第四章(1)
この場所に来たのは、結婚式を挙げたあの日以来だろう。それだって、同じ敷地内にある礼拝堂に足を運んだだけで、王城や軍本部の建物などには、入ったことがない。
アンヌッカは建物の入り口の前に立つ軍人に声をかける。
「あ、あの……メリネ魔法研究所から来ましたカタリーナ・ホランと申します。今日は……」
「お待ちしておりました。ホラン様」
すべてを言い終わらぬうちに、言葉の続きは門番に奪われた。
「お部屋にご案内いたします。ホラン様がお見えになったら、逃げ出さないように丁寧に対応しろと言われておりまして……」
なんとも、正直な人である。
相手が軍人と言うだけで、身構えてしまう者も多い。そこに鍛えられた身体と、険しい表情を浮かべた顔があったら、アンヌッカでさえも一歩引いていただろう。
しかし、アンヌッカを案内するといった軍人は、ひょろっとした線の細い男であった。軍人らしくないといえばそうかもしれないし、これで魔獣討伐ができるのだろうかと不安になるほど。
「あ、ご挨拶が遅れました。私は魔法研究部に所属するセール・レッドと申します。階級は軍曹であります」
「魔法研究部ということは、これからわたしがお世話になる部署ですね」
「むしろ、我々がホラン様にお世話になります」
ホラン様と呼ばれるのは、いささか変な感じがした。
「あの……わたしも『様』をつけて呼ばれるような、そんな立派な人間ではありませんので。普通にしてください」
「ですが……」
「カタリーナと呼んでください。名前のほうが距離感もぐっと縮まって、よくないですか? これから一緒に仕事をするわけですよね?」
「そ、そうですが……」
セールは戸惑っているようだった。
「メリネの研究所は、所員は平等なのです。わたしはその教えに従っているだけです。もしかして、軍は違うのでしょうか?」
縦社会であるのはわかっている。しかし、アンヌッカは軍人ではない。
「はい。階級がありますから」
「でしたら、わたしはどの階級になりますか?」
「え? そ、それは……わかりません」
「ですよね? そういうことですので、わたしに『様』は不要です」
わかりました、とセールも渋々と納得したようだ。
こういった階級や上下関係に厳しいところに所属していると、身体も心も自然とそれに反応するのだろう。
「こちらが、王国軍の魔法研究部室になります。研究室と言ったらこの部屋になります」
セールに案内されて部屋に入る。
静かな室内にざわめきが走った。
「メリネ魔法研究所のカタリーナ・ホランさんをお連れしました」
すると一人の男性が席を立ち、つかつかとアンヌッカに近づいてきた。
「ようこそ、王国軍魔法研究部門へ。私がこの部門長を務めるイノン・ディオケル大尉です」
イノンはどこかマーカスに似ている感じがする。
「お初にお目にかかります。カタリーナ・ホランと申します」
「ホラン様の席は、あそこに準備をしております」
やはりここでもホラン様だ。
「あの、わたしは軍の人間ではありませんので、カタリーナと呼んでください。それが、メリネ研究所でのやり方ですので」
「そ、それは……」
イノンは困ったように周囲を見回した。彼と目の合った者も困惑した様子を見せ、首をふるふると横に振る。
「ディオケル大尉。カタリーナさんがこうおっしゃっているので、我々はそれに従うべきではありませんか?」
セールの言葉にイノンも目を丸くするものの「そ、そうだな」と呟く。
これでなんとか「ホラン様」と呼ばれることだけは回避できた。
そこから研究部に所属する者たちが自己紹介を始める。
軍人といえば、鍛えられた大きな身体、厳つい顔というイメージを持っていたアンヌッカだが、ここにいる者はそのイメージに合わないような人ばかり。メリネ魔法研究所で働いている者たちと、変わりないように見える。
「ではカタリーナさん。荷物をそちらに置いたら、私たちの上官のところに挨拶にいきますので」
「上官? ディオケル大尉がここで一番偉い方ではないのですか?」
「はい。魔法研究部ではそうなのですが。魔法研究部は、王国軍のいくつかある部門のうちの一つなのです。そこの組織構成についてはあまり詳しいことは言えないのですが。とにかく、魔法研究部や他の研究部をとりまとめている方です」
「わかりました」
アンヌッカは自席にどさりと荷物を置いた。重そうな鞄の中に入っているのは、アンヌッカが古代文字解読のための必須アイテムなものばかり。辞書を始めとし、自身が書いた記録簿。それから魔法史の教科書やこの国と園周辺諸国の地形図。
すぐにイノンと一緒に研究室を出て、回廊の奥へと向かう。
その突き当たりにある重厚な扉の前でイノンが立ち止まる。
――コツコツコツコツ。
ゆっくりと叩き鐘を打ち付け、返事を待つ。
『入れ』
「イノン・ディオケル大尉です。本日より、王国軍魔法研究部の一員として働くカタリーナ・ホランさんをお連れしました。」
そう言ってから、イノンが扉を開けた。
とにかく、相手がイノンよりも偉い人だというのはわかった。だからここにいる人物は各部門をとりまとめている者なのだ。
「女か……」
アンヌッカの姿を一目見て、部屋の主である濡れ場色の髪の男はそう呟く。
「はい。こちらが古代文字を専門とする、カタリーナ・ホランさんです」
執務席を挟み、イノンがアンヌッカを主に紹介した。
「メリネ魔法研究所から派遣されました、カタリーナ・ホランです」
ふん、と鼻で笑うような仕草を見せた男の態度は、失礼なものだ。
だがここはメリネ魔法研究所ではない。アンヌッカもぐっと怒りを抑え込む。
「俺が、ライオネル・マーレ少将だ。魔法研究部門は俺の直轄となる。覚えておけ」




