1908年日本もうで
とうとう西欧植民地からの日本もうでが始まった。フランス領インドシナ(現ベトナ)ムは特に顕著だった。その波及は、インド、ビルマ、サウジアラビア、アフリカにまで及んだ。
日本もうでの最も多かったのはインドシナ(現ベトナム)だった。
東遊運動といってフランス植民地支配から逃れようとしたのだ。
「維新の会」はその時の反仏運動の結社の名前である。
ファン・ポイ・チャウは200人の同志とともに来日した。
だがインドシナと日本の接近をフランスが許すわけがない。
日本軍の策源地となる事を恐れての事だ。
フランスは「シベリアの次はインドシナか?」と難癖を付けてきた。
フランス植民地であるインドシナの権益を侵すなと言う脅しだ。
これは後々のすべての西欧植民地についても言える事だった。
すべての西欧国家が猜疑的になったら日本は孤立する。
これを乗り切れなければ、外交は暗礁に乗り上げる。
だが日本には250年の鎖国から目覚めたばかりだ。
西欧には16世紀から400年の植民地経営の手練のワザがある。
自国の利に他国を従わせる外交の妙味を知り尽くしていた。
そこで大日露帝国の同盟国ソヴィエトとシベリアが役に立ってもらう。
彼らは多民族を飼い慣らしてきた知恵と実績がある。
ニコライ二世「支援経路を第三国経由の流通にしてしまいなさい」
スターリン「途中まで追跡可能だが、あとは煙に巻いてしまえばいい」
ソヴィエトとシベリアを仲介して支援する事となった。
フランスはその先はもう追えなかった。
かつてフランスはロシアの同盟国であった。
そのため、対日本ほど高圧的に出る事はないのだ。
インドシナ人革命家ファン・ポイ・チャウは日本の慶應義塾に留学してきた。
だが仏の対日圧力により2年ほどで離日せざるを得なくなった。
チャウ「恩師の柏原文太郎サンに迷惑は掛けられません」
柏原文太郎はアジアの亡命者・留学生の日本での勉学に尽くした人物だ。
しかしチャウは故国インドシナには帰らなかった。
離日したチャウの行き先は新生シベリア帝国のトキオ義塾であった。
これは名称から察せられる通り、シベリアの慶應義塾分校である。
多くの留学生がこの日本の学校に留学先を求めた。
フランスは留学をやめるよう勧告したが無駄であった。
「それなら強硬措置を取るまでだ!」
フランスは留学生の家族や知人をインドシナで不当に逮捕した。
これで留学生が動揺し、帰国すると考えたからだ。
これに対し、フランス国内でも突然行方不明者が相次いだ。
インドシナに派遣されている警察や軍関係者の家族や知人たちだ。
フランス政府「???」
謎の組織「・・・・・・」
真意を悟ったフランス政府は真っ青になった。
日本やインドシナの手際では無かったからだ。
それはシベリア秘密警察ヴェーチェーカーの仕業である。
フランス政府「こ、こんなことが許されるハズが・・・・・・」
シベリア政府「知らんな、証拠でもあるのか」
そんなものがあるハズもなかった。
後日、双方で人質の交換が行われ、人的被害はなかった。
フランスは黙ってインドシナが立ち上がるのを見ているしかなかった。
これは英国領インドでも起こった。
インドでは10年15年計画で、規律や義務教育を施す方法を選んだ。
軍事、経済、技術で立ち上がる基礎は勉学だ。
自らの国力で独立を勝ち取るのだ。
インドは自力で立ち上がる道を選んだ。
明治政府の富国強兵とそれを支える殖産興業を模倣する。
多くの学生が新生シベリア帝国のトキオ義塾に留学した。
明治の志士が欧米で学んだ事を効率よくここで学ぶのだ。
ビルマの高僧ウ・オッタマは英国支配を覆そうと発起した。
ビルマで最も市民に影響力のあるのは政治家ではなく僧侶であった。
ウ・ウィサラ師という高僧も発起し、多くの学生に留学を勧めた。
学生たちは純粋に従い、新生シベリア帝国のトキオ義塾に留学した。
かれらが10年15年後に未来を担い、ビルマを解放するだろう。
気の長い話だが、仏教そのものが気の長い話なのだ。
トルコでは日露大戦の勝利は熱狂的に迎えられた。
人々は資産を投げ打って、日本の外債を買おうと大使館に押し寄せた。
かつてオスマン帝国だった頃、日本はこの国の経済を救ったのだ。
桂小五郎が命を賭して、この国に工業技術をもたらしたのを子孫は覚えていた。
またエルトゥールル号遭難事件での日本人の献身的な救助も覚えていた。
救助された船員「17年前に助けてもらったご恩は忘れません」
ブルガリアもまた日本によって助けられた国だ。
吉田松陰により、大虐殺を逃れた経歴がある。
ブルガリア「いまにして思えば、ロシア南征の防波堤にされたのは分かる」
「だが歴史にあやうく大きな汚点を残さずに済んだ事には感謝している」
トルコとブルガリアがそもそものバルカン半島騒動の火種だったのだ。
彼らが動かないのでバルカン諸国は煽りようがなかった。
英国植民地エジプトにも日露大戦の影響は波及していた。
すでに地球の裏側であり、熱狂的な反応は薄れていた。
熊と竜(日本)、皇帝(ニコライ二世)と天皇という対局の詩が吟じられた。
「日本の乙女」という日本人女性の挺身の姿を描いた歌であった。
サウジアラビアはどうだろうか?
まだ石油も見つかっていない貧しい国だ。
サウジアラビアは国内を二分する内乱で揉めていた。
アラビアのロレンスで有名な通り、英国が手を染めている。
有力豪族サウードの当主イブン=サウード率いるイフワーン軍団。
ベドウィン12氏族の名門で英国の支援を受けたハーシム家。
彼らは紅海沿いのラクダ行商が唯一の収入源だった。
スエズ運河が完成した今、ラクダ行商の価値は薄かった。
彼らをバックアップする価値はほとんどなかった。
英国はサウジだけでなくエジプトにも進出していた。
そのエジプトではトルコとの悶着が続いていた。
利潤のないサウジの支援からゆっくりと遠ざかる英国。
英国「サウジアラビアは独自の道を歩むべきだ」
こうして英国はハーシム家の支援から離れた。
ハーシム家優勢だった内乱はイフワーン軍団に傾き始めた。
ここに日露大戦の日本勝利の報がもたらされたのだ。
イブン=サウード「オレたちもやれる!できるぞ!」
ハーシム家「ええ、そんなあっ」
こうしてサウードがサウジアラビア王国の始祖となった。
日本贔屓の彼は多くの日本人学者をサウジに呼んだ。
富国強兵、殖産興業の明治時代に学ぶためだった。
砂漠の遊牧民にも出来る事はあるはずだ。
ここはルブアルハリ砂漠の北部地方。
北部地質区としてはアラビア卓状地に属している。
日本人技術者「卓状地か、ふむ」
シベリアでは卓状地の境界面に石油が出た。
このルブアルハリ砂漠は東西1000km、南北500kmの不毛の地だ。
ベドウィンでさえ、この砂漠に入る事はない。
日本人の1人が塩のドームが複数あるのを確認した。
地層が折り曲がって(褶曲して)地上に露出したモノだ。
こういう場所には油が貯まっている事があるのだ。
いくつか試掘坑が空いていて、溶接によって塞がれていた。
英国も試掘してみたが、何も出なかったという事だ。
試掘は1000mにも及んでいた。
日本人「じゃあ、4000mまで掘ってみるぞ」
何も出ない。
日本人「じゃあ水平に掘ってみるぞ」
日本は垂直坑井掘削の他に水平坑井掘削技術もあった。
石油がドクドクと自噴してきた。
日本人「石油が出たぞ」
推定埋蔵量710億バーレル、日量500万バーレルの超巨大油田だ。
日本人は平然と「まあこんなもんでしょ」と言った。
サウジはこれから大金持ちの国になるのだ。
彼らは宝の山の上で、一文無しでずっと暮らしていた。
資源国家の運命の巡り合わせだった。
イブン=サウード「ありがとう!本当にありがとう!」
日本「近代国家への道を歩んで下さい」
「我々がサポートしますよ」
イブン=サウードは日本人の素っ気ない所も好きだった。
英国人の欲望にまみれた態度とは対照的だ。
おそらく英国人のほうが「人間らしい」欲望なのだろう。
日本人は仙人みたいな風情で、どこかヘンだった。
日本は石油採掘の5%をもらう事になった。
これは日量25万バーレルに相当した。
日露大戦勝利の波紋は、暗黒大陸アフリカにも影響は僅かに及んだ。
南ア共和国、エジプト、エチオピア、スーダン。
これら各国に僅かな日本賞賛の兆しが見えた。
ベルギー領コンゴや独領タンザニアなどの資源地域。
コンゴ地塊、タンザニア・バンヴェル地塊は世界有数の地下資源だ。
彼らが立ち上がれば宗主国のベルギーやドイツは植民地を失う。
西欧植民地の勢力図は大きく塗り替えられるハズだ。
次回は最終回です。




