第三章(1)
ライオネルと結婚したアンヌッカであるが、結婚前とかわったことと言えば、姓がメリネからマーレになったことくらいだろうか。もしくは、メリネ家の屋敷を出てマーレ家の屋敷でヘレナと二人で暮らしていること。
それ以外は、今までと変わったところは思い浮かばない。
「アン。この本をたのめるか?」
メリネ魔法研究所の事務所の一室には、アンヌッカが作業する机なども用意されており、それは結婚した今も相変わらずだった。
「また、古そうな本ですね」
マーカスから手渡された本は、装丁がすり切れ、ところどころ文字もかすれて読み取りにくいものだ。
「ゾフレ地区の魔塔の地下書庫から出てきたらしい。魔導士らも読み解こうとしたようだが、お手上げみたいで、うちに依頼がきた」
「ですが……まぁ、読めないことはないですね」
ぱらぱらと中身を確認したところ、いくつかは調べる必要はありそうだが、五割程度は典型的な古代文字で書かれている。それをマーカスに伝える。
「その典型的な古代文字すら、理解するのが難しいんだよ」
アンヌッカにとっての古代文字は、魔法術式を解析するために必要なもの。
魔法研究所を開いた父親の影響もあり、アンヌッカは幼いころから魔法に興味を示していた。今は身近となった魔法で誰でも魔法具をとおして自然と使ってはいるものの、考えれば考えるほど不思議な力であって謎も多い。となれば、その謎を解明したいと思ったのは、十歳にも満たない年であっただろう。
研究所に足を運んでは、片っ端から魔導書を読みあさる。そうすると、古代魔法と現代魔法の違いに気づき、古代魔法の魅力に取り憑かれ始める。
(古代魔法を利用できれば、人々の暮らしももっと豊かになるかもしれない)
そういった考えがアンヌッカの心のふつふつと沸き起こり、さらに古い魔導書なども読みたいと思うようになる。しかし、古い魔導書は古い言語の古代文字で書かれている。これを読むためには古代文字を理解しなければならない。
その結果、アンヌッカはメリネ魔法研究所のなかでも古代文字に長けた存在となった。そうなると、古代文字で書かれた魔導書の解読依頼はアンヌッカに集中するようになる。
もちろん、今後のことを考え、アンヌッカ以外の魔導士らも読解に励むものの、「急ぎで」と言われればアンヌッカの右に出る者はいない。
次第に「古代文字の魔導書の解読は、メリネ研究所に頼むのが早くて確実だ」という話が、ハイドの街に広がっていく。となれば、また研究所に依頼がきてアンヌッカが解読し、アンヌッカ自身にも古代文字の読解力が高まっていくという循環ができあがっていく。
だから研究所としてもアンヌッカを手放したくないし、アンヌッカも結婚したからといって大好きな魔導書を取り上げられてしまうのだけはいやだった。
だが縁談が決まったときにもらったライオネルからの手紙には「家名を汚さない程度に、結婚後も好きにしてかまわない」と書いてあったのだ。
そのためアンヌッカは好きに暮らしている。それが魔法研究所での仕事を続けることになるのだが、これはマーレ家の名を汚す行為には該当しないだろう。
そもそも、メリネ魔法研究所に所属する者以外は、アンヌッカが古代文字に長けている事実を知らない。それだけ古代文字が読める人間というのは貴重だからだ。
アリスタもマーカスもアンヌッカの身を案じて、仕事の依頼を受けたときはアンヌッカの名が外に漏れないようにと配慮していた。
アンヌッカも自分の名前が外に出ないことに不満はない。認めてくれる人が身近にいればいいし、なによりも外野とのわずらわしいやりとりはすべて父と兄が引き受けてくれるから、古代文字の研究に没頭できるのだ。
「そういや、アン。ライオネル殿とは、うまくいっているのか?」
マーカスが耳元でささやくから、おもわずアンヌッカは噴き出しそうになった。
「お兄様。いったい、何をおっしゃって……?」
「いや。結婚式にすら姿を現さなかった失礼な義弟だが、そろそろ僕たちのところに挨拶に来てもいいのではないかと思ったのだよ。三か月の魔獣討伐を終え、首都に戻ってきたと聞いたからな」
マーカスが言ったことは事実だ。ライオネルが中心となって行っていた魔獣討伐は収束を見せ、つい先日、彼らはこの首都に戻ってきたばかりだ。
「お兄様。残念ながら、わたしはまだ一度も旦那様にお会いしておりません。まだお仕事が忙しいらしく、当分、家には帰れそうにないと、お手紙をいただきました」
「はぁ?」
ざわっと事務所内に緊張が走る。
「お兄様。声が大きいです。落ち着いてください」
どうどうと、興奮する馬をなだめるかのように、アンヌッカが両手を上下させた。
「これが落ち着いていられるか!」
マーカスは、ドンとアンヌッカの机の上に拳をぶつける。その勢いで、ざざっと机の上の資料が崩れていくつか落ちた。
「お兄様。期待をしているからがっかりするのです。最初から期待しなければよろしいのですよ」
興奮しているマーカスとは正反対の落ち着いた声でそう告げたアンヌッカは、崩れた資料を拾ってそろえる。
「結婚といっても名ばかりの結婚ですから。相手に何かを求めるのは間違いです。わたしはわたしで、こうやって好きにさせてもらっておりますから」
あまりにもアンヌッカが淡々と告げるためか、次第にマーカスも落ち着きを取り戻す。
「ああ、そうだな。アンヌッカの言うことも一理あるな。僕たちは、マーレ大佐に期待しすぎていたようだ」




