第八章(1)
アンヌッカはなぜライオネルと向かい合ってお茶をすすり合っているのかが理解できなかった。
それは、軍と再び契約をして一か月経った頃。
目の前にいるのはアンヌッカの夫だが、結婚してそろそろ一年近く経つというのに、彼は頑なに家に帰ってこない。いったい彼の何がそうさせているのかはわからないが、ヘレナとの二人暮らしは快適すぎて、逆にそこに割り込まれても困るので、帰ってこないなら帰ってこないでもいいかなと、いい加減思い始めた頃でもある。
だというのに、目の前には夫がいる。しかし彼は、目の前にいる女性を妻のアンヌッカだとは認識していない。魔法研究所から派遣されていて、古代文字に精通している女性のカタリーナだと思っている。
「美味いか?」
一瞬、何を聞かれているのかわからなかった。だが、アンヌッカがカップを手にして、紅茶を一口飲んだ後であれば、紅茶の味を尋ねただろうと勝手に解釈する。
「はい……好きな香りです」
「なるほど。おまえはその紅茶が好きなんだな?」
「そうですね、好ましいとは思いますが」
ライオネルがくすりと笑ったように見える。
アンヌッカとライオネルの関係は、雇用主と雇用された人間だと思っている。
毎日、一日の業務が終わるたびに、ここに訪れ活動の記録でもある日誌を提出していた。それは、アンヌッカがここにきた当初から変わらぬこと。
ただ、変わったのはライオネルの態度、だろうか。
あれほど古代文字に興味がない、魔法は好きではないと言っていた彼なのに、最近は古代文字クイズにも付き合ってくれる。むしろ、アンヌッカが日誌にそれを書き忘れると『今日のクイズはないのか?』と書かれるくらいだ。
「それで……今日は、どういったご用でしょうか?」
アンヌッカは、イノンから地下書庫の魔導書の分類の仕事を言い渡された。各地区の魔塔から集められた魔導書だが、分類されていないものは乱雑に積み上げられていたのだ。
それをおおざっぱに仕分け、さらに表紙と中身から魔法史だったり地理学だったりと分類していたところなのだが、とうてい一か月で終わる量だとは思えなかった。だからといって、その仕事が辛いとか嫌いとかそういうわけでもない。
わけのわからない魔導書を目の前にすると、高い壁に阻まれたような気分になるものの、それを少しずつ読み解くことで、高い壁に穴を開けていくような気分になるのだ。
そうやってこつこつと魔導書の分類をしていただけなのに、なぜか今日は、昼ご飯を食べたあと、ライオネルに呼び出された。
シンディが彼から言付けられたようで「マーレ少将に、何かした?」と不安げに言葉をかけてきた彼女の様子がまざまざと思い出される。
だが、ライオネルに何かをしたとかそういった記憶は、アンヌッカにはいっさいない。いや、彼とのやりとりは日誌のみ。
「おまえに、読み解いてもらいたい魔導書がある」
魔導書と言われ、アンヌッカはひくりと身体を震わせてしまった。ライオネル自ら、アンヌッカに魔導書の解読を依頼してくるとは思わなかったからだ。
彼は根っからの魔法嫌い。古代文字嫌いの男で、それは研究部門にいる彼らからもしつこく聞かされていたし、アンヌッカも身をもって理解している。
また、ライオネルは魔法研究部門をとりまとめていながらも、研究部門にいる彼らを疎ましく思っているとも。
イノンがライオネルと話をするときに必要以上に緊張しているように見えたのは、それが原因なのだろう。
「マーレ少将からそうおっしゃるなんて、珍しいですね」
「……これは、他の者には見せられない、極秘の本だからな」
「極秘?」
禁帯本よりも貴重な本なのだろうか。
「どうやら、王城には隠し部屋があるらしい」
唐突にそのようなことを言われ、アンヌッカは「へ?」と情けない声をあげた。
「ちょちょちょっと、待ってください。そんな話、わたしが聞いていい話ですか? あ~あ~、わたし、何も聞いていません」
両耳を手で塞ぎ変な声をあげるアンヌッカを、ライオネルがやわらかな眼差しで見つめている。
「やはり、おまえは面白いな」
また、鼻で笑われた。
「安心しろ。ユースタス殿下も知っている話だ。むしろ、あれからの命令だと思ってもらっていい」
ユースタスを殿下と呼んでみたり、あれ扱いしてみたり、ここにライオネルとユースタスの関係性が見え隠れする。
「え? 王太子殿下からですか?」
最近は顔を合わせていないユースタスの姿が、アンヌッカの脳内に思い浮かんだ。彼に会ったのはいつ以来だろうか。
「どうやら、王城には隠し部屋があるらしい。そう、昔から言われているのだが、その部屋を知っている者は誰もいないようだ。現国王陛下ですら、そういった話は聞いたことがあるものの、実際にそのような部屋があるかどうかはわからないとのこと」
もちろん、アンヌッカはそういった話を知らない。そして、この話の続きを聞いていいものかどうかと思案してしまう。すべてを聞いたら最後、引き返せないのではと不安にかられた。
だけど目の前に出された魔導書は、非常に興味深い。
タイトルが『ブラックソーンの晩餐』となっており、そこから推測されるに料理のレシピ本だ。
「その隠し部屋のことが、この本に書かれているのですね?」




