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日露大戦  作者: 登録情報はありません
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1871年フランス中部クルーゾー製鉄所000

1868年明治維新。日本は「富国強兵」「文明開化」の道を邁進する。

1868年明治維新、西洋に追いつき、追い越せ。

近代国家を目指す明治政府が掲げたモノ。


それは「富国強兵」「文明開化」だ。


明治政府は尊皇攘夷派が主導して確立した政権だった。

だが前後して開国和親政策に舵を切り替えた。


国力も軍事も劣った日本に西欧列強が突きつけたモノ。

それは列強に有利な不平等な条約の数々だった。


条約是正と国家の保全に必要なのは並立と対峙だ。

つまり列強に国力と軍事で追い付くことだ。


それには兵器の量産と運用が欠かせないのだが・・・・・・。

国産製鉄技術の黎明はまだ遠い。


たたら吹きによる手工業の製鉄は古事記(712)からあった。

1200年の歴史を持つ一子相伝の伝統的手工業だ。


砂鉄4tと木炭4tを60時間掛けて銑鉄1tを生産できる。

一方、高炉1基で1日6000t~1万tの銑鉄を生産できる。


たたら吹きの材料は砂鉄、高炉は鉄鉱石で材料も違う。

単純比較はできないが、工業大量生産には向いていない。


すでに日本は木炭高炉による工業化は成功していた(1857)。

この高炉は輸入品であった。


全輸入品による工業技術の「移植」である。


外国製の高炉を分解し、外国人が日本で再構築する。

それによって、外国と同じ冶金技術で、銑鉄を得る。


こうしてインゴット(地金)を国内で作る。

日本は原料の銑鉄をようやく入手できた。


だがそれは手順を倣っただけだ。

模倣はそれ以上の事はできないのだ。


高炉は定期的に修理が必要だ。

だがなぜ修理が必要なのかさえ分からなかった。


たたら吹きでは炉を毎回壊すので、再利用はしない。

再利用に耐える炉心の概念さえ遠く及ばない・・・・・・。

海外の銑鋼一貫作業工程は全て同一工場で行う。

鉄鉱石の溶融から半製品の圧延までの全ての工程をだ。


しかも炭焼きではなく高炉とコークスを利用したモノだった。

この高炉はまだ日本にはない。


こしき炉とたたらによる洋式大砲の鋳造と機械加工が行われた場所。

それが薩摩藩の集成館、幕府の関口製造所、長州藩の郡司鋳造所だ。


たたら吹きによる製鉄があまりにも少量なので反射炉がつくられた。

それでも兵器製造には圧倒的に足りなかった。


1870年に造兵司(ぞうへいし)を設置、のちの大坂砲兵工廠である。

1872年フランス製の四斤(よんきん)野砲を参考に国産試作に成功。


やれば出来ないことはないのだが、これは量産ではなかった。

だが模造品(デッドコピー)を輸入工作機械で作って何が悪いのか?


原理は分かる、技術書もある、器械も輸入でまかなっている。

錐操(きりもみ)器械はボール盤で、踏旋床は旋盤で、自動鉋床は平削盤だ。


オランダからは蒸気式堅(形)削り盤が輸入された。

蒸気鍛造(スチームハンマー)機械も同様である。


どうしても、工作機械を作る国産技術が、まだないのだ。

なぜ国産に固執するのか、次のエピソードの顛末になるからだ。


日本「大型で縦型の倣いフライス盤を発注したい」

英国「何に使うのですか?」

日本「ぐ、軍事機密で言えん!」


英国「この規模だとスクリューの切削ですか?」

日本「あっ、え?へっ・・・・・・」

英国「精密木型も完成、ロストワックス精密鋳造もできた・・・・・・」


日本「あっあ、ええっ!」

英国「あとは倣いフライス加工ですか」

英国「だったらウチのスクリュー買って下さいよ」


日本「ぐぬぬ・・・・・・」


スクリューの大きさから排水量が分かる。

排水量から装甲の厚さがわかり、搭載兵器の口径が分かる。


国産技術に拘るのはこういう意味があるのだ。


かたや欧州の技術革新は下地もあり、順調に進んでいた。

16世紀に400余の製鉄場があったスペイン・バスク地方のビスカヤ県。


この地方は、石炭や鉄鉱石の鉱床に恵まれていた。

材料があり、技術があり、革新の下地があった。


300年に渡って技術を磨き蓄積してきた。


1848年バスク地方ビルバオに初の高炉が稼働を開始。

1854年バスク地方バラカルドに高炉が建設される。


1882年にセスタオに金属工業が創始される。

高炉と圧延機を備えたビスカオ金属工業である。


欧米ではルツボ製鉄は、巨大な高炉製鉄所に変容しつつあった。


日本は250年遅れているのだ。

追い付け追い越せに、恥も外聞もなかった。


そこでフランスから製鉄に詳しい技術者を呼んだ。

スウェーデンから鉄鉱石の専門家も呼んだ。


最新技術を直接外国人技術者から学ぶのだ。

専門家たちは口を酸っぱくして日本人に知識を伝授しようとした。


だが「炭焼き製鉄」しか知らない日本人技術者にはピンとこない。

赤熱した鉄色や窯の煙の色で、熟練工は温度を感じた。


それが熟練の技で、熟練工の腕の見せどころだった。

「そうではない」海外の技術者は反論した。


1900℃にもなる高炉の温度管理は綿密な燃焼管理が必要だ。

しかも高炉の中を直接に覗く事はできない。


工業化学による冶金の知識と技術で銑鉄を得るのだ。

それは習練の賜物ではなく、化学方程式だった。


世界では電気・電解精錬が次々と実験開発されていた。

地球で最も多い金属、アルミを精錬する電気精錬だ。


1810年英国でハンフリー・ダービーが電気精錬法の実験に成功。

1886年米仏研究でアルミの電気精錬法(ホール・エルー法)の開発に成功。


工学も化学も、世界では異様な速度で進化していた。

例えば、航空機で使用する超々ジュラルミン(A7075)アルミ合金。


アルミの電気精錬がなければ、ジュラルミンは発明さえされないのだ。

住友友親(すみともともちか)「ううむ、化学は苦手じゃ」


住友財閥第12代友親は豪邸の私室で苦悶していた。

友親「そうだ、こんな時はあいつに相談だ」


あいつとは住友別子銅山技師長の広瀬坦のことだ。

後に当鉱山支配人になる彼の知識は無尽蔵だった。


この2人が住友金属の前々身の日本製銅を創業する。

化学反応(酸化還元)の知識獲得は、日本にとってもはや急務だった。


鉄鉱石に含まれる酸化鉄は還元反応で銑鉄に生まれ変わる。

もうこれは実際に稼働している銑鋼一貫製鉄所を見せるしかない。


フランスもスウェーデンの技術者も同じ言葉を口にしていた。

「技術者を招くだけでなく、我々の製鉄技術を実際に見て学ぶべきだ」


1871年岩倉使節団は蒸気船アメリカ号で横浜を出発。

この船さえ米国「パシフィック郵船」の所有である。

サンフランシスコに上陸し、8ヶ月の長期滞在に及んだ。


欧米の異常なほど進んだ技術を目の当たりにした使節団の面々。

しかも最新の研究は日本人の想像を超えたモノであった。


英国ではジョセフ・スワンが、白熱電球の研究に没頭していた。

米国ではトーマス・エジソンがやはり同じ研究をしていた。


イタリアではアントニオ・メウォッチが、電話の研究をしていた。

米国ではグラハム・ベルがやはり同じ研究をしていた。


もう時間の問題だった。

悠長に遊学してる場合では無かった。


その後、大西洋を横断して欧州に向かった。


フランスでは蓄音機と発電機の研究が進んでいた。

1840年電信網の為の大西洋横断電信ケーブルが敷設されていた。

もう電信により、優先ながら瞬時に情報をやり取りしていた。


フランスではさらに銑鋼一貫製鉄所に度肝を抜かれた。

1782年からおよそ100年に渡り操業を続けていた。

特殊鋼、薄板金や機関車を作り続けてきた製鉄所である。


フランス中部地方のクルーゾー(Le Creusot)製鉄所だ。

そこでの感想は一言「だめだ・・・・・・日本は周回遅れ・・・・・・」

次回は1871年フランス中部クルーゾー製鉄所001です。住友友親がチラッと出てきますが、例に超々ジュラルミンを出してしまったので住友金属さんにも出て頂きました。スポット出演です。後々の物語には関係ないです。

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