1908年大日露帝国
英国天才地政学者ハルフォード・マッキンダーは言った「東欧を制するものが、世界を制する」。ユーラシアを制するものは世界の命運を制するのだ。そしてそれは・・・・・・。
ここはホワイトハウスのウエストウイング、大統領執務室だ。
ここに米国大統領セオドア・ローズヴェルトがいた。
彼は「黄色い恐怖の悪魔(日本のこと)」に辟易していた。
日露大戦は日本の勝利に終わり、とうとうロシアを併呑してしまった。
日本が仲介を要請してくる事は、とうとうなかった。
圧倒的勝利と巧みな外交戦術は、単独での講和を可能としていた。
極東に欧米と肩を並べる超巨大国家が誕生しようとしていた。
世界中の人々はそれを「大日露帝国」と呼んだ。
それは俗称でシベリア-ソヴィエトが日本贔屓なだけだ。
フランスはそれを「タタミゼ」といってバカにしていた。
欧米は、かつてモンゴル帝国に滅ぼされかけた。
その悪夢を思い出した国家もあった。
ハンガリーがドイツが、中東ではエジプトが滅亡しかけたのだ。
そして400年後。
今や、日本人が全欧州に王手を掛けようとしていた。
ローズヴェルト「たった36(1868~1904)年だぞ」
それまで袴に丁髷の劣等種族の原住民だった日本人。
アフリカもアラビアもインドもビルマもシンガポールetc。
欧米はいままで多くの植民地を獲得していた。
そして反抗する原住民を屈従させてきた。
ローズヴェルト「だが日本だけは全然違うじゃないか?」
こうなることは誰も予想していなかった。
日本は米国英国に続き、今や世界第3位の海軍国家だ。
だが大日露帝国でなら世界第1位の海軍国家である。
アメリカ大西洋艦隊はあっても太平洋艦隊はない。
パナマ運河は1914~1916年頃に完成予定でまだ交通できない。
ローズヴェルトは日本とは敵対したくなかった。
アメリカ大統領であるから個人の感傷は慎まねばならない。
だが彼はどこか心の隅で日本を信じていた。
ハーバード大学で知り合った日本人、金子堅太郎。
時事問題討論会で堂々と米国の中国人排斥運動を批判した。
また露将マカロフが戦死した際にも哀悼の意を表した。
これは新聞記事になり、世論は日本を支持し始めた。
いかんいかん、世界秩序はアメリカが先導していくものだ。
アメリカが世界に確固たる秩序を齎すのだ。
日本は無防備な太平洋を狙っているだろう。
ハワイ(1898)もグアム(1898)も先に制しておいてよかった。
アメリカは鏡に映る自分の姿を見て勝手に日本を恐れていた。
日本がフィリピンを狙っているとさえ考え恐れていた。
ローズヴェルトは気を取り直した。
「日本がなぜアジアで突出しているのかの考察だった」
考えれば考えるほど、こんがらがってくる。
ローズヴェルト「原因が分からない」
それまで蒸気機関も鉄の船も知らない極東の原住民だったのだ。
日本以外は平らげる事は簡単だったのだ。
米国は米比戦争(1899-1902)でフィリピンを占領した。
この時20~150万人の原住民を殺害した。
やはりフィリピンも躍起になって、工業化しようとした。
そしてこれは、どの植民地もやる事だ。
征服者に追い付こうとするはかない努力だった。
普通はその先が続かないのが当たり前だった。
無知の大海の底に沈み、再び浮かび上がってこれない筈だった。
日本人だけが自らの足で、産業技術の大地にのし上がってきた。
コレはとんでもない事なのだ。
英国天才地政学者ハルフォード・マッキンダーは言った。
「東欧を制するものが、世界を制する」
ユーラシアを制するものは世界の命運を制するのだ。
ローズヴェルト「大日露帝国そのものじゃないか!」
そしてこれは極東アジアだけの問題では無かった。
地球上のすべての国と植民地が日本大勝利の報を知った。
全世界の白人植民地の有色人種たちは日本の勝利に沸いた。
極東の小さな島国、日本が白人の大国ロシアを打ち負かした。
オレたちもできる!、やれる!の絶好の機運だという確信だった。
バルチック艦隊を撃破した時の比ではない。
ローズヴェルト「今、植民地に立ち上がりでもされたら?」
総決起した植民地が立ち上がったらどうなる?
欧州はどうなる?
経済はどうなる?
ローズヴェルト「日本開国なんかしなきゃ良かった」
「あの時ペリー来航なんかしなけりゃ江戸時代のままだったのに!」
大日露帝国は戦勝祝いの世界一周艦隊の設立を発表した。
ローズヴェルトが日本牽制の為の「白船艦隊」を発表する3日前だ。
ローズヴェルト「くっ考える手練手管は同じか!」
日本が世界を惹き付ける前にアメリカ大西洋艦隊のお披露目をする。
そうして日本を牽制しつつ、艦隊の威容を全世界に誇示する。
日本が後から何をしようと二番煎じになるハズだった。
それを先に日本にやられたらぐうの音も出ない。
アメリカが二番煎じになってしまうのだった。
だが二番煎じだろうと、もはや「やるしかない」のだ。
アメリカ大西洋艦隊は1906年建造の新造艦ばかりだった。
日本は日露大戦の1904年以前の旧式艦ばかりのはず。
ここで最新艦で圧倒すれば、まだ起死回生のチャンスはある。
ローズヴェルトはまだ戦艦「薩摩」を観た事がなかった。
パナマ運河がまだ未完のため、南アメリカを巡る航路しかない。
大西洋艦隊は南アメリカ南端マゼラン海峡を回って太平洋に出た。
そしてハワイを経由して日本の横浜にやって来た。
日本は大歓迎ムードであった。
アメリカ人や白船艦隊を一目見ようと黒山の人だかりであった。
滞在は1週間、将校は連日園遊会や晩餐会に招待された。
水兵たちは1日だけ上陸が許され、浅草や上野で観光を満喫した。
戦艦薩摩では東郷平八郎が主催の歓迎会まで開かれた。
東郷平八郎「艦内の写真ですか、どうぞどうぞ」
海軍関係者は必死になって薩摩のCICや艦首バウの写真を撮った。
最近改装したリレー式電子計算機室さえ披露した。
だが真空管式電子計算機(1906)は最高機密で存在さえ明かさない。
モンロー効果を応用した成形炸薬弾と魚雷。
これも断面さえ見せなければ分からない。
この白船艦隊には多くの後日有名になる軍人がいた。
若き日のハルゼー、ニミッツ、スプルーアンスである。
ハルゼーは日清・日露の日本の戦法が気に入らなかった。
東郷とも会ったが特段の敬意は払わなかったようだ。
ニミッツは東郷の毅然とした態度、英会話に感銘を受けた様子だ。
スプルーアンスはニミッツほどではないがやはり敬愛の念を受けた。
この3人は後の日本外交に深く関わってくる。
が、それはまた別の話になる。
こうして夢のような1週間はあっという間に過ぎ去った。
いよいよアメリカ艦隊に随行する形で日本艦隊も出発した。
この日本軍の世界一周艦隊は「旭光艦隊」と呼ばれた。
アメリカ大西洋艦隊のほうが規模が大きかった。
日本旭光艦隊はしかし異様な風貌だ。
考え方がぶっ飛んでいるのだ。
特にCICを持つ薩摩は異質な存在だった。
戦闘指揮所に窓がない!
さらに主砲全自動射撃は注目の的となった。
またトリニトロトルエンも化学式が公開された。
ただし反応温度や薬剤比率までは公開しない。
一般知識としての公開のみである。
白色艦隊チャールズ・S・スペリー少将は独りごちた。
「オレたちはダシにされているのでは?」
行く先々で人々が群がるのは旭光艦隊のほうだ。
マニラ、コロンボ、スエズ、ジブラルタルetc。
予定の航路をこなして、白色艦隊はアメリカへ帰国した。
なんとなく釈然としない様子で去って行った。
旭光艦隊はその後も世界一周を続けた。
ドイツ領タンザニア、英国領ケープ植民地、ベルギー領コンゴetc。
特にタンザニアとケープは鉱山の強制労働が悲惨だった。
植民地支配の収入は植民地課税の税金だ。
換金作物(年貢)のない原住民は無報酬の労働賦役に駆り出された。
これが土木工事やプランテーションの強制労働だった。
中間統治者として読み書きの出来る原住民が選ばれた。
彼らが部族の首長の秘書として辣腕を振るった。
高学の原住民が無学の原住民を使役する最悪の循環が生まれた。
ドイツ人は彼らが税金の5%を手数料として取るのを見逃していた。
これに対する支配者への鬱憤は日増しに高まっていった。
特にタンザニアは爆発寸前で、もう明日にでも暴動が起きそうだ。
大部族の首長より祈祷師・霊媒師のほうが発言権があるタンザニア。
霊媒師キンジキティレ・ングワレは言う。
「Binadamu tupendane mazuri tutendeane」
<ビナダム トゥペンダネ マズリ トゥペンデアネ>
<人は、愛し合い、与え合うべきもの>
ペリー来航で味わった不平等条約「日米修好通商条約」。
40年前のあの辛酸をまだ日本は覚えていた。
欧米は誰も助けてくれず、搾取ばかりだ。
ここで日本ぐらいが援助してもよかろう。
タンザニアの有力部族のンゴニ族に莫大な資金と武器を供給した。
ンゴニ族の大族長ムプタ「こんなにまでしてくれても返せません」
日本人はソロバンを弾いて計算した。
「40年働けば返せるよ」
タンザニアはタンガニーカ岩塊という陸塊に乗っかっている。
宝の山の上に座って気付かないでいる。
そこはシベリア卓状地と同じ何億年も前の地層なのだ。
金、ダイヤ、ニッケル、燐灰石、カーボナイト等が眠っている。
40年は資源の日本への売却による償却期間である。
経済が発達し、流通が整い、産業が活性化すればもっと早く返せる。
こうしてタンザニアへの援助の支度は調った。
黒地に七色の刺繍を施した伝統衣装の戦闘服。
これは4層の特殊縫製による防弾防護服である。
牛皮を張っただけの大盾は拳銃防弾盾となった。
槍は5連装ライフルに銃剣を付けたモノに代わった。
後は機の熟すのを待つばかりとなった。
一方、日本では植民地の有志の者達が「日本もうで」を始めだした。
次回は1908年日本もうでです。




