第三章(2)
「お兄様、マーレ大佐ではありません。彼は結婚して、少将になったのですから」
マーカスの右眉がひくりと動いた。
アンヌッカの結婚の意味をあらためて感じたのだろう。
メリネ魔法研究所と王国軍の繋がりをもたせること。そして、ライオネルの昇進。
「ところで、お兄様。こちらの魔導書はいつまで解読すればよろしいのでしょうか? あまりにもの珍しさに、納期を確認するのを忘れておりました」
「それは一か月くらいで、というのが先方の希望だ。できるか?」
「ええ、もちろんです。古代文字から現代語への解読は、十日もあれば終わるかと。こちらはわたしの知っている古代文字ばかりのようなので、調査に時間がかかりません」
「それならよかったよ。実はそれ、国の魔法研究所ではなく、軍の魔法研究部門から依頼されたやつなんだ。だから、中身がな……」
そこで言いにくそうに、唇をもごもごさせるマーカスの様子を目にしたら、アンヌッカだって魔導書の中身に何を書かれているかはなんとなく察する。
深追いしてはならない魔導書なのだ。
「ゾフレ地区……今回、マーレ少将が魔獣討伐に向かった地区でもある」
「そうだったのですね」
アンヌッカはライオネルがどこに行ったのかだなんてまったく知らなかった。興味がないから、知りたいとも思わなかった。
「魔獣らが魔塔の一部に侵入したみたいでな。それで、地下の書庫が発見されたらしい」
マーカスが言うには、魔塔に入り込んだ魔獣が暴れて壁を壊したところ、地下へと続く階段がでてきたようだ。それは地下の存在を隠すかのように、入り口を壁で塞いでいた。
だから翻訳はしても、その内容に深入りしてはならないというのが、お達しなのだろう。
ただでさえゾフレ地区の魔塔には、昔からの魔導書が保管されているのだ。国の魔法研究所からも、調査のために定期的に人を送り込んでいたはず。
「興味深い魔導書であることはわかりました。誓約書にサインしましょう」
それは魔導書の解読から得た情報を、決して他には漏らしませんという誓約書だ。そういった口の堅さも、メリネ魔法研究所が信頼されている理由の一つでもある。
「じゃ、頼んだぞ。アン。相手の希望は一か月でとのことだが……内容が内容なだけに、もう少し時間がかかりそうなら、早めにアラームをあげてくれ」
「だからお兄様。解読だけなら十日もあればじゅうぶんです」
「となれば、やはり一か月は欲しいな。見積もり工数を提示するときは、できると思った工数の三倍で出せ」
「そんな決まりがあるのですか?」
「僕の持論だ。たいてい、割り込み業務というものが入るからな。予定どおり、物事が進んだ試しなどない」
マーカスの言葉は嘘ではない。一つの事案を集中して取り組めるのは幸せなこと。たいていは、二つ三つの案件を同時にこなし、そのときの状況やら依頼人の希望納期によって、優先度を決めて取り組んでいる。
幸いなことに、アンヌッカが手をつけている案件は他にはなかった。つまり、すぐにでもこの魔導書の解読に取り組めるのだ。
新しい魔導書を読み解くのは、アンヌッカにとってわくわくするものでもある。古代文字を読み解くだけでなく、わからない古代文字が出てきたときには調べたうえで読み解けたときには、ぱあっと世界が広がったような感じがするからだ。
誓約書にさっさとサインをしたアンヌッカは、早速、自席で魔導書を広げた。
すり切れた装丁からも予想したように、かなり年代ものの魔導書だ。変色した紙に、ところどころ破け折れているページ。そして独特の湿った紙のにおい。
「……おい、アン……。あ、遅かったか」
マーカスが声をかけても、こうなったアンヌッカには周囲の声など聞こえない。それはここにいる誰もがわかっていることで、彼女の作業が一息つくまでは、誰も声をかけずにそっと見守るだけ。
ぱらりとページをめくり、思いついたかのように紙にペンを走らせる。
そのペンをとんと机の上に置いたところで、アンヌッカは大きく伸びをした。
「お疲れ様です」
その機会を待っていたかのように、魔導士の一人、サリーがすっとお茶を差し出した。
「ありがとうございます、サリーさん」
ぱっと目を輝かせるアンヌッカだが、サリーの手にも同じようにカップが握られている。
「アンさんに、ちょっとだけお聞きしたいことがありまして……」
だから一緒にお茶でも飲みながら、お話をしましょう。とでも言いたげである。
「はい。なんでしょう?」
その答えを聞いたサリーは、アンヌッカの隣の椅子に背もたれを抱きかかえるようにして座った。けして行儀のよい座り方ではないものの、それを指摘するつもりもない。
サリーがこういったくだけた仕草を見せるのは、それだけアンヌッカに心を許している証拠でもある。
「新婚生活って、どうですか?」
「えぇ?」
まさかサリーからそのような質問をされるとは思ってもいなかった。お茶を飲んでいなくてよかったと思う。もし飲んでいたら、絶対に口から噴き出していたところだろう。それだけ、サリーの言葉は衝撃的だった。
「どうってどういう意味でしょう?」
「ほら。結婚って憧れがあるようで、ないような? だから、実際に結婚した人の話を聞いて、よさそうだったら結婚してもいいかなぁなんて」
「もしかして、サリーさんにもそういったおめでたい話が?」
その言葉に、サリーの頬にぽっと朱が生まれる。




