小さな恋のメロディ
「美しい心」と言ってくれた~地下にある死者の施設~という本からの第二弾です。
看護師として働いていて、言葉に置き換えることが不可能な、波動のような声を受け止めたいと思ったのが、きっかけ。きっと、言葉ではなく、メロディなのかしらと。
とにかく、生きている限り、外に向かって何らかの感情を発信している。快、不快はもちろん、何かを望み、何かを悲しんでいるはず。
わからないということは、切り捨ててしまわれがちです。メロディとして、誰かの心に響くことが出来れば、きっと、少しは安らかに生きていける様な気がして、書きました。
年頃になって、恋に焦がれた。誰というわけではなく、恋がしたかった。命と引き換えても貫き通す、恋。
私が夢見た恋は、「稀有の才能に出会い、開花してもらうために、私の人生を賭ける。肉体関係など要らない。優しい言葉も、それどころか、私の存在そのものを意識してもらえなくても構わない」というもの。狂おしい恋がしたかった。
しかし、私は、そんな恋に巡り合わないまま、結婚した。そして、子供に恵まれ、忙しくも幸せな生活の中、あの頃の気持ちを忘れ、私は老いていった。
80になり、私の恋は、突然やってきた。
初めてお会いした印象は<物静かな人>。指がすらっと長くて、とても綺麗だと思っただけ。水樹さんは、今までのスタッフと同じように、入職後一か月はフロアー勤務、その後誘導やオムツ交換に入っていった。取り立てて、変わった様子なく。ただ、お互い話をしていないのに、なぜか察してくれる、気が利く優しい人だった。
食事介助も終わり、彼がフロアー見守りの時
「趣味は何ですか、もしよろしかったら教えて頂けないかしら」
と切り出した。彼が何か遠い目をしていたので、眠いのかと思い、そんな様子を先輩スタッフに見つかっては可哀そうと、ただ、そんな思いで、話しかけてみた。
「あ、人形を作っています。女の子みたいですかね、球体関節人形と言いまして」
「え、私も作っていました。石の粉の粘土のようなもので、ガラスの目を入れて」
「そう、それです。いやあ、お互い珍しい趣味ですよね」
と、彼は微笑んだ。
<お互い>という言葉に、心が震えた。突然、私の腕にクーラーの風が、直進してきた。
私は直感的に、この機会を逃してはいけないと、そう思った。
「どうか、お願いがあります。私の子達は、もうどこへいってしまったものやら、そう、もう、たぶん、逝ってしまったの。だから、見せていただけないかしら、あなたのお人形」
彼は少し困ったような顔をした。しかし、それは一瞬で、柔らかい笑顔に戻ると、
「喜んで、今度持ってきますよ。でも、ちょっと恥ずかしいから、みんなには内緒でお願いします」
「はい」
それ以上、言葉を繋げられなくなっていた。もう、その短い返答で、私の心は精一杯になっていたから。
それから数日後、旅行かばんを連れて、彼は私の部屋に入ってきた。
人形を一目見て、私は彼を、彼の心の秘密を、垣間見てしまった。
その人形には、心が、なかった。
感情を感じる物を、一切排除した人の形。
とても美しい形なのだけれど、強烈な、何と言うか違和感を受けてしまった。彼はこの子達を愛おしく感じているのだとしたら。私の頭に、一つの仮説が、ふっと、生まれようとした。
その途端、彼の表情が……私は慌てて、<月の光>を頭の中で奏でた。嫌な現実を理解出来ないふり、気付きもできないふりをする時に使う技。私は、逃げた。失いたくなかったから。
私は女だから、特に、あの時そう感じたのかも知れない。人形、それは、ぬいぐるみでも、たとえ紙でできていても、<お話し相手>として存在する。ごっこ遊びの相手となり、大人になってからは、相談相手にもなってくれる。だから、言葉を理解してくれて、更に、共に笑い、慰め、励ましてくれないとだめだ。でも、彼の人形達は完全なる無だった。そこからは、何の言葉も発せられていなかった。感情移入を、完全に拒んでいたのだ。この人形達を傍に置いて、安らぐ人。彼はそういう人なのだ。
それからというもの、私は毎日、彼を観察した。彼の仕事ぶり、入所者との関わり、他のスタッフとの関わり方。
そして確信した。
彼は人の心が読めるのだ。
失語症のミドリさんが彼といると笑顔になれるのも、構音障害のツヨシさんの通訳ができてしまうのも、心を読んでいたからなのだ。そう考えると、自然に見えてくる。
でも、ここで働く者にとって、それはなんと苦しいことだろうか。ここには、負の感情が渦巻いている。
いつまで経っても受け入れることのできない、動かなくなってしまった手足。自分は捨てられた、という、思い。どこにも持って行きようのない、気持ち、絶望、そしてアンニュイ。それだけではない。スタッフ同士のごたごたやら、不平不満。聞くに堪えない言葉に、押し潰されてしまうだろうに。
私は一晩かけて、作戦を考えた。
例えば、話しているふり。口パクをして、考えていることが彼に伝わったら「こことが読める」の証拠になるのでは。でも、口パクで二通り以上の意味を持つ文章なんて、私には難しくて、見当もつかない。だったら、強いSOSを頭の中で叫んで、彼が来るかどうか試すというのはどうだろうか。いや、嘘はすぐばれてしまうだろう。転んでもいないのに「助けて」では、近くに来る前に、気付かれてしまうだろうし、「お腹が痛い」では看護師さんに報告されてしまう。さあどうしたものか。その晩、私によいアイデアは降りてこなかった。
しばらく私は、この考えを彼に悟られないように、彼が傍に来ると月の光を奏でた。彼との何でもない会話すらできないことに、私の心は限界だった。いっそのこと、嫌われてしまっても構わないから、聞いてしまおうかと……辛かった、80過ぎても、やはりそれは辛かった。けれど、その辛さから、違う辛い現実が、私を救ってくれた。
二度目の脳出血に襲われたのだ。
朝ご飯のためにラウンジへと向かっている途中、誰もいない廊下でそれは起こった。過去に、一度だけ経験したことのある強烈な痛み。頭の中の血液が、頭蓋骨を押し通して悲鳴をあげた。そして、全ての機能がダウンする直前に、彼は現れた。私服のまま、ドアを蹴り破って、私の元に。
幸い発見が早かったので、私は又救われた。
病院から戻り、まず、彼がまだ働いていることに感謝した。彼の秘密を知ったのは、私だけだったのだと。そして、まだ言葉がなんとか話せることに、感謝した。
ここの施設ならば、たとえまったく動けなくなっても、意思を伝える手段を失っても生活していける。いや、生きてはいける。実際そのような方も入居されている。リクライニングに乗って食事介助を受けている方のほとんどは、言葉を失っているし、胃瘻の方々も。私は、お風呂場の前で順番待ちをしている所でしかお会いしたことがないけれど、胃瘻部屋のトキさんやシズさんの呻くようなその声からは、言葉にならない感情だけが伝わってくる。
そう言えば、看護師さん達
「水樹さんが、胃瘻部屋の異変に気付いてくれて助かるわ」
と言っていた。
嘔吐していたり、栄養の流れが止まっていたりとか……他のスタッフがオムツ交換後、頭を高くするのを忘れていても、彼だけが気づいて直してくれると。
「彼は彼女達の言葉もわかるのかしら」
そんな思いが頭に浮かんだ時、目を上げると彼がいた。私は慌てて又、月の光を奏でた。彼は…
「私もドビュッシーが大好きですよ」
と、小声で言った。私だけに聞き取れる小さな声で、はっきりと。
それから私達は、私達の会話を交わした。彼がいることを確認してから、寝たふりをして頭をテーブルに伏せる。そして、話し始める。時々答えを知りたくて、顔を上げ、彼の笑顔を盗み見る。とても幸せな時間。二人だけの時間は、こうして静かに流れていった。
私の誕生日、小さなケーキがお昼ご飯のお盆についた。とうの昔に、もう誰も、祝ってなど、くれない。最後に夫がケーキを買ってきてくれたのは、亡くなるずっと前、まだ子供達が家にいた頃だったような。それでも、まだ夫婦で暮らしている時は良かった。それが……今日のこの日まで生きてきたことを喜んでくれる人のいない、虚しさ。今迄の人生を共に振り返る人のいない、寂しさ。誕生日なんて最悪だ。昼食後、私は部屋でふて寝をした。
おやつの時間が来ても、私は起きなかった。そこへ、小さな優しいノックが聞こえた。そして、今日夜勤の彼が、私をデイルームに連れ出した。
今日は日曜日。静まり返ったそこで、彼はピアノの前に立つと、私に向かって深々とお辞儀をしてから、何も言わず、演奏を始めた。
私の<月の光>を。
ピアノが弾けるとは聞いていたが、こんなにも上手だとは。あの長い指が奏でているメロディに私は、今こうして生きていることを、私でいられていることを、素直に喜ぶことが出来た。だから、涙が出てきた。
そんな私を彼は優しく見つめ、少し間をおき、次に、とても美しい曲を弾いてくれた。聴いたことのない旋律。それでも、なぜか懐かしい、愛おしい、語り掛けて来る調べ。聴き終えて、その余韻の中
「あ、シズさんだ」
と、私は思った。
「この曲、題名はサイレント。私でもシズさんの思っている言葉、聞き取れないのです。その代り、こんな美しいメロディが聴こえてきます。きっと、シズさんの過ごしてきた思い出、沢山の感情なのだと思います」
私はその時……別れを意識した。
それでも、言い出さずにはいられなかった。
稀有の才能を開花させるために。
私の恋を貫くために。
「私は、あなたに、シズさんのような方々のメロディを紡いでいって欲しい。誰にも聴いてもらえないメロディを、多くの人に聴かせてあげて欲しい。生きていることを、生きている証を、どうか届けてあげて。どうか、どうかお願いします」
そう、一気に話すと、私はじっと彼を見つめた。言葉で上手く伝わらない分、私の思考回路を全開にしたのだ。
彼はここを去っていった。
「おめでとう、楽しみにしている。ありがとうね」
そんなありきたりの言葉をかけた。
今、彼とはテレビで会える。心に響く美しいメロディは、多くの人に受け入れられていった。癒しの時代、彼は時代の申し子だったのかもしれない。介護職を辞めてからも、演奏の場としてたびたび介護施設を訪れているようだ。そんな所も、彼の魅力のように伝えられている。だが、私は知っている。新しいメロディを聴きに行っていることを。世の中には、まだまだ、彼の知らない曲がある。
昔観た<小さな恋のメロディ>、あの二人はその後どうなったのか。メロディが今の私の歳になったとしたら、どう振り返っているのかしら。
私は思う。子供もおばあちゃんも、<その時>が大切なのだと。
私は恋をした。振り返らず、ありがとうと感謝して、ただ、応援していこう。
でも、あと何回かの発作を起こして、私の頭から言葉が消えた時、又会いたい。最後に、又会いたいのは彼だ。
なぜって
私のメロディを紡いでもらいたいから……
彼に、聴いてもらいたいから……
この物語から、水樹さんを迎えて?次の物語を書きました。それが、「血を分離して、私達は、血清になる」です。
「心を読める」をキーワードとして、介護から、世界を変える!相手の心に無関心な者に制裁を!みたいな…
読んでみて下さい。