プロローグ
歴史を感じさせる王城の隣に、その外壁と同じ象牙色の礼拝堂がひっそりと建っていた。そこから抜けるような空に向かって、尖塔が真っすぐに伸びる。
ステンドグラスからきらきらとした陽光が降り注ぐ室内では、今、まさに神の前で愛を誓おうとする女性が一人、たたずんでいた。
真っ白いドレスは、スカートがふんわりと膨らみ、レースは華やかに幾重にも重なっている。胸元にある花をあしらったレースは繊細だ。ゆるやかに波打つ赤みのかかった茶色の髪はハーフアップにされ、花冠によって飾り付けられている。ぱっちりとした二重まぶたに、宝石のような紫色の目、ふっくらとした艶やかな唇には紅がのり、淡雪にも見える白い肌を際立たせる。
そんな息を呑むほど美しい花嫁は、大司教と静かに向かい合う。
「一部、割愛させていたきます……。アンヌッカ・メリネ。あなたはライオネル・マーレを夫とし、健やかなるときも病めるときも、喜びのときも悲しみのときも、その命ある限り妻として愛し、敬い、慈しむことを誓いますか?」
「誓います」
「これによって、お二人は夫婦として認められました」
パチパチ、とまばらな拍手が鳴るものの「おめでとう」と声をかける者は誰一人いない。
それもそのはず、ここに花嫁はいても花婿の姿がないからだ。
だから指輪の交換も誓いの口づけもなかった。花嫁のアンヌッカがただ一人、誓いの言葉を虚しく口にしただけ。それでも結婚に関する書類のやりとりは終わっており、アンヌッカ・メリネはすでにアンヌッカ・マーレとなっている。
(このような結婚式、意味があったのかしら……?)
華やかなウェディングドレスに身をつつむアンヌッカだが、晴れの舞台だというのに心の中はどんよりと曇っている。こんな形の結婚式であれば、誰だってそう思うだろう。
アンヌッカの手を取り礼拝堂内に入場した父親でさえ憤っているのだ。
そんななか拍手をしながら、アンヌッカに近づく人物がいる。
「おめでとう、アンヌッカ嬢。いや、マーレ夫人とお呼びしたほうがいいのか」
「ありがとうございます、王太子殿下……」
怒りと呆れで満ちている内心を表に出さないように、アンヌッカはできるだけ極上の笑みを作ろうと努力する。
「このたびは、本当に申し訳ない。二人の門出を祝う日だというのに……」
「……いえ、こうなることはわかっておりましたから」
アンヌッカの夫、ライオネルは国に忠誠を誓う軍人だ。そのため、国を統率する国王から命じられれば、いつでもどこにでもその身を向かわせる必要がある。
数日前から、国の外れに魔獣が出現したという話は耳に届いていた。そうなれば国は軍を派遣し、魔獣を討伐する。
その討伐に駆り出されたのが、アンヌッカの夫なる人物で、花婿のライオネルであった。
結婚式と魔獣討伐。
それを天秤にかけた結果、ライオネルは魔獣討伐を選んだのだろう。
人の命や生活がかかっているだけに仕方のないことだと思っているが、何もそれを結婚式当日の朝に伝えてくるのはいかがなものか。
ドレスの着付けの途中だったアンヌッカは、そのまま着付けを続けるように使用人へと命じた。どうせ結婚式なんて一回やってしまえば終わり。
結婚披露パーティーは別の日に行うこともあり、結婚式への参列者の招待は必要最小限に絞った。それも功を奏したのかもしれない。
そして花婿側のライオネルもそれは同様だったようで、彼側の参列者は護衛を引き連れた目の前のユースタス王太子のみである。
(この調子では、これからの披露パーティーもなくなりそうね……)
それよりも、顔を真っ赤にして怒っている父と兄のほうが心配だ。彼らは、この結婚には反対だった。
だけど、国王からの勅命というのもあり、断ることはできなかった。
――この結婚に愛など存在しない。俺から愛されようなどと思うな。余計なことはしなくていい。
結婚手続きのための書類と共に送られてきたライオネルからの手紙には、そう書かれていた。むしろ手紙というよりは指令書なのではと思えてしまうような、淡々とした文面。
(だから、この結婚はお互いにとって義務のようなもの)
アンヌッカはきゅっと唇を引き締める。
ユースタスは満足そうに微笑むと、護衛を連れて外に出ていった。アンヌッカがこの結婚を受け入れたかどうか、それを確認するのが目的だったにちがいない。
「アンヌッカ……」
父親に名を呼ばれ、はっと顔を上げる。
「綺麗だよ、母さんにも見せたかった」
父親の隣には、兄のマーカスとその妻プリシラも困惑した表情で立っていた。
「ありがとうございます、お父様」
「だから僕は最初から反対だったんだ」
「しっ。あなた、誰に聞かれているかわかりませんよ」
ぷんすかと怒りの感情を露わにするマーカスをプリシラが制す。
「アンももっと怒ったほうがいい。文句の一つや二つ、アレに言ってやればいいんだ」
そう言われても、アンヌッカとしては怒りよりもあきれている気持ちのほうが大きい。
「せっかくの晴れの日なのですよ、あなた。アンヌッカ、これから美味しいものでも食べましょうね」
マーカスを宥めながらも、アンヌッカへの気遣いを見せるプリシラには頭があがらない。
アンヌッカは、父親と並んで外へ出た。
空は憎らしいほど眩しく、まさしく晴れの日にふさわしい空だった。