1864年英国密留学000
とうとう長州藩主毛利敬親は英国密留学を決意する!黄禍論渦巻く欧州、それは英国でもあり、黄色人種は見下されていた。その中で留学生達は慣れない環境で体力を消耗していく・・・・・・。
もう一刻の猶予も無かった。
なんとか!なんとかしなければ!
下関戦争で敗北した長州藩は、それを肌で感じていた。
毛利敬親「あああああっ」
1864年、ここは長州藩山口城本館の藩主私室。
家臣「また、おかしくなられた!」
「はやく座敷牢へ!」
家臣たちはダンゴになって敬親を押し包み、座敷牢へと導いていった。
敬親は「おかしくなられた」のではない。
下関戦争で彦島を租借地として英国に取られ、精神的に参っていた。
敬親「鎖国が全てをぶち壊してくれた」
「もはや密留学もやむなし!」
なんと藩主自ら、鎖国破りをしようというのである。
周布政之助「財政が持ちません」
1863年長州五傑を送り出した時は鉄砲購入支度金を使った。
その時でさえ藩主が出せたのは1人200両だけだった。
政之助「密留学は国の支援が得られません」
「費用は全て藩の財政・資産から出さねばなりません」
敬親「うん、そうせい」
「それと責任を取って切腹は許さんぞ」敬親は釘を刺した。
政之助は去年、禁門の変の責任を取って切腹しようとした。
敬親「それと酒は程々にな」
1865年長州藩の藩命により、3人の若者が渡英する。
戦艦の癸亥丸艦長の山崎小三郎ら3人である。
渡英するとなると資金が必要となる。
日本はまだ鎖国中であり、これは密留学なのだ。
資金は1000両、これでギリギリだ。
駐日イギリス総領事エイベル・ガウワーは言った。
ガウワー「船賃400両、滞在費1年分600両」
幕末の1両は10万円ぐらいだから1億円ぐらいだ。
渡英後、彼らは慣れない食生活と通じない言語の壁に消耗していった。
だが、造船所の見学は山崎小三郎の任務でもあり目的でもあった。
彼は熱心に回転砲塔を搭載した砲塔艦を見て回った。
これにはUCLの教授ウイリアムスンが便宜を図った。
英国海軍工廠「いいんですか?教授、日本人に見せて?」
ウイリアムスン「いいんだよ、彼らは後進国だからね」
マゲにハカマの日本人をチラと見た教授は嘆息しながら言った。
教授は様々なアジア人を教化してきた経歴がある。
インド、マレーシア、ビルマ、ベトナム、中国etc。
化学の教授だった彼は次々に洋学を教えていった。
最初はみんな興味本位でついてくる。
だが段々分からなくなってあきらめる。
酸化還元から工業化学まで全てを彼らに伝えた。
だが誰も、最後までついてこれなかったのだ。
ウイリアムスン「アジア人はちょっとここがね・・・・・・」
彼は自分の頭を指でコツコツと叩いた。
原住民特有の頑迷さと愚鈍さは解きほぐせない・・・・・・。
その愚鈍さはアジア人共通のものと解釈していた。
日本人の奇妙な外観は、やはりそれを如実に表していた。
極東の小さな島国のかわいそうな原住民・・・・・・。
日本人が墨壺と筆で必死にメモを和紙に取っているのを笑った。
日本人が英語が分からす、お辞儀をして笑みを浮かべるのを笑った。
だが和紙のメモには日本語でこのように書いてあった。
「軍事機密参照:自動装填装置後装砲」
「機力装填装置:分解点検作業詳細」
英国人は日本語が読めないので、何が書いてあるか分からない。
日本人だけは、他のアジア地域住民とは違っていた。
だが植民地を全世界に持つ「海洋帝国」英国はそれを知らなかった。
あまりにも多くの植民地と原住民を見過ぎていた。
多くの原住民を屈従させ、奴隷として扱い過ぎていた。
山崎小三郎は下関戦争で、外国船に自艦を大破させられたのを黙っていた。
その時、彼は心に決めていた事があった。
いつか必ず出し抜き、追い抜いて、先を越えてやると決めていた。
彼は戦艦の全てを学ぶために渡英してきたのだ。
次回は1864年英国密留学001です。