第七章(1)
アンヌッカが軍に足を運ぶ最終日となった。
四ヶ月半、ゾフレ地区の魔導書解読のために通った軍本部。今日が最終日だと思うと、感慨深い。
「おはようございます」
いつもと変わらぬ声で挨拶をして中に入ると、室内がどこかどんよりと沈んでいる。
「あれ? みなさん、どうされました?」
大きく首を振って見渡すものの、やはり彼らの表情はどことなく暗い。
「リーナ」
「おはようございます、シンディさん」
「あなた、今日で終わりって本当?」
「はい。あの魔導書の解読も終わりまして、報告書もあげましたので。予定より早いのですが、魔導書解読終了までがわたしの契約期間だったので」
「そうなのね」
シンディの目尻が一気に下がった。
「寂しくなるわ」
「でも、わたしはメリネ魔法研究所にいますから、いつでも遊びにいらしてください」
「そういうことじゃないんだけど。リーナがここにいるからいいのよ」
「シンディ。それ以上はカタリーナさんを困らせる。君も仕事に戻りなさい」
「はい」
イノンはシンディにも目配せをし、席につくようにと言う。アンヌッカもそれにならう。
アンヌッカは荷物の片づけにやってきた。だから、それらをまとめてしまえば今日はメリネ魔法研究所へと戻るのだ。
机を二個分も使わせてもらい、貴重な魔導書を読むこともできた。
こうやって思い返してみると、軍での仕事も悪くなかった。思い出に浸るということは、やはりここを離れてしまうのが寂しいからだろう。
ゆっくりと荷物を片づけ、鞄へと詰め込んでいく。初めてここに来たときよりも、荷物は倍以上になっていた。それはもちろん、魔導書を解読するための資料だったり辞書だったり。トランク一個分の荷物になっている。
「みなさん、短い間ですがお世話になりました」
その言葉に室内にいた全員が立ち上がり、いつの間にかシンディの手には花束まである。
「リーナ。今までありがとう」
「こちらこそ、貴重な魔導書に触れる機会をくださってありがとうございます」
「だから、そういうところなのよね」
「え? 何が、ですか?」
「リーナのいいところ」
シンディが泣きそうな顔をしながらも無理矢理笑顔を作っているのを見ると、アンヌッカも胸が熱くなってきた。
軍に派遣されると聞いたときは緊張と不安でいっぱいだったが、実際、仕事を始めてみればそんな不安など消し飛んで、楽しさが勝った。それに、初めてみるゾフレ地区の古代文字には心が躍った。
魔導書と向かい合えば、ここがどんな環境だなんてすっかりと忘れてしまう。
ただ、一日の仕事を終えてライオネルに日誌を出すときだけは、軍にいるんだなと実感した。
「本当にみなさん、ありがとうございます」
シンディから受け取った花束を両手に抱え、アンヌッカはぺこぺこと頭を下げた。
「リーナ。マーレ少将にも挨拶に行ったほうがいいわよ」
シンディが耳元でこそっと伝えてきたので小さく頷いた。
「では、マーレ少将の執務室に行って参ります」
花束は自席の机の上に置き、ライオネルの部屋へと向かう。
「最後だから、ぎゃふんと言わせてきなさい」
片目をつむってそう言うシンディだが、彼女がいてくれたおかげで助かったところはたくさんある。
特にライオネルをぎゃふんと言わせたいことはないのだが、シンディにそう言われるとその気になってしまうのが不思議だ。
シンディの言葉に背を押されるようにして、研究室を出た。
――トントントントン。
こんな時間に彼の部屋に足を向けたのは初めてだ。もしかしたら、不在かもしれない。時間を考えなかったことを反省する。
『開いている』
中から彼の声が聞こえたことで、ほっと胸をなでおろす。
「カタリーナ・ホランです」
こうやってカタリーナの名を名乗るのも今日で最後。ここにいる人たちは、誰もアンヌッカがアンヌッカであると気づかなかった。何度か顔を合わせたことのある王太子ですら。
それだけいつものアンヌッカとはほど遠い格好をしていた。そしてそのカタリーナとしての格好も今日で最後となる。
「失礼します。本日、最終日となるためマーレ少将にご挨拶に伺いました」
黒檀の執務席に座っているライオネルは、最初に顔を合わせたときと同じように難しい表情を浮かべている。そして彼の机の上には、こんもりと書類の山ができあがっていた。
この山がなくなる日は永遠にこないのではないか。
「今日で最後なのか?」




