入れ先を書いた帳面を開き、佐之助の名の脇へ横線を引きました。革束は荷車へ戻されます。現銀も注文書も渡りません。代わりに半値の札だけが、佐之助の手へ残りました。


わたしは向かいの棚で、雪駄の表革を曲げました。戻りは浅い。これなら春の雨にも耐える。杢兵衛さんが横から札を一枚差し出します。


「いくらだ」


「この幅なら、去年より一分上で」


「理由」


「雨のあとに縮みません。あと、向かいの半値札を見たお客が、こちらへ来ますの」


「後ろは余計だ」


「商いは人通りも値のうちでございましょう?」


杢兵衛さんは一分を足しました。二枚とも。同じ札の片方が、わたしの前へ来ます。


勝ち誇るほどのことではございません。わたしは佐之助の値を下げていない。ただ、自分の見た革へ、自分の値をつけただけ。


それがこんなに胸のすく仕事だとは、八年前に教えていただきたかったものです。


炙り餅を三つ買いました。二つは店の者へ。一つはわたし。配分まで公正。砂糖醤油が指についた件だけは、帳面へ書かないことにいたします。


    *    *    *


【翌春・新しい革棚】


新しい革棚には、わたしの名を記した札が並んでおります。


「梢、春、背」


最初にその三文字を書いたときは、札一枚が革十枚より重く見えました。今では筆先も迷いません。背側を曲げ、古い試し革片と艶を比べ、爪の戻りを確かめる。春の若い革は水を吸いやすい。雪駄の表より、足袋の踵へ。値は一分下げ、数で出す。


「梢」


杢兵衛さんが短く呼びました。


「この肩は」


「巾着へ。雪駄には硬すぎますの」


「いくら」


「一枚二朱。六枚なら一分まけても」


「まけすぎだ」


「では半分は煮売り代として、わたしの腹へ戻してくださいませ」


「店の勘定に腹を入れるな」


「働き手の維持費でございます!」


言い合いながら、杢兵衛さんは札を二枚書きます。一枚は棚、一枚はわたしの小箱へ。箱の中には、佐之助の革だった試し革片と、この店で扱った革の小片が年順に収まりました。過去は捨てておりません。捨てなくても、戻らずに済む置き場所ができただけです。


戸口に、人影が差しました。


佐之助でした。


羽織は以前のものではありません。古い袖を継ぎ、帯も色が褪せています。上がり框へ足をかけず、敷居の外で止まりました。


「梢」


「ご用でございますか」


「少し、見てほしい革がある」


佐之助は抱えていた包みをほどきました。春の革が二枚。銀面には油が多く、端は乾きすぎています。背と腹を同じ桶へ入れたのでしょう。直すなら別々に湿らせ、脂を抜き、風を——指先が勝手に工程を数え始めました。


わたしは手を引っ込めました。


「また値をつけてくれ」


声は小さくありませんでした。けれど、鞣し場で仲間に囲まれていた頃の響きもありません。


「今度は、ちゃんと聞く。お前の言うとおりに分ける。売れたら、その、いくらか払ってもいい」


いくらか。便利な値でございます。払う側にも払わない側にも転べる、腹側よりよく伸びる言葉。


佐之助は革を一枚、こちらへ差し出しました。昔なら、わたしの親指はもう裏をこすっていたでしょう。今は両手を前で重ねたままです。


「値を決めるのは、わたしの役目ではございません」


同じ言葉が、今度はまっすぐ敷居を越えました。


佐之助は革を下ろしました。


「じゃあ、誰に頼めばいい」


「それをお決めになるのも、お前さんのお仕事ですの」


「梢」


「わたしは、こちらの革を見ておりますので」


佐之助の目が、棚の札へ移りました。どの札にも、わたしの名があります。彼の革へ隠れていた字ではありません。


包み直す手が、一度だけ止まりました。やがて佐之助は踵を返し、二枚の革を抱えて通りへ出ます。謝りませんでした。わたしも呼び止めません。


姿が見えなくなるまで、戸口の敷居を見ておりました。擦れは去年よりほんの少し深い。直すなら端革二枚。これは杢兵衛さんの店ですから、ちゃんと数えます。


「梢」


振り向くと、杢兵衛さんが新しい革を作業台へ広げておりました。


「切れ」


「試しを?」


「お前さんの名で」


わたしは革包丁を取りました。背側の端へ定規を当て、指二本ぶんを測ります。刃を一度で引くと、細長い一片がすっと離れました。


新しい試し革片の裏へ、墨を入れます。


春。背。雪駄表。梢。


杢兵衛さんは値付けの札を二枚書きました。一枚を棚へ結び、もう一枚をわたしへ差し出します。受け取った札には、革の値と、その横に見立て料がきっちり書かれておりました。


「煮売り代は」


「入ってない」


「大事なところが抜けておりますの」


「今日は豆腐を足す」


「では、その値で」


試し革片を箱へ収めました。古い小片の隣ではなく、いちばん手前へ。


店の奥から椀の触れる音がします。席は空いている。煮売りは温かい。わたしの名がついた仕事は、もう誰かの革の陰へ置かれません。


札を一枚、試し革片を一枚。


どちらも、わたしの手で決めた値でした。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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