8
翌朝、朝食を済ませると、母は本当に帰って行った。
あっけなさすぎて、驃の方が寂しく感じたほどだ。親離れはできている自覚があっただけに、ちょっとだけ自分を情けなく思ったが、悪いものではない。少しの寂しさは、支えにもなる。
<ああいうとこ、やっぱり似てるのかも知れないな>
決めたとなると、行動が早い。自分が故郷を出た時のことを思い出し、驃はなんだか可笑しくなった。自分の髪の色や見た目の雰囲気は父親譲りだが、目の色と、中身は多分に母親譲りなのだ。
昼過ぎに訪ねてきた朱音を伴い、驃は庭に出た。病院の外回りを囲む庭は、ちょうど療養として歩くのに適した散歩道のようになっている。
東屋のベンチには、幸い誰もいなかった。
「話って何?」
前を行く驃に、朱音が聞いた。驃は振り返ると、「とりあえず座ろう」と促し、二人で並んでベンチに腰掛ける。
「考えて、くれたの?」
朱音は、上目遣いに彼を見つめた。翠色の瞳は、心なしか不安そうに揺れている。
「朱音」
澄んだ翠色の瞳を見つめ、彼は恋人の名を呼んだ。朱音は、静かに彼の赤い瞳を見返す。
驃は一度、口元を引き締め、ゆっくりと切り出した。
「俺は、ずっと剣士でいたい」
それは、朱音が期待した言葉ではなかった。
「剣を使う、別の仕事を探すって言うこと?」
そうであって欲しいと願う気持ちが、その声に乗っている。驃は首を振った。
「──そうじゃないよ」
その否定は、朱音の心をしんと冷やした。思わず目を逸らして、膝の上で組んだ手に視線を落とす。彼女は、一縷の希望をどこかに見出せないか探った。
「あなたが危ない目に遭うのを……怪我をするかもって心配し続けるのを、私に強いるの?」
「朱音」
「耐えられないって、言ったじゃない。私のそういう気持ちは、分かってくれないの?」
積み重なってきた不安や心配が、否定的な言葉となって出た。包帯ではなくなったとはいえ、驃の身体にはまだ、顔を始めあちこちにガーゼやテープを貼られている。そんな痛ましい姿を、彼女はどうしても真っ直ぐに見られない。今後もこんなことがあったら──
朱音の悲嘆に暮れた眼差しに、驃の心は一瞬揺らいだ。ここで「分かった。そうしよう」と答えれば、全ては丸く収まるのだ。だけど、どうしても、そうは言えなかった。
「ごめん──でも俺には、この道しかないんだ。分かってほしい」
驃は、沈痛な面持ちで告げた。自分だって、朱音に心配をかけたいわけではない。ただ、それを受け入れてくれなければ、一緒にはいられない。
朱音は、黙った。
しばしの沈黙のあと。
「やめてって、言ったじゃない」
朱音が口を開いた。
「他の、安全な仕事を探してよ」消え入りそうな声で、彼女は懇願した。
視界の隅で、鳥が羽ばたいて、木から飛び立つのが見えた。
鳥は、秋の気配がし始めた空を旋回し、あっという間に、遠くへと消えていく。
驃は、自分の試みが失敗に終わったことを悟った。
すぐそばにいるのに、話せば話すほど、二人の距離は開いていく。
付き合い始めてからのこの一年、人一倍気が優しく、傷つきやすい性格の朱音を守ってやりたくて、強くなろうと必死だった。だけどその道が今、彼女を追い詰めている。
だからと言って、彼女にももっと強くなれなどと、望めるはずもない。
<他ならぬ俺のせいで、傷つけてどうするんだ>
だったら、自分の方が朱音の思いを受け入れてやるべきだろう。だが、それだけは出来ない。この大陸の安全を護り、皆が安心して生活できることに貢献する警護隊の仕事に懸ける信念は、今さら他になど置き換えられない。
二人の向いている方向は、違ってしまったのだ。
もう、一緒にはいられない。
我がままを百も承知で、譲れない道──
<俺が、剣を置けたなら>
それが出来ないなら、せめて今、ここにある痛みは自分が全部背負おうと、驃は決めた。
「朱音」
肩を落とし、今にも泣き出しそうな彼女に、驃は向き直った。
「今までずっと、心配ばかりかけて悪かった──でももう、終わりにしよう」