エピローグ
ライオネルが屋敷に戻ってくると連絡があった。その日は、アンヌッカも慌てて仕事の休みをとった。
結婚して約一年。その間、彼は軍の仕事が忙しいというのを理由に、決してこの屋敷に戻ってこなかった。
それをいいことに、好き勝手していたのは認める。だから彼が戻ってくるという連絡を受け、アンヌッカもヘレナもあたふたしていた。
「奥様。ドレスはこちらがよろしいですかね? 御髪はどうしましょう?」
「ねぇ、どうして旦那様は急に戻ってくるなんて言い出したのかしら?」
ヘレナにドレスを着付けてもらいながら、アンヌッカはぼやく。
毎日のように、軍本部では顔を合わせているライオネルだが、今までと変わったところなど一切なかった。まして、屋敷に戻るようなことなど、彼は一言も言っていないはず。
「やっぱり、奥様のことが恋しくなったのですよ」
ヘレナは明るくそう言うが、ライオネルがそういう性格でないのを知っている。
「戻ってくるなら戻ってくるでいいけれど。休暇を利用してくれればいいのに」
おもわずアンヌッカの心の声が口から漏れ出た。仕事を休むのが心苦しいからだ。
ライオネルが戻ってくるというから、仕事を休みたいとアリスタとマーカスに伝えたところ、彼らはそれに立ち会うとまで言い出したので、さすがにそれは制した。落ち着いたところで、ライオネルを連れてメリネの家に挨拶に行くからと必死に説得し、それで妥協してもらった。
「まぁ、奥様。おきれいです」
普段の動きやすい簡素なドレスと違い、こうやって着飾ったのはいつ依頼だろうか。もしかして、一人ぼっちの結婚式依頼かもしれない。
「普段着でいいのに」
「そういうことをおっしゃらないでください。こういった機会でもなければ、ドレスを着ようとなさらないでしょう? これでは宝の持ち腐れです。本当に腐ってしまいます。たまにはこうやって袖をとおしてあげないとなりません」
ヘレナに力説され、アンヌッカは渋々とそれに従った形だ。
カランカランとベルが鳴った。
「旦那様ですよ」
ヘレナが先に階下へと下りていき、ライオネルを出迎える。
今さらどういった顔をして会ったらいいかわからないし、カタリーナがアンヌッカだと知られてしまうのもよろしくない。となれば、少しはお淑やかにすべきだろうか。
そろりそろりと階段を下り、エントランスへと向かう。
ヘレナがライオネルを出迎え、上着を預かっているところだった。
「おかりなさいませ、旦那様」
「あぁ、ただいま帰った……」
いつもはもう少し堂々としており、自分以外の人間を見下すような態度を取っている彼だが、今日はどこかおどおどしているように見える。
「ここは旦那様の家でもございますから、帰ってきてはならないというわけではないのですが。今まで家に寄りつかなかった旦那様が、突然、戻ってこられると連絡を受けまして、少々戸惑っております。いったい、どういう風の吹き回しでしょうか?」
アンヌッカの言葉の節々からは嫌味がにじみ出ている。それを敏感にライオネルも感じ取ったようだ。
ヘレナはお茶の用意やらなんやらとあるため、すでに姿を消していた。
「……君には、悪いと思っている」
普段は「おまえ」呼ばわりしているライオネルが、アンヌッカに向かって「君」と言ったのも驚きだった。
「いえ。わたしはこちらで自由にさせてもらっておりますので、何も謝るようなことはありません。ただ、驚いただけです。わたしたちの結婚は国王陛下からの命令。気持ちも伴わないもの。結婚したという事実さえあればよいものだと思っておりましたので」
「だから俺がここに戻らなくてもいいと、君はそう言いたいのだな?」
「そうですね。わたしの好きにしてかまわないと、先に提案してきたのも旦那様ですから。わたしはその言葉に従っただけです。まさか、今さら夫婦生活を送りたいとか、そういうわけではありませんよね?」
「あぁ……違う……」
わかってはいたのに、そうやってはっきりと否定されてしまうと、心がズキリと痛んだ。
「わたし、今でもメリネ魔法研究所で働かせてもらっています。ですから、今のこの関係に不満はございません」
「そうか……だが、もう、終わりにしないか?」
「終わり?」
「離縁してほしい。好きな人ができた……」
ドクドクと心臓が激しく鳴り、全身に熱い血液を送っている。
彼に好きな人がいる。その事実にめまいがしそうだった。理由はわからない。だけど、その言葉は聞きたくなかった。
「なるほど。ですが、先ほども言いましたように、わたしと旦那様の結婚は国王陛下からの命令です。そんな簡単に別れられるとは思ってもおりません」
「すまない……君には他の縁談を用意すると、ユースタス王太子殿下もおっしゃっている」
まさか、ここでユースタスの名を聞くことになるとは思ってもいなかった。彼もグルだというのか。
「特定の女性に対して、こんな気持ちになったのは生まれて初めてなんだ……」
「旦那様がお好きになられた方。どういった方かお聞きしてもよろしいでしょうか?」
アンヌッカがそう尋ねたのは無意識だ。興味があったのかもしれないし、悔しさもあったのかもしれない。そして悔しいという感情が生まれたことにすら戸惑いを覚える。
「あぁ。それで君が納得してくれるのなら……。仕事で一緒になった女性だ。彼女は君と同じメリネ魔法研究所に所属している。だから君も知っている女性だ。古代文字に長けている……」
アンヌッカは大きく目を瞬いた。心臓は先ほどよりも強くドキドキと鳴っている。
「彼女の名は――」
「カタリーナ・ホラン?」
「やはり知っていたか……申し訳ない。君の親戚筋だとも聞いている……」
「い、いえ……。つまり、旦那様は仕事で一緒になったカタリーナが好きだと、そうおっしゃるのですね?」
「あぁ……」
返事をしたライオネルは、うつむき肩を丸めた。
「あの~旦那様……? 怒らないで聞いてもらえます?」
「なんだ?」
そこでライオネルは顔をあげたものの、驚いたように目を見開いた。
それは、アンヌッカが手早く髪を一つにまとめてシニヨンを作り、いつものカタリーナの髪型を作っていたからだ。
「えぇと……軍で働いていたカタリーナは、わたしです……。黒縁眼鏡もかけましょうか?」
その一言で、ライオネルも目の前のアンヌッカがカタリーナであると確信したようだ。
「う……うぁああああああああああ!」
ライオネルが吠えた。
何事だと、ヘレナが慌ててやってくる。
「ヘレナ、旦那様をサロンに案内してちょうだい」
「承知しました」
本人の前で本人と気づかぬうちに告白をしてしまったライオネルの気持ちが落ち着くまで、それから一時間ほど時間を要した。
「それで、わたしたちの離縁は、どうしますか?」
サロンでテーブルを挟み、アンヌッカはライオネルと向かい合っていた。
「なしだ。なしに決まっている。くそっ」
「それってわたしが悪いんですかね?」
「悪いに決まっているだろう? 身分詐称だ。軍にばれてみろ。懲罰ものだぞ」
「でもそれって、旦那様が内緒にしてくだされば問題ないと思うんですよね?」
アンヌッカの言葉にライオネルは顔をゆがめる。
「ダメだ、ダメだ。カタリーナ・ホランは首だ。その代わり」
ふとライオネルの目がゆるむ。
「アンヌッカ・マーレを派遣してほしいと、メリネには依頼しよう」
「それって……どういうことですか?」
「みなまで言わすな」
そこでライオネルはカップに残っていた紅茶を一気に飲み干し、席を立つ。
「俺は部屋に戻る。それから、これからは毎日、屋敷に戻ってくるからな」
「え? ちょ、ちょっと旦那様……」
アンヌッカが呼び止めるよりも先に、ライオネルはサロンを出ていってしまった。
【完】




