五十界(いせかい) 物語
【五十界物語】はあくまで五十界が舞台の、架空とされるお話です。
本作は以前の投稿作に加筆したものです。
「俺は以象」
"いじょう"でも三蔵でもなく、"いぞう"。
兼ヶ名(かねがな) 以象だ。
故あって、ひふみ神示を広めている。
思えば、昨今の世界はあべこべだ。
まるで敢えて、ひふみ神示と逆の事をしているかの様に思える……
と、まぁ愚痴はこれ位にして、ここで自論を展開する。
それは神示に出会う前のものもあるし、神示から思い至ったものもある。
神示に後押しされたものもあるし、神示とは違う見解のものもある。
「まぁ、有象無象って事だw」
かつてのローマ帝国では、侵略して属国となった領地の税の取り立ては自国の者ではなく代理の者にさせていたらしい。
ならず者がその役に就く事も多々あったらしいが、厳しくは取り締まらなかった様だ。
「もし、敢えて”取り締まらなかった”としたら、それは何故か?」
もちろん、これは俺の推測、憶測だ。
また、それが真実であるか否かや、それを基に誰かを追及、糾弾する事が目的ではない。
あくまで、そういう可能性もあったかも知れないというだけだ。
それは現在進行形、未来の事が対象であったとしても同様だ。
そういう指摘をする者の多くが事の真偽に拘り、失敗する。
"真実ではない"とされれば、指摘者が全面否定され悪者にされるのが常だ。
「地動説が唱えられた当初がそうであった様に多勢に無勢、反乱でも起こそうものならこれ幸いと一網打尽にされる時代においては知って知らぬ振りをするしかないのさ。残念ながら………」
と、まぁ世間では決して教えてくれない数々の事を知って欲しいが為に、ひふみ神示を広めているとも言える。
何故なら、神示はそういう事の宝庫なのだ。
もちろん俺は聖人君子とかでは決してなく、なろうとも思っていない。
ただ、我が身が可愛いだけだw。
しかし、そんな”われよし”の俺でも次の神示には大いに共感している。
『われよしの小さいわれよしではならん。大きなわれよし結構ぞ。ぎせいになることを尊いことぢゃと申してゐるが、ぎせいに倒れてはならん。己を生かす為に他を殺すのもいかん。己殺して他をいかすのもいかん。大の虫を生かすため、小の虫を殺すことはやむを得んことぢゃと申したり、教へたりしてゐるが、それもならんぞ。総てを殺さずに皆が栄える道があるでないか。何故に神示を読まぬのぢゃ』
よく解らない貴兄は、小を個人、大を全体に置き換えてみると良い。
小さいわれよしとは我が身のみ良し、大きなわれよしとは己も良し、全体も良しだ。
また、全体の為に己を犠牲にしてはならんし、己の為に他を殺してもならん。
総てを殺さずに皆が栄える道。それが神示に書いてあると云う事だ。
『個の弥栄は、全体の弥栄である。個が、その個性を完全に弥栄すれば全体は益々その次を弥栄する』
弥栄(いやさか)とは繁栄、発展を意味し、個人が繁栄すればその総和である全体が繁栄するのが道理だ。
言われてみれば当たり前の様だが、こうしたちょっと気づかない事が神示には多く含まれている。
「こんな優れた書を読まない手はあるめぇよ」
俺はつくづくそう思うのだが、世間様は違う様だw。
神は常に奇跡を起こしたり、超越的でないと駄目らしい。
普遍的、不変的なものは望まれてねぇのさ……
「もし仮に、属国の税の取り立てを行う者の資質を問わないのに理由があるとすれば、その一つが自国の方がましと思わせる為だろう」
より酷い取り立てを見れば、まだマシだと思ってしまうのである。
そして、ローマ帝国民である事を幸運とさえ考える。
つまり、体のいい見せしめであり、自国の取立て条件を何ら変えずにまだましだと思わせる印象・心象操作なのさ。
似た様な例では”信じる者は救われる”ならば、信じない者を酷い目に会わせる事だ。
最悪、生きているだけでも信じていて良かったと思う様になる。
「俺は、これこそが世の中が良くならない処か、悪くなる一方の大きな要因の一つだと思うね」
より不幸な者や状況を作り出す事で現状を肯定させ、何ら改善される事無くいずれは自身らも不幸の憂き目に会う。
これらを繰り返す事により、本当のアメなど与えずともムチでさえアメに思える様になる。
それらが積み重なった結果が今のこの世界なのさ。
因みに今迄の自論はひふみ神示とは余り関係ないw。
ただ、神示にも
『天国や極楽があると思念することは既に無き地獄を自らつくり出し、生み出す因である。本来なきものをつくり出し、一を二にわける。だが、分けることによって力を生み弥栄する。地獄なきところに天国はない。天国を思念する処に地獄を生ずるのである』
要は、手でも左手があれば右手が存在する様に相対的なものという事だ。
現状を天国(→まだマシ)と思わせる為、より不幸な者・状況という地獄を作り出す。
それらはあくまで相対的な印象・心象であっで、置かれている状況は何ら変わらない。
神示が言わんとしている本意とは違う気もするがw、まぁ、そういう事さ。
以上はアメをくれないケースだが、アメを与える事もある。
例えば、預貯金の利子がそれだ。
給料等を手取りで渡すケースが未だ多かった時代ではよく付いていたが、口座への振込みが当たり前になったら減っただろ。
携帯も同様で、本体は格安でもきちんと元を取る算段はされていたし、固定・公衆電話が廃れる頃には派手な投売りもなくなったw。
「あくまで、普及する間までと云う事だ」
完全に普及し代替手段が採れなくなってからが、収穫(→以降はムチ)の時だ。
そうなってしまえば、こっちのものでPCのOSの様に有無を言わさず買い替えざろう得なくなる。
「つまり完全な依存状態。代替の手段がないので何れは相手の言う通りにするしか無くなるのさ」
要は依存させるには代替手段をなくす事、言い換えれば自給自足させない事だ。
先進国の中でも食糧自給率等が格段に低いのは、そういう動きの現れなのだろう。
「依存させられているので、”No”と言いたくても言えないのさ」
まぁ、本気で”No”と言いたい奴がどれ位いるかは知らないがw。
そういう意味において、自給自足できる農民は古今東西、警戒されてきた。
温暖化問題で”牛のゲップ”が規制され、その対象とされた農家は少なくないそうだ。
「そもそも、今の世の中あまりにも”問題”が多過ぎやしませんかね」
無論、本当に問題視しなけばならない部分もあるだろう。
だが、ローマ帝国の属国の税の取立ての様に印象・心象操作の為に、殊更大げさにしてはいませんかね。
神示ではよく「大難が小難になる様に祈れ」とあるが、
『大難を小難にすることは出来るのであるが無くすることは出来ん』らしい。
おそらくこれは、何事をするにも無問題(→障害や失敗が全くない)な訳がない事を表している。
また、失敗は乗り越える事により人をより成長させてくれる。
「つまり、生きている限りは”問題が尽きる事はない”とも言える」
ところが、今の世の中は逆に小難を大難にしている感がある。
また、無問題でも問題を起こしている節さえある。
”火のない所に煙は立たず”と云うが、風で煽ったり火を起こすのである。
「もし、仮に”問題を大きくしたり、問題を起こす”のに意図があるとすれば、それは何か?」
一つ解りやすいのが、”話を逸らす”だ。
触れて欲しくない問題の代わりに、別の問題を大きく・起こすのである。
まぁ、これは色々なケースがあるだろう。
例えば、いつまで経っても解決しないとか、解決策は実施されたがより深刻な問題が発生したとかである。
ここで、恒例wの俺の推測、憶測に過ぎないが自論を展開する。
「それはおそらく、問題を解決する事が本意ではなく、その問題を足ががりに”何かを成そう”としている」と俺は考える。
いつまでも未解決ならば次の段階の問題には進めないし、より深刻な事態になれば解決策は実施されない方が良かったとなる。
後者の場合、元の問題の解決はアメの様なものなのさ。
ぬか喜びさせるか、より戦々恐々とさせるか。
ぬか喜びの場合、局面は安定し(例えほんの一時でも)、戦々恐々の場合はより不安定なものになる。
要はこれらを企てたものの思惑(おそらく更なる次の一手の為の)による。
まぁ、こんな感じで以降も”問題”問題を深堀していくw。
大事なのは、心構えとして
『現状を足場として進まねばならん。現在のそなたのおかれてゐた環境は、そなたがつくり上げたものでないか。山の彼方に理想郷があるのではないぞ。そなたはそなたの足場から出発せねばならん。よしそれが地獄に見えようとも、現在に於てはそれが出発点。それより他に道はないぞ』
上の神示では”そなたの環境はそなたが”とあるが、それは置いといてw俺達は「足場とする為に現状を把握する」必要がありそうだ。
「今回は(も?)以象だw。次回も”問題”問題だ」
どうやら、この作者は「腹がへっては話が書けぬ」らしいw。
食事時に良くアイデアや展開が浮かび、執筆中wは特に腹がへるのだそうだ。
生活に困窮している癖に、それでは”あべこべ”だ。
まだまだ暴れたりないのにw、これでお蔵入りはごめんだ。
だから、貴徳な御仁は作者を支援してやってくれ。
そんな貴徳な御方様への秘文がこれだ。
0036 201 2091403
以象