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第四章(3)

 あっちに行ったりこっちに行ったりと移動するアンヌッカがわずらわしく思ったのかもしれない。


「それはダメです。この魔導書を汚してしまったら、わたしはショックで寝込むかもしれません」


 彼らがアンヌッカほどこの魔導書に思い入れがないことなど、重々承知だ。それは先ほど、魔導書を受け取ったときに実感していた。


 この室内で、魔導書に触れるのに絹手袋をつけているのはアンヌッカただ一人。

 だからってそれを彼らに指摘するわけでもない。これはアンヌッカの気持ちの問題だからだ。


「そうですか。こちらから見ていて、疲れないかなと、そう思ったので……」


 アンヌッカに声をかけた男性は、ばつが悪そうに肩をすくめる。


「お気遣いいただきありがとうございます。わたしもこうやって動き回ってしまうので、ご迷惑でしたらおっしゃってください。そのときは、他の場所を用意していただけないか相談しますので」

「迷惑だなんて……」


 彼は顔の前で両手を開いてふるふると振った。


 迷惑ではない。その言葉にアンヌッカもほっと息をつく。

 ここはメリネ魔法研究所ではない。軍には軍のやり方があるのもわかっている。だけど、古代文字の解読のためには、このやり方が一番効率がよいのだ。


「ありがとうございます」


 アンヌッカが礼を口にすると、彼はもごもごと何かを呟きながら下を向いた。





 夕刻を告げる鐘がガランガランと鳴った。


「カタリーナさん。今日の成果を日誌につけてもらってもよいですか? 本当は、すぐにお渡しする予定だったのですが、用意が間に合わず時間ぎりぎりになってしまいました」


 イノンが紐で綴じられた一冊の帳面を差し出す。


「特にカタリーナさんの場合は外部の人間ですので、その……」


 言いにくそうにしているが、ようは、カタリーナが来られなくなっても引き継ぎができるように書いておけと言いたいのだろう。


「はい、わかりました。できるだけわかりやすく書いておきますね」

「助かります。実はその日誌……マーレ少将に提出しなければならなくてですね……まぁ、そういう感じです……」


 つまり、早く書けということだ。


 アンヌッカはすぐに今日の成果物を記載した。魔導書は魔法史を中心に書かれている千年ほど前のもの。使用されている古代文字は、ハイネ地区から見つかった魔導書のものと似ている。だから、解読のためにはその魔導書を参考にするとよい。そして今日はどのくらいまで解読したかを報告する。


 メリネ魔法研究所では、一日の目標を二千ワードに設定している。これは、魔導書のだいたい四ページ分に相当する。


 だが魔導書内で使用されている古代文字の種類にもよっては、もちろんこれ以上の早さで解読できるときもある。

 アンヌッカも、ゾフレ地区の魔塔の魔導書は、メリネ魔法研究所に持ち込まれたあの一冊しか携わったことがない。ただ、あの魔導書はページ数が少なく、一般的な古代文字を用いられているものであった。


 しかし、今回の魔導書は違う。同じ地区で見つかった魔導書であっても、その時代、従事した人間によって使用される文字が微妙に異なってくる。


 この魔導書に使用されている古代文字は、アンヌッカにとっては慣れないものであるため、時間はそれなりにかかるだろう。


 さらに分厚さから推測するに、五百ページはゆうにある。軽く見積もって百日。三か月とちょっと。

 ただ、アンヌッカが軍に派遣される期間は半年だったはず。もちろん、それよりも早く終われば契約もそこで満了となるのだが。


「ディオケル大尉、終わりました」


 アンヌッカはイノンの机の上に日誌を置いた。


「カタリーナさん。この日誌はマーレ少将に提出することになっているのです……」


 これまたイノンは言いにくそうに、語尾を濁す。アンヌッカに同情しているのか、力になれないことを恥じているのか。


「そうなんですね。先ほどの部屋に持っていけばよろしいのでしょうか?」

「……はい。できますか?」


 椅子に座っているイノンは不安そうにアンヌッカを見上げてくる。


「はい。持っていけばいいだけですよね? 子どものおつかいより簡単です」

「カタリーナさん……辞めないでくださいね。明日も来てくださいね」


 なぜかセールがこのタイミングでそのようなことを言う。


「もちろんです。やっぱり、知らない魔導書を読み解くのは楽しいですから。では、いってきます」


 アンヌッカの背を見守る彼らの目には、同情の色が浮かんでいた。

 もちろんそれはアンヌッカの知ることなく、彼女はライオネルの執務室へと爪先を向ける。


「失礼します。あ……じゃなく、カタリーナ・ホランです」


 周囲に誰もいないこともあって、危うく本当の名を口にしそうになった。


『入れ』


 先ほども聞いたライオネルの声。相変わらず不機嫌そうだ。


「失礼します」


 堂々と歩き、ライオネルの前に立つ。


「日誌をお持ちしました」

「見せてみろ」


 威圧的な態度に、アンヌッカは苛立ちを覚える。


 なぜこの男はこんなにも偉そうなのか。いや、実際に偉い人なのだから仕方ないのかも知れない。

 だけどアンヌッカは軍の人間ではない。頼まれて仕事をしているというのに、労いの言葉一つもかけられないのか。


 そんな思いを胸にしまい込み、黙って日誌を手渡した。

 それを受け取ったライオネルはすぐに中身を確認する。


「……ん? おまえが見ているのは、ゾフレ地区の魔導書だよな。なぜここにハイネ地区が出てくる?」

「はい。ディオケル大尉には、他の者が見てもわかるように書いてほしいと言われましたので。わたしが明日、こちらに来るとは限りませんからね」


 来ないとしたらおまえのせいだよ、というそんな意味合いを込めて睨みつけてみたが、ライオネルにはまったく効果がなかった。

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