1864年英国密留学001
今、ロンドンで1人の留学生が慣れぬ厳冬の寒さの中で命を落とそうとしていた。不治の病「肺炎」である。薬草は役に立たず、もはや風前の灯火であった。
1866年1月、ロンドンは厳寒の冬を迎えた。
UCLの学生寮も吹雪に閉ざされている。
窓はガタガタいって隙間風が入ってくる。
暖炉はあるが暖かさが全然足りなかった。
竹田庸次郎「凍えそうだ」
山崎小三郎「さ、さむい」
南貞助「眠くなっ・・・・・・」
ウイリアムスン「ちょんまげに袴ではバカにされる」
教授の内密な指示で、和服から洋装になった3人。
それでも異国の寒さが身に浸みる。
山崎はとうとう病の床に伏せてしまった。
心労と栄養不足により肺炎を併発し、もはや風前の灯火である。
食欲もなく、ただ痩せ細るばかりであった。
UCLの学生寮で力なく横たわる山崎。
山崎「梅の握り飯が食いたいなあ」
竹田「山崎、どうした、頑張るんだ!」
山崎「天井のシミの数を数えるのにも飽きてきた」
南「山崎さん、しっかりして下さい!」
山崎「これがオレの人生の終着駅か・・・・・・」
食事も水ももう喉を通らない。
もう息をするのも面倒臭い。
咳の薬カノコソウ、フキタンポポも試した。
ダイコンソウも肺病の薬フウロソウも試した。
これはプリニウス博物誌による薬効だという。
古代ローマの博物誌の偉人だという。
UCLの学生達は色々と薬効のありそうなモノを薦めてくれた。
古代ギリシャからの妙薬なのだというが。
南「ウサギの糞を灰にしたものをワインに混ぜるといいらしい」
山崎「いらんわ、そんなもん」
山崎は鼻に皺を寄せた。
南「ウサギは食糞でビタミンや発酵酵素を補給・・・・・・」
山崎「オレ、ウサギじゃないもん」
山崎は鼻をヒクヒクさせた。
肺炎連鎖球菌の全身性感染症の唯一の治療法。
それは1928年発見のペニシリンだ。
だが1866年の今、そんなものはなかった。
ドタッドタドタッドタッ!
廊下を足音高く歩くナンバ歩きの音がする!
バーン!ドアがけたたましく開かれた。
高杉晋作「あるぞ!」
「日本人が病気だと聞いて駆けつけた!まだ息はあるな!」
竹田庸次郎「なにやつ!」
南貞助「お義兄ちゃん!」
南は高杉晋作の義弟で、夢にも見た再会に、ばふーんと抱きついてきた。
高杉はその義弟を引き剥がしながら、赤い液体の入った瓶を差し出した。
竹田「これは?」
高杉「あとで説明する、まずは点滴だ」
UCLの教授ウイリアムスンの同校の附属病院にシドニー・リンゲルがいた。
生理食塩水輸液(リンゲル液)を発明したその人である。
それより先1831年にトーマス・ラッタという英国医がいた。
初めて静脈に栄養液を注射した人物だ。
点滴をコレラ患者の脱水症状の改善に試したのだ。
塩分、水分、電解質の欠如だとの診断であった。
いままでに経口摂取以外で、薬物投与を試した人物はいない。
これが静脈から栄養分を補液した初めての輸液療法だった。
しかし当時は消毒の概念の無い初期の治療である。
感染症を発症し、多くの助かる筈の患者が死んでしまった。
1867年ジョセフ・リスターがフェノールによる消毒法を発見。
ついに消毒の概念が、英国医学界を震撼させるのである。
高杉はアルコール濃度77%のスピリッツを消毒に使った。
飲用だがアルコール濃度が高いので、消毒用にも使える。
輸液治療により山崎はみるみる回復してきた。
ここで高杉は例の赤い液体を滴下し始めた。
竹田「では、ご説明願いたい」
高杉「うむ」
日本戦国時代に藍染めの腹当てというモノがあった。
コレが刀傷の化膿止めに効くという。
染料には化膿止めの効果があるのではないか?
そう思った高杉は日本人留学生の学び舎UCLを訪ねた。
ウイリアムスン「おもしろそうな分野だ」
UCLの病理学部は援助を申し出た。
高杉は素人なので、医生が研究をする事になった。
その頃、世界では次々に合成染料が作られていた。
最初に出来たのは廃棄物コールタールからだった。
1856年パーキンがコールタールからモーヴ(人工貝紫)を発見する。
1858年英国でグリースがアゾ化合物を発見する。
1863年マルティウスがビスマルクブラウンを合成。
1863年ライトフットによるアニリン・ブラックの合成。
アニリンに二(弐)クロム酸カリウムを反応させる。
すると酸化されてアニリンブラックになる。
アニリンは染料の中間体である。
無色透明の液体で、それだけでは何の色もない。
アニリンにさらし粉を入れると赤紫色を呈する。
さらに抽出と精製を繰り返せば黄色から濃橙色まで染色する。
合成染料はそのまま化学の世界そのものだった。
このアニリンは酢酸との合成でアセトアニリドになる。
フランスの科学者ジェラールが1853年に合成している。
アセトアニリドは解熱鎮痛剤として薬効があった。
この事から合成染料には薬効があるのではないか?
そういう機運が欧州では広まっていた時代だった。
学会には次々に発表が相次いだが成果は無かった。
そうそう簡単には見つからない。
時々特定の細菌に弱く効く兆しが見られた。
だが再現実験では失効している有様だった。
どこかには必ずある!
西洋や中東には1000年の錬金術の歴史があった。
8世紀のゲーベル、9世紀のラーゼスに端を発する。
常温常圧で見つからないなら条件を変えればいい。
彼ら西洋人は化学実験に必要な条件を培ってきた。
酸化剤、還元剤、金属触媒、光反応、電気分解etc。
日本にはなかった錬金術が化学を生み出した。
そういったある日、高杉は研究室に飄々とやって来た。
彼は鞭撻の志士であったが、化学者ではない。
神出鬼没な彼は当然思い付いたように言った。
高杉「二酸化硫黄を側鎖に付けてみてはどうか」
二酸化硫黄は退色防止剤として需要があり、抗菌作用もあった。
「コレだから素人は」とは口には出さないが顔には表れていた。
研究者「東洋人が何を言い出すかと思えば」
高杉「なんですと?」
研究者「いや、なんでも」
並みいる研究者たちは内心ホッとしていた。
西欧の研究者たちは行き詰まっていたのだ。
どんなチャレンジでも「やらないよりはやれ」だった。
高杉「まあまあ、ダメもとで、よろしく」
考えてみれば、誰も気付かなかった事なのだ。
側鎖の長さや二面角にばかり気を取られ、気付かなかった。
そこでアゾカップリングで赤色のジアゾ化合物を得た。
この染料の側鎖を二酸化硫黄分子を付け替えた。
硫黄を含む側鎖は退色しにくい傾向の染料ができる筈だ。
だが期待した退色効果よりもとんでもない効果が現れた。
この染料にはズバ抜けた抗菌力が見られたのだ。
とうとう近代の錬金術は医療の賢者の石を発見した。
この側鎖がスルファニルアミドであり、赤色染料がプロントジルだった。
ついに赤色染料が連鎖球菌の感染症に有効である事を見出したのだった。
竹田「なるほど合点がいきました」
南「全然分からんがスゴいことはだけはわかりました」
高杉「ただひとつ欠点があってな・・・・・・」
竹田「なんですとぅ」
南「ええっいまさら」
高杉「染料なので患者が赤く染まってしまうのだ」
竹田はあわてて山崎の方を振り返ったが時すでに遅し・・・・・・。
山崎は赤く染まっていた。
この後、山崎は回復し、英国に残り、勉学を続けた。
グラスゴーの造船所で工夫として働き、造船を学んだ。
彼はレッドデビルという愛称で呼ばれていた。
同じ造船所に長州五傑の山尾庸三がいたが、顔を合わせないようにしていた。
1867年大政奉還。
1868年明治元年、いよいよ近づく。
次回は1871年フランス中部クルーゾー製鉄所000です。